第212話 寝息

 しばらく暗闇に居たおかげか、ぼんやりと見え始めてきた視界で、クリスは眼前の建造物を見上げた。


 どれほどの高さを落ちて来たのだろうか、見上げても天辺の様子を伺うことが出来ない。


 先程までいた広場から漏れ出ている光も、針の先端程の大きさにしか見えなかった。


「一番下まで落ちちまったな……ミノーラ、これからどげんする?」


「そうですね、影の中に入って昇っても良いですけど、結構時間かかりますよね。」


 ミノーラの言葉を聞いたクリスは、先ほど見た光景を思い出す。


 真っ暗な世界に取り残されたようなクリスとミノーラの足元に、上下が反転した世界が映っていたのだ。


 音のないその世界をひたすらに上って行くのだと考えると、クリスは気が滅入りそうだと思った。


「そもそも、俺はミノーラみたいに影を歩けんよ。上るにしてもどっか階段を探さないかんし……」


「あ、そうでしたね。それだったら、私の尻尾に掴まっててくれたら、引っ張り上げますよ?」


 恐らくミノーラは、尻尾の吸着する力のことを言っているのだろう。


 確かに、マリルタで吸収した力の精霊の能力を使って、ミノーラに引っ張ってもらえれば、楽になるのかもしれない。


 しかし、それはつまり壁を上っている間、宙ぶらりんになる事を意味するのだ。


 その様子を想像したクリスは、落下時の恐怖を思い出し、身震いしながら即答した。


「遠慮しとく」


「そうですか? じゃあ、この建物の中に入って、上がる方法を探すしかないですね。どこかに入口は無いかな……」


 そう言いながら歩き出したミノーラについて歩きながら、クリスは周囲へと目を向ける。


 少し目が慣れたとは言え、暗闇の中を無作為に歩くのは危険だ。


 足元に転がっている石を蹴とばし、ゆっくりと歩いているクリスは、少し先に棒状の何かが落ちていることに気が付いた。


 目を凝らしながら棒に近づいた彼は、それを拾い上げる。


 拾い上げたそれは、どうやら少し太めの角材だったようで、かなり古いものなのか、埃っぽい手触りをしている。


 クリスは角材で地面を何度か叩いてみた後、杖のように持ち、先を急いだ。


 足場が悪い場所を避けながら、杖を頼りに建造物の壁へと歩み寄る。


 左手を壁に付き、今しがた進んできた方を振り返ったクリスは、何やら強い衝撃音を感じた。


 少し上の方から聞こえてきたその音は、クリス達のいる場所よりも西で発生したようで、大量の瓦礫が落下する音のようだった。


 少し離れた位置に大量の瓦礫が落ち、その衝撃がクリス達の足元を揺らす。


 体勢を崩さないように身を屈めて様子を伺ったクリスは、衝撃が止んだことを確認すると、先へ行っているミノーラに声を掛ける。


「ミノーラ!? 無事か?」


「はい! 私は無事ですよ! 少し上の方で何かあったみたいですね。何かが這ってる音が聞こえます」


 戻って来たミノーラは、クリスのすぐ隣に立つと、上を見上げながら告げた。


 その言葉を聞いて、クリスは疑問を投げ掛ける。


「這ってる?」


「この感じは、多分蛇です。でも、なんだか大きいような……」


「蛇? こっちに来ると?」


「……いえ、引き返していきました。西の方に行ってるみたいなので、私たちは東に向かいましょう! きっとカリオスさん達も東に向かうはずですから」


「わかった」


 その言葉を皮切りに、二人は壁沿いに東へと歩き始めた。


 先程の落石もあったため、なるべく離れないようにしながらも、周囲の様子を伺う。


 灯りの無い状況で、クリスの目はあまり役に立たない。


 対するミノーラは、この暗い状況でも周囲の様子が見えるようで、少し歩いた頃には、建物の入口を見つけ出した。


「結構大きな入口がありますね。入口の前に階段があるみたいなので、足元に気を付けてください!」


 言われるがままに、杖で足元を確認したクリスは、ゆっくりと階段を上る。


 それ程段数があるわけでは無いその階段は、入口から放射状に広がるような形状をしているらしい。


 あまりに精巧な作りのその階段を見て、クリスは驚きながら入口へと目を向けた。


 精巧に作られた階段とは打って変わって、入口は酷いありさまだった。


 暗くて良く見えないが、それでも大きく崩れている様子は伺える。


 元々巨大な門でもあったのか、頑丈そうに見える門構えは、しかし、大きく穿たれた穴によって、門の機能を失っていた。


「何があったんでしょうか……」


「さぁ……何かが通った跡みたいやな」


「こんな巨大な穴を開ける何かですか……? ちょっと怖いですね」


「ちょっとどころか、バリ怖いわ!」


 思わず声を上げてしまったクリスは、慌てて口を噤むと、周囲へと目を向ける。


 動き出す影は見当たらなかったことに安堵した彼は、ため息を吐くと、一歩を踏み出した。


「急いで登る道を探すばい」


「そうですね」


 穿たれた穴をくぐった二人は、今一度建物の中を見渡した。


 中には灯りは見当たらず、壁と同じような石造りの階段が、壁に沿って作られていた。


 その階段の先は二階のようで、上がらないと様子を伺うことは出来ない。


 そんな階段の内の1つに歩み寄った彼は、恐る恐る杖で叩いてみる。


 石造りとは言え、もろくなってはいないかと考えたクリスは、思った以上に頑丈な様子の階段を見て、頷く。


「昇れそうばい。ミノーラ、ここから行こう」


 そう告げたクリスは、背後で何かを見ているミノーラに声を掛けた。


 すぐに返事があると思っていたクリスは、しばらく黙り込んでいるミノーラの様子に疑問を抱き、彼女の傍へと歩み寄る。


 ミノーラの視線はとある一点へと注がれているようで、気になったクリスもそちらへと目を向けるが、暗くて良く見えなかった。


「ミノーラ? どうしたん?」


「静かに! そこに、大きな穴が開いてるんですけど……中から音が聞こえます」


「え?」


 言われて目を凝らしたクリスは、確かに、床が大きく抉れていることに気が付いた。


 思わず唾を飲み込んだクリスは、恐る恐る穴へと近付いてみる。


「クリス君!? ちょっと、危ないですよ!」


「大丈夫。ちょっと覗くだけばい」


 小声で交わした声が、妙に周囲の空気を振動させている気がしたクリスは、更に気を引き締めながら穴へと近付く。


 そうして、穴の傍へと辿り着いたクリスは、ミノーラの言う通り聞こえてきた音を耳で捉えながら、そーっと穴を覗き込んだ。


 まるで寝息のようなその呼吸音は、穴の奥から響いてくる。


 しかし、かなり深く、そして湾曲している穴の奥の様子を、クリスの目では捉えることは出来ない。


 いつの間にか傍まで来ていたミノーラも穴を覗き込んでいるが、流石に湾曲していては奥まで見ることが出来ないようだ。


 一呼吸おいてお互いに顔を見合った二人は、すぐに穴から離れると、階段へと歩を進めたのだった。

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