第108話 余裕(追憶)

「おい、おい、ここを行くのか?っていうか、行けるのか?これは道じゃなくて、崖だぞ?」


「……大丈夫、サムならよゆー。」


 眼前の崖に打ち付ける波と、弾ける水しぶきに目をやったサムは、改めて胸ポケットでくつろいでいるキュームに文句を言う。


「お前のそのよゆーを分けてくれよ。今の俺はカツカツなんだよ。こんな崖をよじ登った経験なんか、雪山の時とボルンテールの坑道と麗しの森くらいだぞ?もう二度と味わいたくない思いをしたって言うのに、お前はまた俺にこんなことをさせるつもりなのか?」


 そんなことを言いつつも、慣れた手つきで岩を掴み、くぼみに足を掛けたサムは、ゆっくりと着実に進み始めた。


 へばりついた状態で左手を伸ばし、掴める場所を探しているサムに、キュームが声を掛ける。


「……流石サム。熟練してる。洗練された動き。」


「お前!それは皮肉か!?皮肉だろ!?」


 くすくすと笑っているキュームに向かって問い質すが、今のサムでは文字通り手も足も出ない。体重を支えている腕に少しずつ疲労がたまって行くのを感じながら、彼は焦ることなく左へと進んだ。


 足元では幾度も波が弾け、背後では、猛烈な風が彼の背中を掠めて行く。


 脚を滑らせて海へ転落してしまえば、無事では済まないだろう。崖が近いとはいえ、怪我でもしたら大変だ。ただでさえ遭難しているというのに、体力を削るのは得策ではない。


 なるべく足を滑らせないように、濡れていない岩を足場に選びながら進んでいると、キュームの言ったとおり、何やら洞穴の入口の様なものが見え始めてきた。


「もう少しか!よし、キューム、洞穴に着いたらお仕置きしてやるからな!」


「……サム!頑張って!もう少し。頑張って!」


「お前俺の話聞いてる!?」


 弱弱しく両手を叩きながらサムにエールを送るキュームは、再びクスクスと笑った。そんな彼女の様子を見たサムもまた、歯を食いしばりながらも笑みを浮かべる。


「笑っていられるのも今の内だぞ?この!ふん!よっと!」


 左手の届く範囲に掴まれそうな岩を見つけることが出来なかったサムは、少し遠い位置にある岩へと向けて、飛び移った。


 右足を強く踏み込んで飛び出した後、両手を伸ばして岩の突起に掴まり、両足で崖に踏ん張る。


 目の前で浮き上がる自身の腕の血管に気を取られつつも、何とか落下は免れた彼は、心許ない足場に両足を添えると、ため息を吐く。


「ふぅ。よゆーだぜ。」


「……結構危なかった。ギリギリ。美しくない。」


 サムの無鉄砲な行動に驚いたのか、胸ポケットから飛び出したキュームが、少しばかり怒っている様子でサムを非難する。


 そんな彼女の様子を見たサムは、満面の笑みを浮かべてキュームに語り掛ける。


「どうした?キューム。なに怒ってるんだ?もしかして焦ったのか?おいおい、待ってくれよ。可愛いじゃねぇか。俺が落ちると思ったのか?そいつは心配のし過ぎだぜ?よゆーだからな。」


「……ちょっと待って。その岩、今から引っこ抜くから。もう少しそこに居て。」


「おい待て!それは止めろ!分かった、さっきも今もメチャクチャ焦ったから!マジで心臓破裂しそうだったから!ただ、なんだ?そう、キュームが心配してくれたことがうれしくてよ!ちょっと悪戯したくなっちまっただけなんだ!少年の心ってやつさ!」


「……自分でいう?確かにサムはまだまだ子供だけど。」


「まぁ、それが俺の良いところだろ?自覚あるしな。」


 全力でおどけて見せるサムの様子をムッと睨んでいたキュームは、突然後ろを向いて肩を震わせた。


 サムはというと、両手で岩にしがみついたままキュームの様子を見守るしかない。その姿はまるで、祈りのポーズにも見える。


 しばらく肩を震わせていたキュームは、落ち着いたのかこちらを振り向くと、柔和な表情をして胸ポケットへと戻って来る。


「……仕方ないから、許す。」


「そりゃ良かった。」


 ホッと胸をなでおろしたサムは、そのまま近くの岩へと腕を伸ばし、先を急ぐ。洞穴の入口付近にあった大きな岩の上に着地したサムは、そのまま洞穴の中に目を凝らしてみる。


「暗いな。松明とか作るか。キューム。この中って安全だよな。」


「……分からない。暗くて見えないから。」


「何でここに呼んだんだよ。いや、俺が探してくれって言ったのか。まぁ、良いか。今日は入口付近で雨を凌ぐぞ。キューム、森から枝とか持ってこれるか?」


「……分かった。持ってくる。」


 そう言って元来た方角へと飛んで行ったキュームを見送ったサムは、洞穴の奥へと

 目を向ける。


「何もいないよな?こんなところを出入りする獣はいないよな。……いたとしても、鳥か蝙蝠かな。」


 独り言をつぶやいた彼は、次に背後の海へと目を向ける。砂浜で目が覚めた時よりも波が荒れ始めており、空もどんよりと曇り始めている。今夜は雨になりそうだ。


 仄かな雨の香りを感じながら、彼はキュームが戻るのを待つのだった。

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