第88話 黒霧
「待って!兄ちゃん連れていかんで!」
泣きじゃくる少女の願いは聞き届けられることなく、少年はオルタに抱きかかえられて、近くの小屋へと連れていかれた。去り際にタシェルが謝ってはいたが、少女には届いていなかったようだ。
泣きじゃくり、足元を睨みつけながら立ちすくむ少女に、ミノーラは声を掛ける。
「お兄ちゃんは大丈夫ですよ。きっとすぐに良くなるから。泣かないで。」
鼻先で少女の太ももを突きながら語り掛ける。そんな彼女の様子を不思議そうな目で見ながら鼻をすする少女は、絞り出すように言葉を吐いた。
「……なんで喋れるん?」
こみ上げる涙や鼻水でうまく声が出ないのか、妙にしゃがれた声だ。治療の邪魔になるから入って来ないようにと、先ほどの女性にきつく言い聞かせられたのがよほど悲しかったのだろう。
「なんでかは分かってないんです。それより、お話ししましょう?私はミノーラ。あなたの名前は?」
「……クラリス。」
ようやく涙を出し切ったのか、赤く充血した目をしばしばさせながら、少女は短く答える。そんな少女の目の前に、ミノーラは腰を下ろした。
未だに近づいてこない集落の人々に、少しだけ視線を流しながら、クラリスとお話をすることにする。何か聞き出せるかもしれない。こうなってしまった原因や、ここで何が起きているのかを。
そんなミノーラの思惑を知ってか、カリオスも二人の近くに立ち、そっぽを向きながらも話を聞いているようだ。
「クラリス。お兄さんは何でケガしちゃったの?」
「ハイドのおいちゃんと喧嘩になったと。ウチを島に送るって話とったけん。ウチ島になんか行きたくないっち言ったら、はらかいたと。」
「ん?えっと、クラリスは島に行きたくないんですか?」
何気なく聞いたミノーラの問いは、クラリスにとっては非常に驚きだったらしく、少し間が開いたかと思うと、早口でまくしたて始めた。
「当たり前たい!もう三人も戻って来んとよ?嵐のせいで魚は獲れんし、皆怒って仲悪くなるし、海の神様が怒っとるんや!ウチ知っとるもん!ミノーラは海の神様のお遣い様なんやろ?」
幼い少女に早口で怒られたミノーラは、一種の恥ずかしさを覚えながらも、その話の内容に興味を抱く。
「海の神様って何ですか?」
またもや好奇心からでた彼女の質問は、クラリスの表情を暗転させていく。だが、次は怒られることは無かった。どうやら、彼女も詳しくはは知らないらしい。
ムスッと口をへの字に曲げたクラリスは、ミノーラの質問に答えることなく、そっぽを向いた。
「クラリス?」
「しゃーしか!」
短く叫んだクラリスは、少年の連れていかれた小屋に向かって行ったかと思うと、誰が止める間もなく、扉を開けて中に入って行った。
かと思えば、女性に抱きかかえられて追い出されている。
当然のように目の合ったミノーラは、思わずクスっと笑ってしまう。
「何笑っとるんよ!」
顔を真っ赤にしたクラリスは、思い切り駆けて来たかと思うと、ミノーラに飛び掛かってくる。そんな彼女の飛び掛かりをサラリと躱したミノーラは地面に手をついているクラリスの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?ごめんなさいクラリス。お詫びに、背中に乗っても良いですよ?」
地面に着いた手で砂を握り締めていたクラリスは、ミノーラの一言を聞くと、まるで別人にでもなったかのように瞳をキラキラと輝かせて、立ち上がった。
「いいと!?」
「どうぞ!」
言われるがままにミノーラの背中によじ登ったクラリスは、彼女の体毛を強く握りしめた。
「痛い!痛い!クラリス痛いです!持つなら首輪を持ってください!」
「ご、ごめん。」
背中でクラリスが謝っているのを聞いたミノーラが、少しホッとしたのも束の間、再びクラリスの声が耳に入る。
「あれ?なんかある。」
ミノーラが言葉の真意を尋ねるより早く、異変が起きる。恐らく、首輪から漏れ出たであろう黒いモヤモヤが、ミノーラの足を伝って地面に広がり、そのまま霧のように広がり始めたのだ。
「何ですかこれ!」
思わず叫びながらカリオスの方を見てみると、何かを思い出したかのような遠い目をしている。どうやら彼には心当たりがあるようだ。
心穏やかでないミノーラに対し、背中のクラリスは非常に楽しそうだ。
「なんなんこれ!すご!ミノーラすごっ!やっぱり神様やん!」
無邪気にはしゃいでいる少女の声を聞きながら、少しホッとしながらも、心の一部ではさっきと言ってること違うなぁと突っ込んでみる。
「私は神様じゃないですよ?」
「うそやん!こんなんできるわけないやん!」
そうしてはしゃいでいると、気が付けば集落の人々が少しずつ近寄ってきていた。あまりにクラリスの存在感が強すぎたせいで、全く気が付かなかったミノーラは、少し焦りながらも、会話を試みてみる。
「あの、初めまして。ミノーラです。ちょっとお話が聞きたいんですけど。」
そう告げた彼女の言葉に応えるように、人々は一斉に頭を下げた。返事が来ると思っていた彼女は彼らの行動に困惑しながら、カリオスに視線で助けを求める。
しかし、カリオスも理解できていないようで、ミノーラの視線にも気づかずにジワジワと彼らから距離を取り始めていた。
これでは埒が明かないので、再び声を掛けようと口を開いた時、ようやく一人が頭を上げ、返事をした。
「お待ちしておりました!海神の御遣い様。」
ミノーラを囲むようにして集まった十を超える人々が、両ひざをついた状態で頭を垂れている。少しだけ、ミノーラは自分が偉くなったような、そんな錯覚を抱いたのだった。
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