第229話 雲泥

 近くに転がっていた荷物へと駆け寄ったカリオスは、若干震えている手を酷使しながら、目当ての物を探した。


 背後では倒れてしまっているオルタをタシェルが診ている。


 先程までは元気を見せていたミノーラやクリスも、意識を失ってしまっているオルタを見て、心配そうに様子を見ていた。


 大きなリュックの中に手を突っ込み、タシェルから言われた綺麗な布と水筒を探し当てたカリオスは、すぐに手に取ると、タシェルの元へと走る。


 無言で手渡されたそれらを、ぎこちない手つきで受け取ったタシェルは、傷口を洗浄し始めた。


 濡れた布でオルタの背中に広がっている血液を拭き取り、傷の様子を見ようとしているようだ。


 しかし、思っていた以上にオルタの傷は酷い物のようで、拭いても拭いても血液が溢れてきている。


 その様子を見ていられなくなったカリオスは、水で手を洗うと、タシェルの手伝いを始める。


 とは言え、出来ることは左程多くは無いように思えた。


 何より、こんな場所に十分な薬があるわけもなく、そのうえ、タシェルも本業の医者と言うわけでは無いのだ。


 腰のポーチから幾つか薬草を取り出しているタシェルの様子を眺めながら、カリオスは嫌な考えを抱いてしまう。


『もう、無理なんじゃ……』


 みるみるうちに血色が悪くなってゆくオルタの姿を見ていると、そんな考えが頭に過ってしまう。


 そして、そんな考えを否定できるような材料を、今のカリオスは持ち合わせていなかった。


 どうしようもない。


 何もできない。


 それは、今まで何度も感じてきたものであり、二度と感じたくなかったもの。


 どれほど願っても、彼の願いが聞き届けられることは無く、こうして再び、失ってしまうのだ。


 まさしく絶望に叩き落とされたような感覚に陥りながら、カリオスは思い出す。


 つい先ほどの事。


 蛇に囲まれた状態で、カリオスがもう駄目だと諦めた時。


 そんな状態でも、オルタは諦めることなく、自身の命を捨ててまで、二人のことを守ろうとしたのだ。


 それに比べてどうだろう。


 蛇の姿が見えなくなり、オルタに守られていると分かった時。


 ホッと安心を抱いていた自分が居た。


 そして今も、もがくことなく、ただ目の前で弱って行くオルタの姿を見て、諦念を抱くだけの自分。


 雲泥の差では無いだろうか。


 本当に、彼と自分は仲間なのだろうか。


 思わずそう思ってしまう程に、カリオスは自身の情けなさを痛感していた。


 気が付けば、膝を付いた状態でオルタのことを見下ろしていたカリオスは、何かが目から溢れていることを感じながら、タシェルを見る。


 歯を食いしばりながらも、何かの薬を調合しようとしている彼女は、目から大粒の涙を流しながら、何かを言っていた。


 しかし、カリオスにはその言葉が聞き取れない。


 否、周りの音全てが聞こえなかった。


 項垂れているミノーラの呼吸音も、オルタに縋りついて泣きわめいているクリスの声も。


 何一つ、聞き取ることが出来なかった。


 ゆらゆらと揺れる松明の灯りの中で、泣いている三人の声は、確かに空気を揺らしているはずなのに。


 せめて、声を上げることが出来たなら。


 三人と一緒に泣いて喚くことが出来たなら。少しは変わったのだろうか。


 そんなことをカリオスが考えた時、彼は不意に大きな音を聞き取った。


 突然聞こえてきた、バリバリと言う音を耳にしたカリオスは、勢いよくそちらへと目を向ける。


 存在感はあるはずなのに、空気と化していたアイオーンが、近くに転がっていた蛇の死体を食べ始めていたのだ。


 大きな口を開け、丸ごと蛇を頬張った彼は、咀嚼しながらカリオス達の様子を見ている。


『……なに、喰ってんだ』


 彼のその姿が、行動が、表情が。


 この場の空気に合わない、のんきなものに見えたのだ。


 だからこそ、カリオスは憤り、思わず立ち上がって殴りかかろうとしてしまう。


 しかし、彼がそれを行動に移すことは無かった。


