第113話 猛獣(追憶)

 右足の痛みは引くことなく、むしろ、時間が経つにつれて深くなっていく気がした。


 サムは右足の裾をまくり上げ、傷の様子を確認する。しかし、確認したとしてもできることは特にない。


 ただ気分の悪さを自分で増しただけで、状況は悪化する一方だ。取り敢えず、肩にかけていた網をナイフで切り、ロープを一本作ると、踝の上を強く締め付ける。


「ぐあっ!」


 締め付けた圧力が若干、傷口に響いたことで猛烈な痛みが走り、思わず声が漏れた。


 呼吸が徐々に浅く速くなっていくにつれ、全身から汗が噴き出してくる。そんな自分に気が付いた彼は、ひとまずは落ち着くことに専念した。


 座り込んだまま目を瞑り、顔を上げ、瞼で空を見る。


 瓦礫の下には、未だに狼の群れが待ち構えているのだろうか、獣の息遣いと、歩き回る足音が聞こえてくる。


 彼がやって来た森からは木々のこすれる音や鳥の鳴き声が風に乗って聞こえてくる。


 もっと遠くの音を感じたいと考えたサムだったが、流石に波の音は聞き取ることが出来なかった。


 薄っすらと目を開け、すぐ隣にキュームが居ることを期待してみるが、そんな彼の期待は、得体のしれない音にかき消されてしまう。


 森の方から再び響いて来る、獣の咆哮。


 先ほど耳にしたものと同じものが、島中に響き渡る。この一週間、こんな咆哮は耳にした覚えがない。正体の分からない、何か。


 ふと、彼は嫌な予感を覚えた。


 キュームはなぜ戻ってこない?精霊である彼女は、基本的に普通の生物に害をなされることは無い。


 だからこそ、彼女に偵察をお願いしたし、彼女も引き受けたのである。


 だが、今この島にいる何かは、彼らにとって得体のしれないものかもしれないのだ。聞いたことの無い咆哮がその証拠である。


 彼女も無事では無いかもしれない。


 そんな不安が彼の脳裏を過る。


「キューム!無事か!頼む返事をしてくれ!姿を見せてくれ!」


 気が付けば、彼は叫んでいた。この声を聞きつけて、得体のしれない猛獣がやってくるかもしれないと考えるが、そんなことはどうでも良い。


 猛獣に聞こえるのなら、キュームにも聞こえるはずだ。


 そんな彼の期待に応えるように、上空からキュームがフラフラと降りて来る。


「……ごめん。サム。見つかった。あいつが着いて来る。早く逃げないと。」


 そう口にしたキュームを見ながら、サムは視界の端でそれを捉える。


 熊のような巨体と、獅子のようなたてがみ、蝙蝠のような巨大な耳。あまりにも歪で、凶悪な猛獣が森から姿を現し、サム達のいる瓦礫に一直線で向かってきた。


「……見つからないはずの場所にいたのに、すぐに見つかったの、その後、どれだけ高く飛んでも、ずっと付きまとってきて。サム、怖い。あれが怖い。あれは何?あれはどうして私のことを付きまとうの?……サム?そのケガ!?どうしたの!?」


 珍しく怯えた様子のキュームはサムの胸ポケットに入ろうとしたが、すぐに彼の右足に気が付くと、怪我の様子を確認しようとした。


 しかし、サムはそんな彼女の行く手を遮ると、語り掛ける。


「キューム。良いか?俺はあいつが何か知らないし、勝てるかどうかも分からねぇ。でもな、俺は立ち止まるのが一番嫌いなんだよ。だから、手を貸してくれ。俺が立ち上がるために、力を貸してくれないか?そうすれば、俺はもう一度歩き出せる気がする。」


 彼の掌の上で静かに話を聞いていたキュームは、神妙な面持ちで小さくコクリと頷いた後、問い返してきた。


「……何をすればいい?」


「俺を持って飛べるか?いや、飛べ。そして、あの岩山を目指せ、そして、着いて来たあいつを崖から突き落とす。恐らく、それしか勝ち目がない。」


「ムリ!絶対ムリ!サムをあそこまで運ぶなんて……」


「やらなきゃここで死ぬだけだっ!」


 徐々に近づいて来る猛獣に気が付いた狼が森へと逃げていく様を、サムは横目で確認する。思わず怒鳴りつけてしまったことを、なるべく優しい声で謝罪した彼は、言葉を続ける。


「頼むキューム。やらなきゃ本当に死ぬだけだ。あの図体だ、こんな瓦礫すぐ登って来ちまう。俺はこんな足で逃げれる訳がねぇ。」


「……分かった。やる。絶対にやり遂げるから。」


 瓦礫の傍に到着した猛獣が、一旦立ち止まったかと思うと、次の瞬間には直立し、瓦礫に前足を掛けた。


 全長3~4メートルはある巨大な図体で、瓦礫の上によじ登ろうとしてくる。当然、瓦礫は大きく揺れた。


 揺れる瓦礫の上を、猛獣から離れるように這ったサムは、自身の体が、少しずつ軽くなってゆくことを感じる。


「よし、良いぞ!もう少しだ!」


 上半身を完全に持ち上げられたサムは、右足を左足で庇いながら立ち上がると、慣れない浮遊感のなか、瓦礫の端に立つ。


 今まで見下ろしてきたどんな崖よりも低い光景。崖では無く瓦礫の上からの光景なので当然なのだが、しかし、今の彼らにとっては最も深い谷のように思えた。


 ゆっくりと瓦礫の上に這いあがってきたその猛獣は、鋭い視線をサムに飛ばす。サムはそんな視線を真っ向から受け止めると、一つ笑みを溢した。


「お前には、ウチのキュームをやるわけにはいかないんだ。悪いな。」


 彼の軽口に応えるように、猛獣が咆哮し、猛然と襲い掛かってくる。


 サムは猛獣の咆哮を聞くや否や、瓦礫を蹴り、宙に飛び出した。


 慣れない浮遊感と右足の痛みを覚えながら、フラフラと上昇してゆく。猛獣は上昇していくサムに向かって飛び掛かったが、跳躍力はあまりないようで、まっすぐ下へと落下した。


 しかし、諦めは悪いようで、すぐさま体勢を整えると、こちらを凝視しながら追いかけ始めている。


 そんな様子を確認したサムは、彼のすぐ上で苦しそうにしているキュームに目をやり、彼女を応援する。


「キューム、頑張ってくれ!頼んだぞ!」


「……分かってる……!ちょっと、今……話しかけないで!……難しいの!」


「悪い。」


 短く答えた彼は、眼下に広がる光景を目の当たりにし、その美しさに絶句した。

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