第24話『12月17日(3)』

 僕が家に帰った時には午前一時を回っていた。

 二、三日前に観た天気予報通り、陳さんのアパートからの帰り道は、水気を含んだ雪に見舞われる。平たく言えばミゾレが控えめな音を立てて、街を覆っていた。

 強風もあいまってソレが衣服と肌の隙間に入り込み、僕は前屈みになって重い足取りで帰ることを余儀なくされた。

 帰ってすぐに暖房のリモコンへ手を伸ばし、温かい風が出るまでがもどかしく、手を擦り合わせる。

「今日はすまなかったな、行き先を伝えておくべきだった」

「いや、言わなくて正解だったと思うよ、聞くと止めてただろうし」

 止める意味なんてない。選択権などないのだから。その瞬間は逃れられても、いずれ取り除かなければいけない脅威なのだ。時間が経てば経つほど危険性を増す特性上、ぶつかり合うなら早いに越したことはない。そのほうが危険も少ないのだから。

 それでも、僕は止めてしまったと思う。

 何か危険を最小限に抑える方法はないものか、などと頭を捻り、結局時間だけを浪費して和月をより危険な目にあわせてしまう。

 だから、和月の行動に微塵も間違いはない。知らないことは起こってないと同じことだ。だから僕が自己嫌悪に陥ることもない。

 和月と最初に会った時はその見た目にばかり目がいったが、少し同じ時間を過ごすと見た目とは裏腹に目に見えないところで気を利かせる人物だということがわかった。

「だろうな」

 短い言葉に色々な意味が詰まっていると考えてしまうのは、僕の深読みのしすぎだろうか。

 あれやこれやと考えていると、正座をしている和月が地蔵のように立ち、うんうん唸っている僕の目を上目遣いで窺ってくる。

 あたかもガラスで作ったような澄んだ瞳で見つめられると、心を見透かされているような気持ちになり途端に気恥ずかしくなる。

 僕は誤魔化すようにして前時代の遺物ともいえるちゃぶ台を部屋の片隅に退け、押入れから取り出した煎餅布団をリビングに一組敷く。

 一組。

 これが世間様でどういう評価をされるかはわからないが、家には布団が一組しかないので、いつも一緒に寝ているのだ。

 僕は布団くらい買ってもいいよ、と和月に何度か進言したが、結局一度も彼女が首を縦に振ることはなかった。

 とはいえ冬はお互いの体温で温めあえるので温かいが、夏は地獄である。

 外の天気から今晩は冷えることが予想されたので、今が冬であるという幸せを噛み締めることができそうだ。

「時間も時間だし、和月も寝るんじゃないかなと思って……」

「……ああ、ありがとう」

 一瞬の沈黙。

 自分では最大限に気を利かしたつもりだったが、もしかしたら余計なことをしてしまったのかもしれない。

 僕は手早く歯を磨き、顔を洗い、寝る準備をする。和月も僕の後に続いた。

 帰りにラファエラさんから受け取ったジュラルミンケースを物置代わりの押入れに詰め込み、僕がやった寝る前の儀式を僕と同じ順番でこなす。

 そしてパジャマに着替え、ひんやりとした布団に二人して潜り込んだ。

 一瞬、冷え切った足が布団の中で触れあい、お互いにビクンと身体を震わせる。

「明かり消すよ?」

「豆球はつけておいてくれよ?」

「わかってる、でも、いい加減、暗くても寝られるようにしたほうがいいんじゃない?」

「う、うるさいな! 別に怖いからつけてるわけじゃないんだ。こ、このほうが蒼太を守りやすいんだ。ふ、不測の事態にも――」

 そもそも和月の目で暗いから何かが出来なくなるということはないだろう? という言葉を喉の奥にしまいこみ、代わりに、

「はいはい、わかってるよ。ありがとう」

という言葉をかけておいた。

 最後に付け加えた言葉は本心だったから、言わずにはいられなかった。

 特にここ数カ月のことを思い出すと、その言葉は発するのは適切だと思った。

 言うタイミングなど関係なくだ。

 僕からすれば、正直、いくらこの言葉を重ねても足りない。そして、この先僕は彼女に対して何度も言うことになるだろう。

 ありがとう、と。

 そして彼女はその言葉を言われる度に少しはにかむのだ。今も僕に見せている背中の向こうで、いつもと同じ表情を浮かべているに違いない。

 実際、布団が少し震えているのがわかる。

 何かを我慢しているかのように、和月の背中が少し震えていた。

 薄暗くて仕草などはよく見えないが、すぐ隣にいるので振動やパジャマの衣擦れの音でどういう仕草をしているかがいとも簡単に想像できた。

 布団に頭からもぐると和月の匂いがする。

 香水の匂いなのか、体臭なのかはわからないが、花のような甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 その香りが一際強くなると、僕はブレーカーが落ちるように意識を失う。

 エレベーターで降りていくような軽い浮遊感があった。


 冬の寒さで自然と目が覚めた。

 どうやら、タイマーをかけていた暖房が切れたことだけが原因ではなさそうだ。

 隣にあるはずの熱源がなくなっていた。

「和月?」

 寝ぼけた意識のまま、口を開く。乾燥した空気が急に喉へ入ってきたせいか、乾いた咳が二度三度吐き出される。

 返事も反応もない。

 どうやら、家の中にはいないようだ。

 家の中にいるのであれば、僕の一挙手一投足に必ず何か反応を返してくるからだ。

 僕は和月が寝ていたはずの場所に手を伸ばす。

 冷たい……。

 和月の体温が失われた敷布団は、随分前に和月がその場所を離れたということを僕に教えてくれる。

 では、どこへ。

 布団からふらつきながら立ち上がると、1Kのぼろアパートの床が鳴いた。

 やけに足元がおぼつかない。軽い貧血症状が出てるようだった。

 弱々しくオレンジ色に光を放つ豆球を見つめて悶々としているうちに、じりじり時間が経っていく。

 何分ほどそうしていただろうか、時間の経過と五臓を締め付けるような寒さが僕の頭にかかった霧を払いのけてくれる。

 目が完全に冷めた僕が取った行動は押入れを開けることだった。

 ジュラルミンケースが無い。

 電灯をつけ奥を覗くが、ジュラルミン特有の銀色を見つけることはできなかった。

 妙な胸騒ぎがした僕はパジャマのまま上着を羽織ると、アパートから飛び出した。

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