 厳密には、行動に移すことが出来なかった。


「ちょっとごめんよ」


 カリオスが立ちあがるよりも前に、そう呟いたアイオーンは、口から息を吐き出したのだ。


 それらの細い息は優しく、そして、暖かくカリオス達を包むと、ゆっくりと消え去ってゆく。


 全身でその息を受けたカリオスは、特に何も起きないことに疑問を浮かべながら、アイオーンへと目を向ける。


 平然とした様子のアイオーンは、どこか嬉しそうに首を傾げると、頭でリズムを取り始めている。


『なんだ? 何をした?』


 カリオスが思わず心の中でそう呟いた時、タシェルが声を張り上げた。


「オルタさん!? オルタさん! よかっだぁぁぁ」


 全力で泣きじゃくりながらオルタへと抱き着き始めたタシェル。


 そんなタシェルの抱擁を受け、少しばかり恥ずかしそうなオルタが、上半身を起こしてこちらへと目を向けている。


「お? な、なにが起きたんだ?」


 状況を掴めていない様子のオルタは、号泣しているタシェルの背中を撫でながらも、カリオスに目を向けて来る。


『それはこっちのセリフだ……』


 目頭が熱くなるのを感じながらもオルタへと歩み寄ったカリオスは、嫌がらせの意味も込めて、オルタの頭を強く叩く。


「いてぇ! なにすんだ!」


「オルタさん! よかった! よかった!」


「オルタ! マジで死んだっち思ったばい!」


 ミノーラとクリスも、オルタに擦り寄りながら、涙を流している。


 その様子をひとしきり眺めたカリオスは、一つため息を吐くと、アイオーンへと目を向ける。


 少しばかり得意気な雰囲気を出している彼は、カリオスと目が合うと、ニッコリと笑みを浮かべた。


 牙がむき出しになっているその笑みは、しかし、とても柔らかな笑みに見えてしまう。


『アイオーンか……ほんとに、俺の常識を悉く壊していくな……』


 心の中でそうぼやいてみたものの、彼はアイオーンに対して感謝以外の感情を抱けなかった。


 そこでようやく落ち着いたのか、タシェルが目元を拭きながら立ち上がると、アイオーンに向けて告げる。


「アイオーン。あの、ありがとう。本当にありがとう。どうやったのか分からないけど、本当に感謝してる」


「いいよいいよ! 僕も、誰かの助けになれるのは嬉しいから。いやぁ、それにしても、訓練も無駄じゃなかったってことだね。実際にしたのは初めてだったけど、何とかなったよ」


「訓練?」


 本当に嬉しそうに答えたアイオーンに対して、タシェルが短く問い返す。


 そして、少しばかり何かを考えた彼女は、続けざまにアイオーンに話しかけた。


「ねぇ、アイオーン。 どうやってオルタさんを助けたの?」


「うーんとね、僕はニオイを嗅ぐことが出来るから、身体に入った危ない物とか、汚いものを嗅ぎ分けることが出来るんだ! だからね、オルタの体に広がってた毒を、無理やり追い出したんだよ!」


「無理やり追い出した? どうやって?」


「タシェルも連れてるじゃないか。精霊の力だよ? 多分、僕と同じ力が使えると思うから、練習すれば出来るんじゃない? あ、それと、傷を塞ぐためにそこの蛇からちょっと命を貰って、オルタから漏れ出てた分を補充しておいたからね」


 アイオーンの言葉を聞いたカリオス達は言葉を失った。


 デタラメとはこのことだと言われれば、信じてしまうだろう。


 しかし、目の前のアイオーンが嘘をついているとは思えない。


 ましてや、オルタが目の前で回復してしまったのだ。


 そうして沈黙が流れる中で、カリオスは一つの事を思いだしていた。


 それは、エーシュタルで見た本の中身。


 生命エネルギーのマイナスとプラス。


 命の吸収と、放出。


 思いだしたと同時に、カリオスは一つの可能性に辿り着く。


 その可能性が、何を意味しているのか。


 カリオスがそこまで考えを巡らせるのは、もう少し後の事なのだった。

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