第213話 火矢
階段を上り始めてすぐ、クリスはミノーラの言葉で足を止めた。
制止するように促してきたミノーラは、階段の途中で待っているようにとクリスに告げると、そのまま影の中へと姿を消す。
必然的に一人になってしまったクリスは、息を潜めながら、自身の鼓動を聞き取ることしかできなかった。
灯りがあるわけでもない真っ暗闇の中、たった一人取り残されたのだ。
自然と鼓動が早くなるのは当然のことだろう。
そうやって自身を落ち着かせようとしていたクリスは、階段の上の方から、複数人の足音が響いてくることに気が付いた。
こんなところに誰が?
そう考えたクリスは、つい先ほどまで居た広場の光景を思い返し、身を縮める。
『もうこんな下まで追いかけて来たっちことか?』
徐々に近づいて来る足音に意識を集中しながら、階段の端っこへとにじり寄った彼は、力一杯に手すりを握り締めた。
そこでふと、短刀のことを思いだしたクリスは、腰のそれに手を当てながら、自身の馬鹿さ加減に呆れた。
広場から逃げ出すとき、なぜ腰の短刀に気づかなかったのだろうか。
確かに、両手を後ろで縛られていたため、容易に使うことは出来なかっただろう。
しかし、両手の自由を取り戻した後に、自分の身を守る事には使えたはずだ。
そうすれば、こんな場所に落ちることも無かったかもしれないのだ。
『次こそは……』
心の中でそう念じたクリスは、ゆっくりと短刀を抜き取ると、身を屈めた状態でそれを構えた。
彼の眼は、まっすぐに階段の最上段を睨みつけている。
ぼんやりと明るい松明の先端が、最上段から姿を現したその時、クリスは階段の上の道で、何かが駆け出した音を聞き取った。
軽くはじけるようなその足音を聞いたのだろうか、松明の灯りが慌てた様子で遠ざかってゆく。
結構速い速度で遠ざかって行く複数の足音を聞いていたクリスは、途中でぱったりと音が止んだことに気が付き、恐る恐る階段を上った。
階段を上った先には、かなり広い部屋があった。
部屋の壁には全部で三つの扉があり、階段から見て東と正面と西に一つずつ。
そんな扉を右から見回したクリスは、部屋の中央に倒れている人影を見つける。
傍にはミノーラが居るので、恐らく、彼女がやったのだろう。
周囲への警戒を怠ることなく、ゆっくりと部屋へと上がったクリスは、短刀を構えたままミノーラに語り掛けた。
「殺したん?」
「いいえ、死んではいないですよ。ちょっと頭を打っただけなので、大丈夫だとは思います。それより、ほら、これ見てください」
そう言うと、ミノーラは倒れている三人の猿人達を鼻先で示した。
言われるがままに様子を見たクリスは、三人が持っている物を見て、唾を飲み込んだ。
「弓矢……剣もあるばい。こいつら、こんなところで何しよったんやろ?」
「見た感じ、見回りみたいですね。武器と松明を持って、練り歩いていたので」
「見回り? ってことは、この近くにこいつらが住んでたっちこと? 村でもあんのかよ」
「可能性はありますね」
そう言ったミノーラは、何やら耳をピクリと動かすと、クリスへと視線を投げてきた。
その仕草で全てを察したクリスは、すぐさまその場を立ち去ろうとするが、思い返したように、倒れている一人から弓矢を貰うことにする。
「クリス君! 急いでください!」
既に階段のところまで戻っているミノーラが、小声で声を掛けてくる。
その声に急かされたクリスは、何本かの矢を落としながらも、弓矢を持って階段へと駆け戻った。
落ちた矢が部屋中に乾いた音を響き渡らせ、それに釣られるように、数人の足音が勢いよく近付いてくる。
そうして、猿人達が正面の扉を開けて入って来た時、クリスは何とか階段へと身を隠すことに成功した。
荒ぶる呼吸を抑えながら、足音に耳を傾けるクリスは、再び手すりを強く握りしめている自分に気が付いた。
『手すりを握ってる場合じゃないやろ……しっかりしろ』
心の中で自分を鼓舞すると、弓矢を構える。
恐らく、猿人達は不自然に転がっている矢を見て、階段が怪しいと考えるだろう。
そうやって階段を覗き込んで来るところを狙うために、彼は階段の上へと狙いを定めて、弦を引き絞った。
いつも使っていた弓より、少しばかり弦の張りが強いのか、引いている右腕がプルプルと震える。
しかし、今更緩めるわけにもいかない。
『来るなら来い!』
そう頭の中で念じたクリスは、先ほどと同じような音を耳にする。
それはすなわち、ミノーラが猿人達に襲い掛かったことを意味していた。
一緒に階段を降りていた筈の彼女は、いつの間にか影に入り込み、部屋へと戻っていたようだ。
ミノーラが居るなら大丈夫。
ふと沸き上がった楽観的な感想をクリスが抱いた時。
彼は、明るい何かが視界を横切ったことに気が付く。
『なんだ? 今の』
一筋のその光は、勢いよく石の壁に衝突すると、弾かれて床に転がった。
次第に本数の増えていったその光のうち、一本が階段の方へと転がってくる。
それを見たクリスは、何が起きているのかをすぐさま理解した。
『火矢? ばってん、なんで……』
一瞬浮かんだ疑問は、瞬く間に消えてなくなった。
考えるまでも無い。
火と言うことは、そのまま灯りを意味している。
それが何を意味するのか、ミノーラのことを知っているクリスにとって、これほど分かりやすい答えは無いだろう。
焦りを抱いたクリスは、恐る恐る部屋の様子を伺う。
松明を持った5人の猿人達が、倒れている3人を守るように弓矢を構えている。
番えられている矢は、どれも火矢で、部屋のあらゆる方向へと向けて放っているようだ。
肝心のミノーラがどこにいるのか分からなかったクリスは、目を凝らしてみるが、やはり部屋のどこにも彼女は居ないようだ。
「どこいった……」
思わず小さく呟いた彼は、背中に何かが触れてきたことに驚き、飛び上がりそうになった。
慌てて身を隠して背後を見たクリスは、すぐ後ろにミノーラの姿を見つける。
「すみません。やっぱり戦いにくいですね」
そう言うミノーラは、少しばかり息を切らしているようだった。
次第に部屋は火矢のせいで明るくなり、二人は一旦階段を降りることにしたのだった。
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