第139話 羨望
ミノーラ達の乗った小舟が砂浜へと辿り着いた頃には、昼を回っていた。
嵐が収まり、波も穏やかな海とはいえ、手漕ぎの船にしては明らかに速すぎる到着である。
それはひとえに、シルフィのお陰である。
「やっと着きましたね。私、船はちょっと苦手かもです。」
我先にと砂浜に飛び降りたミノーラは、全身をブルブルとほぐした後に溢す。
「大丈夫たい。普通の船はここまで揺れることはないけん。ばってん、やっぱ精霊の力はバリ凄いな。」
すこし顔色の悪いハイドが、ミノーラに続いて降りてくる。その後ろから降りてきたタシェルはというと、二人とは対照的になんともないようだ。
「二人とも大丈夫?」
タシェルはミノーラ達のことを気遣いながら、シルフィに指示を出していた。
指示を出されたシルフィが船を撫でるように触ると、操られた船が砂をかき分け、陸に乗り上げた。
その様子を見たミノーラは、もう海に思い残すことは無いと言わんばかりに、集落のある方へと目を向ける。
海風の影響で、今のところ変な臭いや音は聞こえてこない。しかし、まだ安心はできない気がする。
すっかり晴れ渡っている空が、既に嵐が過ぎ去って行ったことを示している。しかし、嵐とは大抵、何らかの爪痕を残していくものだ。
ミノーラでも知っている自然の摂理は、今回どのような痕を残していったのか。
少しばかりの不安を抱えた彼女は、そそくさと歩を進めた。
防風林の中に作られた細い道に入った途端、彼女はその場に充満しているニオイに気が付く。
それは、後ろを歩いていたタシェルとハイドでさえ気付いてしまう程に、強烈で不快な香りだった。
ミノーラにとってその香りは、狩りの成功か仲間の怪我を意味する香りであり、吉凶どちらともとれるものである。
しかし、これほどまでに強烈な香りが、何かいい兆しだとは到底考えられなかった。
「私が先に行って様子を見てきます!二人は警戒しながら後から着いて来てください!」
それだけ言い残した彼女は、逸る気持ちに応えるように地面を蹴り、飛ぶように駆けた。
徐々に近づく強烈な香りに、最悪な光景を連想してしまう。
そして、その連想は現実のものとなってしまった。
「……そんな。」
少し前まで雨が降っていたのだろうか、地面は濡れ、木々の葉には雫が溜まっている。
そんな道端に、幾人もの人間が倒れていた。
倒れている人々には既に生気など感じられず、肉塊となり果てている。そんな遺体を取り囲むかのように、大量の血液が雨に流されすに、血だまりを作っていた。
逆に言えば、雨ですら洗い流せないほどの流血が、ここで起きたという事だろう。
そんな血だまりにうずくまり、涙を流している人が、数名いる。
そんな彼らも、体のいたるところに傷を負っているようで、誰一人として無傷な者はいないようだった。
「何が……カリオスさん!オルタさん!」
何が起きたのか、説明を求めようとしたミノーラは、不意に思い至る。説明をしてくれるであろう彼らも、無事である保証は無いのだと。
そんな考えが頭を過った時、彼女はこみ上げる何かを抑え込みながら、声を張り上げ、集会場めがけて駆けだした。
集落の真ん中を走り抜けるミノーラを見て、人々が顔を上げ、視線を投げてくる。
その視線に何が籠っているのか、彼女は理解する暇もないままに、集会場の前へと辿り着いた。
そして、見覚えのある人影を目にし、思わず立ち止まる。
「……オルタさん?」
一際大きな図体の男が、横たわっている。
体中から出血しており、到底無事には見えない。
乱れた頭髪と投げ出された四肢を見るに、無抵抗だったわけでは無いのだろう。
一目した時から、その絶望的な光景に、思わず最悪な想像をしてしまったミノーラ。しかし、オルタの肩がピクリと動いたのを目にし、すぐさま駆け寄る。
「オルタさん!無事ですか……。」
身体の丈夫なオルタは無事だった。そう勘違いしたミノーラは、覗き込んだ彼の顔を見て、再び言葉を失う。
「……すまん……すまん……すまん。」
腫れあがった目と鋭く裂けている頬。目にするだけでも痛みが伝わるような状態で、彼は歯を食いしばりながら号泣し、何かを繰り返し呟いている。
そんな様子を見ただけでも、ここで起きた事の悲惨さが、残酷さが伝わってくる。
「オルタさん!」
そんなオルタの様子を見ていることしかできなかったミノーラのもとに、タシェルが駆けつけてくる。
そっと髪を撫でつけながら、何かを語り掛けている。が、ミノーラはそれを聞く余裕がなくなっていた。
「親父!どこ行った!親父!」
ザムスを探しているのか、ハイドが声を張り上げながらこちらへと近づいて来ている。
ミノーラはオルタのことをタシェルに任せると、集会場へと目を向ける。
充満している血液の香りの中に、カリオスの香りが混じっている。
どうやら集会場の方から漂っているそれに引き寄せられるように、ミノーラは集会場の入口へと向かった。
そして、玄関口に倒れ込んでいるカリオスを見つける。
全身傷だらけで、出血もひどい彼の姿を目にし、ミノーラは項垂れ、目を閉じる。
微かな息遣いが聞こえるため、まだ息絶えてはいないのだろう。しかし、安心できるわけが無い。
何が起きたのか、言葉は発さずとも、いつものように教えてくれると思っていた彼は、意識を失って倒れている。
スーッと鼻筋を何かが伝って行くことに気が付いたミノーラは、ふと目を開けると、視線の先に水滴の跡が残っていた。
その水滴が、まぎれもなく自身の瞳から零れていることに気が付いたミノーラは、羨んでいた自身の浅はかさを知り、悔いる。
これが望んでいたことなのか。
悲しみを皆と共有したいと、思っていたことに、憤りを感じる。
悲しみなど、無い方が良いのに。
それでも、悲しみは存在しているからこそ、人はそれを共有し、薄めようとするのかもしれない。
今更気づいたところで遅すぎる現実と、変えようの無い結果を前に、彼女は声を上げて泣くことしかできなかった。
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