第290話 悲哀
身動きを取れず、ただ、自身のつま先を見つめ続けていたタシェルは、ふと我に返った。
何が起きたのか、必死に考えようとした彼女は、しかし、事態を把握することが出来ない。
分かるのは、つま先付近に複数の血痕が残されていることと、その血痕が、タシェルの額から零れ落ちていることだけだった。
頭蓋に響くような痛みが、ジワジワと全身に広がり、同時に、強烈な気怠さが彼女を襲う。
今にも倒れ込んでしまいそうなほど、身体のバランスを失いかけた瞬間、彼女は何者に支えられたことに気が付く。
無骨で筋肉質で、優しい腕が、彼女の身体を包みこんだ。
その感触は、彼女が長らく望んでいた温もりであり、希望だったと言えるだろう。
状況の分からない今、不安を抱えているタシェルにとって、その温もりがどれほどの意味を持っているのか、恐らく、オルタは知らない。
相変わらず俯いたままで、オルタの姿を見あげることは出来なかったが、タシェルは彼に全身を預けることにした。
膝や腰が、崩れてしまいそうになる。
しかし、タシェルがその場に崩れ落ちることは無かった。
彼女の身体を全身で受け止めてくれたオルタが、しっかりと支えてくれたからだ。
そんな当たり前の事に、安心と喜びを込めた微笑みを溢しかけたタシェルは、自身の右腕に違和感を覚えた。
「タシェル! タシェル! どうしたの? 大丈夫?」
頭の中に、シルフィの言葉が響き渡る。
近くに居るのだろうか、姿の見えないシルフィを探そうと、狭い視界をくまなく探してみた彼女だったが、シルフィを見つけ出すことは出来なかった。
それでは、といつも通りシルフィに呼びかけを行なおうとしたタシェルは、声を出すことが出来ない事に気が付く。
否、そもそも、彼女の意志で口を動かすことが出来なかった。
タシェルが“彼女の意志で”と結論付けたのには、大きな理由がある。
なぜなら、彼女がシルフィへの呼び掛けを試みた丁度その時、彼女の口が、思ってもいない言葉を並べ立て始めたからだ。
「シルフィ、まず、私の声が他の人に聞こえないようにしてちょうだい。そうしたら、次は私の手に合わせて、オルタさんを吹き飛ばしてね」
間違いなく、自分の口がはっきりと告げる様子を目の当たりにし、焦りと驚きを抱いたタシェルは、ようやく現状を思い出す。
つい先ほどまで、オルタの様子がおかしくなっていた。
そんな彼の事をタシェルは必死に止めようとしていた筈なのだ。
何とか止めることが出来たのか、ハッキリと覚えてはいないのだが、現在彼の腕の中に抱えられていることを考えると、上手く行ったのだろう。
となれば、考えられることは一つ。
『オルタさんを操っていた何者かが、今度は私を操ってる……って事よね』
ひとまずほっと安心したタシェルは、しかし、先ほどタシェルに対するシルフィの返答を聞き、驚愕する。
「分かった! それくらい簡単だよ!」
『シルフィ!? 待って! ダメ! そんなことしちゃダメ!』
慌ててシルフィに呼び掛けようとするが、彼女の心の叫びがシルフィに届くことは無かった。
心なしか、動かせないはずの自身の口が、ゆっくりとニヤケて見せたように感じたタシェルは、次の瞬間、右腕を頭上に上げていた。
それを合図に、オルタの足元で空気が弾け、高々と打ち上げられてしまう。
急激に支えをなくしたタシェルは、そのまま倒れ込んでしまうと思ったのだが、そうはならなかった。
柔らかな空気に支えられ、直立したタシェルは眼前でオルタが着地するのを目の当たりにする。
かなりの高さまで打ち上げられていたのだろう、鈍い音を立てて床に叩き付けられてしまう。
かなりのダメージを受けたように見えたオルタは、若干ふらつきながら上半身を起こした。
彼の表情が驚きと混乱に満たされているのは言うまでも無い。
猛烈な罪悪感と恐怖を覚えたタシェルは、今一度シルフィに呼び掛けてみた。
『シルフィ! お願い! 今すぐやめて! なんでそんなことするの!?』
