第115話 朗読(追憶)

 暗くゴツゴツとした岩壁が、視界一杯に広がっている。


 脈動に合わせて頭に響き渡る痛みと、凍えそうな寒気、そして、感覚の無い両足。


 何もない状態から唐突にあふれ出したそれらの情報が、サムの頭を独占し、今にもはちきれそうになる。


 何がおきたのか、何をしていたのか、何がどうなったのか。何一つ分からない。分かるのは、自分が生きていることと、腕だけはまだ動かせるという事だ。


「な、にが……」


 いつもの癖で軽口を叩こうとしたサムは、思うように声を出せなくなっていることに気が付き、喉の奥でつっかえている何かを吐き出そうとするように咳込んだ。


 大量に飲み込んでいたであろう水を吐き出しきった彼は、回らない頭で周囲を見渡してみる。


 その場所には見覚えがある。例の洞穴の入口だ。


 こんな場所に打ち上げられたのだろうか、そんな奇跡があるのだろうか、そんな風に考えていたサムだったが、ふと何者かがこちらをじっと見つめていることに気が付く。


「お……まぇ……か?」


 転がっている岩の横でこちらを凝視している海亀に向かって問いかける。当然、返事があるわけでは無いのだが、この時のサムにはその亀が彼のことを心配しているように見えた。


 そんな彼の直感を裏付けるように、海亀がのそのそとこちらへと歩み寄ってくる。


 サムの頬に頭の天辺をこすりつける様子は、なにやら絆のような物を感じてしまう。


「お……まぇ、あ……あの……ときの……?」


 じゃれついて来る亀の甲羅に、何やら傷跡があることを確認した彼は、喉が痛むのも構わずに呼び掛けた。


 そうしてしばらく亀とじゃれていた彼は、外の様子を眺めながら、少しずつ思い出し始める。


 荒れ狂う海と、降りしきる風、吹き抜ける暴風。どれもがキュームの作り出している状況で、キューム自身もかなり様子がおかしかった。


 未だに荒れている外の様子を見るに、彼女が消えたわけでは無いことが分かる。しかし、到底無事と言える状態でないことは彼にも分かった。


 同じく、自身の状況も芳しくないことを悟った彼は、今一度海亀に向かって語り掛ける。


「……なぁ、おれ……を、おく……に……つ……れて……いって……。」


 最後まで言い切ることが出来ず、咳込んでしまう。仕方なく、右腕で洞穴の奥を指差し、海亀の甲羅を優しくなでてみる。


 これで本当に意志の疎通ができるとは彼自身思っていなかった。


 しかし、不思議なことに、その海亀は彼の意思をくみ取ったのか、背中に乗れと言わんばかりに洞穴の方へと頭を向ける。


「あ……ん……がと。」


 まだ動く両腕で、動かなくなった下半身を引きずりながら、何とか海亀の甲羅にしがみついた彼は、自身の手が思うように動かなくなっていることに気が付き、一抹の不安を抱いた。


 あとちょっと。あとちょっとだけ待ってくれ。まだやり残したことがあるんだ。このまま、息絶えるわけにはいかない。


 心の中で必死に念じる彼は、海亀のゆっくりとした速度にいら立ちを覚えつつも、それを態度に出す元気もないまま、ただ揺られることだけしかできない。


 もうじき、俺は死ぬ。


 深く考えるまでも無く、自覚してしまう。生気が、体中のいたるところから抜けていくのを感じている彼にとって、言葉にするよりも黙り込んでいる方が、事実が腑に落ちていた。


 しばしの間、まどろむ意識の中で海亀の動きに揺られる。頬に感じるひんやりとした感触は、どこか両足から感じる虚無感に似ている。


 そんなことを考えていると、池のある広間へと辿り着き、亀が動きを止めてしまった。


 サムはすぐさま海亀の甲羅を叩き、壁際にある大きな岩付近を指差した。


「……あ、そ……こ……。」


 そんな彼の指示通りに、海亀が動き始める。


 広間の天井に空いている穴から降り込んでいる雨が、サムの全身を濡らし、吹き込む風が体温を奪ってゆく。


 しかし、全身を震わせる程の元気も無い彼は、自身の吐息ですら、冷たくなっているように感じられた。


 もうあまり時間は無い。


 やはりゆっくりと歩いて行く亀に対し、沸々と怒りが湧き上がってくる。そんな怒りは、心なしか、彼の体温を上げることに役立ったのかもしれない。


 ようやく目的地へと着いた彼は、すぐに海亀の甲羅から転がり落ち、置いていた手帳の元へと這い寄った。


 ペンを取り、手帳を開いた彼は、真新しいページに折り目を付け、一言目を書きなぐる。


『結論から言おう。私は遭難した。』


 書いた後に、その文章がどこか仰々しく感じた彼だったが、書き直すことはせず、この島であったことを物語調で書き連ねて行く。


 どれだけの時間、手帳に書き加えていたのか分からない。全力で書き殴った文章を読み返すことなく、彼は最後に一文を追加する。


『追伸。言葉を話す海亀に出会ったら、よろしくしてやってくれ。そいつは俺とキュームの子供みたいなもんだからな。頼んだぜ。』


 書き終えた手帳を閉じ、ペンを置いたサムは、心の中で懺悔した。とめどなく溢れる温かな雫が頬を伝い、彼の体温を奪ってゆく。


 そんな彼の傍に、海亀が寄り添ってくる。なぜこいつがここまでしてくれるのか、全く理解できないけれど、心からの感謝を誓った彼は、腰のナイフを左手に取る。


 空いた右手でズボンのポケットから取り出したクラミウム鉱石を握り締めると、再びじゃれてきた海亀に右腕を回し、ひとしきり甲羅を撫でた。


 ゴツゴツとした甲羅の感触を覚えながら、天井に空いた穴を眺めた彼は、ふと思い出す。


 読み聞かせてやれなかったな……。


 涙も、振り上げた左腕も、荒れ狂う嵐も。何一つ止めることが出来ないまま、彼の意識は途絶えたのだった。

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