第87話 困惑
幼い少女の、悲痛な叫び。人だかりの中から聞こえたその声を聞き、ミノーラは一瞬躊躇した。
状況の分からない中に飛び込んで、止めるべきだろうか。それとも、様子を見ておくべきだろうか。そんな、一瞬の躊躇の間に、彼女の背後でドサッという音が鳴る。
咄嗟に振り向くミノーラは、視界の端で同じように振り向いているタシェルとカリオスを捉える。そうして、いるはずの人物がその場にいないことをすぐに認識した。
気が付けば、彼女たちの視線とすれ違った巨大な影は、大きなリュックだけを残して走り出している。
「オルタさん!」
いち早く気が付いたミノーラは、すぐさまオルタの後を追う。遅れて、二人も着いて来ているのを確認すると、目の前のことだけに集中した。
ミノーラもかなりの速度で走ることが出来るが、オルタはそれ以上に速度を出せるらしい。あの巨体が猛烈な速度で走る様は、まるで、猪の群れのようだと彼女は思った。
当然、そんなものが接近していることに集落の人々が気付かない訳が無い。彼がどのような形相をしているのかは分からないが、その姿を捉えた人々は、散り散りに逃げ出した。
ふと、ミノーラは牢屋で暴れていたオルタのことを思い出す。もしかしたら、我を忘れていて、このまま暴れ回るかもしれない。そんなことになれば大変だ。
「オルタさん!待ってください!」
全速力で駆けながら、オルタに声を掛け続けたミノーラは、集落の中心に辿り着いたオルタの行動を見て、少しだけホッとした。
先ほどまで全速力で駆けていたオルタは、人だまりのあった場所に辿り着くと、そっと片膝を付いて、誰かに手を差し伸べたのだ。直視はしていないが、幼い子供がいるようだ。
そんなオルタの傍に辿り着いたミノーラは、すぐに彼の正面に回り込み、様子を伺う。と同時に、息を呑んだ。
そこに居たのは、少女と、少年。どちらもまだ若く見える。そんな二人のうち、少年の方が、頭から出血した状態でうつ伏せに倒れているのだ。そんな少年を庇うように、少女が覆いかぶさり、泣きべそをかいていた。
オルタは、少女の背中をそっと撫でながら、遅れてきたタシェルに声を投げる。
「タシェル!治療だ!できるか?」
「はい!」
小走りで駆けて来たタシェルは、少年の様子に気が付くと、慌てた様子で駆け寄り、傷の様子を診始めた。
少年のことはタシェルに任せ、ミノーラは辺りで様子を伺っている人々に意識を向ける。
家の影や木の後ろからミノーラ達のことを伺っている人々は、どうやらオルタに驚いているようで、なかなか近づいて来ようとはしなかった。
当のオルタはそんな自覚は無いのか、優しい顔つきでタシェルと少年少女を見ていたかと思うと、ふと思い出したように立ち上がる。
「リュック!」
一言告げ、すぐにでも走り出そうとしたオルタは、カリオスがリュックを持って来ていることに気づき、礼を告げている。よっぽど焦っていた様子だ。
そこでようやく、遠巻きに見ていたうちの一人が、ズカズカと歩み寄ってきた。豊かな髭を生やした、ガタイの良い男だ。流石にオルタには負けるが、人間としてはかなりの体格ではないだろうか。
そんな男が、手に持った棒をこちらに突き付けながら問いかけてくる。
「ボルン・テールの治安維持局がこんなとこでなんばしよっとか?」
オルタに対して問いかけているその男は、一瞬動揺したオルタの様子にイラつきを覚えたようで、小さく舌打ちをした。
そんな様子を見たオルタは我に返ったのか、すぐに返答を始める。
「訳あって旅をしている。それよりも……。」
「しゃーしか!……その犬はなんや。」
珍妙な言葉でオルタの言葉を遮ったその男は、次にミノーラを棒で指しながら問いかける。
「ミノーラは犬じゃねぇぞ。」
「……なんば言いようとか?そりゃ分かっとるったい!あんだけ喋っとったの見りゃ、誰でも分かるばい。バカにしとうとか?」
そんなかみ合っていない会話を聞きながら、ミノーラは自身の中で膨らんでいく衝動を、ついに抑えられなくなった。
「あの、すみません。私はミノーラって言います。あなたの名前はなんていうのでしょうか?」
「……。」
ミノーラの問いかけに対し、その男は無言を貫いた。そのかわり、目は口ほどに物を云うとばかりに、驚きを隠せないでいる。
それはその男だけでは無かった。周囲で事の成り行きを見守っていた人々もまた、ミノーラの声を聞いた途端に目を見開き、少しずつ姿を現してくる。
次第に、ぼそぼそと声が広がって行った。もちろん、ミノーラの耳はその言葉を既に捉えている。
「……神の遣い?神って何ですか?」
聞こえてきた言葉の意味をオルタに尋ねてみたが、彼も詳しくは知らない様子で、首を傾げている。
「ほれ見てみんしゃい!」
そんな声を上げながら、一人の女性がツカツカと近寄って来たかと思うと、ひげ面の男に向かって行き、そのまま男の目の前で仁王立ちした。
突然始まった二人の睨み合いはしばらく続き、結果として、舌打ちと共に視線を外した男が、どこかへと去って行くことで決着する。
少しの間男の後ろ姿を眺めていた女性は、踵を返すと、ミノーラとオルタの横を通り、少年の元へと駆け寄った。
かなり心配していたようで、タシェルに対し、何度も頭を下げている。そんな彼女の様子を見ながら、ミノーラは先程から抱えていた疑問を、小さく言葉にする。
「なんて言ってるのか、分かりません……。」
ふと見上げると、オルタと目が合う。彼はまるで見計らったように、ゆっくりと、しかし大きく頷いた。
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