言いながら、タシェルは自身の右腕が勝手に動き出したことを認識した。
大きく左から右へと薙ぎ払うように振るわれたタシェルの右腕。
そんな彼女の腕に合わせるように、再びオルタが吹き飛ばされてゆく。
二度目ともなると、受け身を取ることが出来たのか、今回はオルタへのダメージも少ないようだった。
かといって、これ以上続けるわけにはいかない。
「タシェル! シルフィ! やめてくれ! 俺だ! オルタだ!」
こちらに向けて語りかけて来るオルタの様子を見ながら、タシェルはより強い焦りを抱いた。
『私の声はシルフィに聞こえない……じゃあどうすれば?』
頭ではするべきことは分かっている。
タシェルの身体を操っている者を見つけ出し、止めさせる。
そうすれば、身体の自由を取り戻すことが出来るだろう。
しかし、そんなことが今の彼女に出来るのだろうか。
まさに、見ることしかできないこの状況で、タシェルは頭を働かせていた。
これ以上、悲惨な状態にならないように。
皮肉にも、タシェルの考えを読んだかのように、彼女の腕が再び動き出す。
下から上へ、大きく、そして勢いよく振り上げられたタシェルの腕。
彼女の様子を見て逃げ出そうとしたオルタだったが、シルフィの追撃から逃げることは出来ない。
軽々と宙に打ち上げられた彼の身体を、タシェルはゆっくりと見上げる。
そこでようやく、タシェルは気が付いた。
振り上げられた右腕が、未だに降ろされていないことに。
途端、その意味を理解したタシェルは、頭の中に浮かんだ考えを、全力で否定する。
『嫌……イヤ! イヤ! ダメ! シルフィ! ダメ! 絶対にダメ!』
虚しく叫びながら、タシェルは一つ、新しく気が付いた。
落下を始めようとするオルタから、視線を外すことが出来ない。
瞼を閉じることも、横を向いて視線を外すことも、手で目を覆うことも。
身体の自由がない彼女にとって、それらの行動をとる権利は与えられておらず、許されているのは、ただ、落下するオルタの姿を見るだけ。
真正面から、妨げるものなく、見るだけ。
まるで、それを見せるためだけに、このような事をしているかのように感じたタシェルは、その瞬間を目の当たりにする。
勢いよく振り下ろされる彼女の右腕と同時に、ものすごい勢いで落ちたオルタが、頭から床に衝突する。
途端、思わず痛みを想像してしまいそうな音が、周囲に響き渡る。
両腕で頭をガードしていたオルタでも、流石にダメージを完全に防ぐことは出来なかったのか、力なく、その場に崩れた。
残されたのは、ピクリとも動かない彼の身体のみ。
あまりにむごい仕打ちを前に、言葉を出せないタシェルは、同時に涙が出ていない事に気が付く。
視線を逸らすことだけでなく、涙を流すことさえ許されない。
そんな理不尽な状況に憤りとやるせなさを感じた瞬間、タシェルは胸元に強い衝撃を覚え、ふと視線を落とす。
赤くテラテラと輝く枝が、彼女の胸を貫いていた。
「何が……」
思わず漏れ出た呟きと穏やかなさざ波を耳にしたタシェルは、勢いよく視線を上げる。
そこには、朗らかに談笑するオルタとカリオスの姿があった。
「カリオスさん!? オルタさん!? え? どうなってるの?」
ミスルトゥの内部にいたはずなのに、気が付けばあの時の海岸に立ち尽くしていることに気が付いたタシェルは、思わず声を張り上げた。
そんなタシェルに気が付いたのだろうか、オルタがゲラゲラと笑いながら告げる。
「タシェル! よかった、また会えたぜ! なぁ、俺思ったんだけどよ、きっと全部夢だったんだ。だからよぉ、ここでやり直さねぇか?」
「夢……?」
のんきにそんなことを言ってのけるオルタに、短く返事をしたタシェルは、ふと、彼の隣にいるカリオスの表情を見た。
悲しみと切なさと、ほんの少しの呆れを含んだ彼の眼差しを見て、彼女は口を噤んだのだった。
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