第86話 潮風
嵐が鳴りを潜めたのは、夜が明けた頃だった。いつもなら朝の訪れと共に、眩い日光と鳥のさえずりが広がるのだが、今朝はどうも様子が違う。
空は厚い雲に覆われているし、鳥は姿を現さない。その代わりと言ってはあれだが、冷たい風がミノーラの嗅いだことの無いニオイを運んでくる。少ししょっぱいような甘いような。不思議な香りだ。
「なにか変な匂いがしませんか?」
ミノーラのそんな問い掛けに、他の三人は鼻をひくひくとさせている。
「あぁ、潮のニオイね。」
「?潮のニオイ?俺はそんなニオイしないぞ?」
出発の準備をしながら、タシェルとオルタが口々に言う。どうやら、ミノーラとタシェルだけが気付いているようで、カリオスも頭を傾げながら、どんよりとした雲を見上げていた。
「潮のニオイっていうのは、海のニオイの事なのよ。多分、この嵐で運ばれて来たんじゃないかな。」
「海ってニオイがあるんですか!?沢山の水なんですよね?」
「うーん……確かに沢山の水なんだけど……普通の水じゃないというか、塩辛い水なの。」
「ニオイだけじゃなくて味もあるんですね。不思議です。早く見たくなってきました!ニオイがするってことはもうすぐ近くまで来てるってことですよね!」
空はどんよりとしてはいるが、ミノーラの心は晴れやかだ。ウキウキとした心持のまま、皆の準備が整うのを待ち、洞窟を後にする。
昨日と同じく、大きな荷物はオルタが持ち、カリオスは終始何かを考えており、タシェルはしきりに周囲の草花に気を払っている。ミノーラはというと、香しく漂う潮のニオイを堪能しながら、軽妙に歩いていた。
周囲は既に木々が生茂るような光景では無く、岩肌のゴツゴツとした崖に挟まれた渓谷だ。渓谷の真ん中を貫くように伸びている小さな川には、沢山の魚が泳いでいるようで、時折水面を飛び跳ねる音が彼女の注意を引き付けた。
しかし、魚獲りをして遊ぼうと思えないほどに、彼女にとっては潮の香りが新鮮だった。
渓谷には川と岩以外にこれと言って何かがあるわけでは無く、黙々と歩き続ける一行は、気が付けば渓谷の出口に差し掛かる。
左右の岩肌で狭められていた視界が、少しずつ広がって行き、ミノーラは眼下に広がる広大な景色に、目が釘付けになった。
景色と言いつつ、白と黒しか判別しない彼女の眼には、それは真っ黒に塗りつぶされた巨大な何かにしか見えない。所々、チラチラと白く反射しているようにも見えるが、空が曇っているのも重なり、全体の印象には左程影響を与えない。
「あれが海ですか?思ってたよりも大きくて、広くて、禍々しいですね。」
「禍々しい?どの辺が?」
彼女の感想を聞いたタシェルが、不思議そうに尋ねてくる。そんなタシェルに、ミノーラは見た儘をそのまま伝えた。
「そっか、もう少し晴れてたら綺麗だったかもしれないね。」
「なぁ、あそこの集落がマリルタか?」
二人の話を聞いていたオルタが、何かを見つけたのか、海の方を指差しながら告げる。確かに、建物らしきものがいくつか見えている。ただ、ボルン・テールに比べて、明らかに小規模な街のようだ。
「そうみたいですね。街というか、村って言った方が良いかも。取り敢えず、向かいましょう。」
タシェルの提案に従うように、ミノーラは緩やかな下り坂を下り始める。岩肌と森の境目から、小さな森に入り、獣道を進んでいく。
相変わらず吹き荒れている風は、先ほどまでとは比べ物にならないほどに濃密な潮の香りを彼女の元へと運んできた。ここまでくると、オルタとカリオスも嗅ぎ付けることが出来たみたいだ。
「どんな人が住んでいるんでしょうか?早く話してみたいです。」
膨らむ期待を胸に、先頭を歩いているミノーラは、マリルタの集落に近づくにつれて、人々の声を聞きとった。
ただ、吹き荒れる風のせいで、内容を聞き分けることは出来ない。一つ分かるのは、大勢の人間が、大声を出しているということだけ。
「人の声が聞こえます。結構沢山の人がいるみたいです。」
知り得た情報を、他の三人に共有する。特に返事は無かったが、求めたわけでもない。
ザワザワとした言葉たちが、ミノーラの耳へと届く。それは、集落に近づくにつれて次第に大きくなっており、近付いている実感と、聞き分けることが出来ない違和感を、彼女に植え付けていく。
集落の入口らしきものが見えてきた辺りで、彼女はその違和感に確信を抱く。言葉自体は聞き取れているのだが、その言葉を聞き慣れていないのだ。特徴的な言葉遣いと、勢いに任せたような騒がしさ。
それらはまるで、喧嘩のようだ。とミノーラはようやく気が付いた。
「なにかあったみたいです。」
振り返ったミノーラは、カリオスに向かって告げる。カリオスにも、その喧騒は聞こえているようで、ゆっくりと頷き返してきた。
「なにがあったのかな。もう少し落ち着くのを待ったほうが良さそうなきがするけど。」
集落の入口から中を覗き込みながら、タシェルが告げる。ミノーラも同じように集落の中を覗いてみると、人だかりが出来ている。
彼女達のいる入口から伸びている道を挟むように、全部で十数軒の建物が並んでいる。規模でいえば、かなり小さい。
そして、そんな集落のど真ん中に、人だかりが出来ているのだ。聞こえてくる言葉は、どれも罵倒ばかりで、中身のある話はほとんど聞こえてこない。そもそもそんな話はしていないのか、罵倒にかき消されているのかは、彼女には分からなかった。
「もう少し様子を見てみましょう。」
ミノーラが三人に向けて告げた直後、彼女の耳が、ようやく意味を成す言葉を聞き取った。
「やめてっ!」
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