第21話『12月16日(6)』

 慟哭。

 絶望。

 懇願。

 感情をサイコロの目のようにコロコロと変えるが、表情は動かない。

 機能を停止させた足を何度も苛立たしげに叩くが何の意味も成さない。

 泣こうが喚こうが結果は変わらない。

「終わりだよ。何もかも。ここが終着点なんだから……」

 白夜は私の言葉に返事をするかのように、膝を突き、天を仰ぎ、路地の壁を撫でる。

 急に背筋が冷たくなるのがわかった。

 私がこういう感覚を覚える時は決まってよくないことが起こる。

 突如として空気の質が変わった。

 ピシッ。

 異変の始りは音からだった。

 乾燥した木の枝を踏み抜くような音が路地の壁から聞こえてくる。

 続いて、私の目の前に小さなコンクリート片が数個落ちてくる。

「あ……」

 自分であまり聞いたことの無いような、間の抜けた声が自然と漏れ出ていた。

 私が事態を飲み込めた時には何もかもが遅く、手が出せない状態になっていたからだ。

 だけど、私は自分を責めない。

 誰が想像できようか――三次元の建物が二次元になるなんて。

 少女は最初から天なんて仰いでいない、建物の大きさを目で測っていたのだ。

 少女が壁に付いた手を握り締めると、砂塵と埃を伴った爆音が路地裏に響いた。

 路地を作り上げていた壁の表面が崩れ落ち始める。二階の窓ガラスが割れ、ガラス片が私の頭に降り注ぐ。

 二階建ての空き店舗が、少女の握力によって崩壊した。私は事がここに及んでやっと少女の能力を理解する。

 圧縮する能力。

 だが、強力すぎる。

 少女は変異もしていないどころか、吸血鬼化症の進行度は精々五十パーセント程度と見受けられた。

 それでこの能力の強さは異常としか言いようが無い。

 少女が潰した店舗の横幅は十メートル以上、高さはどう低く見積もっても五、六メートルはあるだろうし、重さに至っては一体どのくらいあるのか想像もできない。

 それだけの質量を持った物を横幅や高さを変えず瞬時に圧縮し紙の厚さにしてしまった。

『ミシリ』という軽い音と共に壁に亀裂が走る。それも薄氷に石を投げ込んだ時のような速度で。

「――」

 圧縮され、一枚のボール紙のようになった店舗が私に向かって崩れ落ちた。

 非常にまずい。

 生き埋めにさえならなければ、崩れてくること事態は大した問題ではない。

 所詮、コンクリートや鉄筋、当たったところで怪我をする程度。リカバリーはいくらでも効く。

 問題は視界だ。

 建物内の鉄筋が瞬時に圧縮されたせいで、私の周囲がちょっとした調理なら出来る程の高温になっている。

 金属は曲がるだけで加工熱を出すと習ったけど、これは正直想像以上だった。

 思ったより建物って金属を使っているんだ、これは少し勉強になる。

 でも、誰が私を責められようか。一瞬で建物が紙みたいになるなんて想像できるものはいない……はず。

 だから私は悪くない、うん。

 ラファエラに聞かれたらぶん殴られそうなことを考えつつも、高熱で焼けた喉を修復しながら呼吸を整える。

 冬の冷気は完全に吹き飛び、短時間で私に汗を滲ませる。

 冷たい冬の空気と金属が変形することによって生じた熱せられた空気が混ざるとかなり面倒だ。

 陽炎。

 夏にアスファルトの上がぐにゃぐにゃ見えるアレだ。

 冬ではストーブの近くぐらいでしか、中々お目にかかれない現象が今私の目の前で起こっている。

 周囲の大気が歪み、少女の姿が、場所が正確に把握できない。

 正確には把握出来ないが何とかする。

 相手は足を奪われ動けないのだ、いくら陽炎のように的が揺れているからとはいえ当てられないわけがない。

 それに今は真冬なのだ。金属も短時間で冷えて、すぐにこんな現象は収まる。

 だが、そのすぐにを相手は待ってくれない。 

 少女は何をしでかすかわからない。焦りが私を行動に移らせた。

 壁は上部から順に崩れ、私に降りかかるが気にも留めない。

 左目を瞑り、右目に神経を集中させる。

 一瞬何も見えなくなるが、問題ない。

 半呼吸もしないうちに、機械化された右目に神経が接続され、右目に映像が映る。

 同時に聴覚、嗅覚、手以外の触覚を遮断。

 さらに色彩情報もカット。

 不要だ。とにかく不要な情報をカットし少女を視ることのみに集中する。

 視覚にのみ集中する。それも視ることのみに。

 少女を視野に納めるために目で追いかけるのは右目に搭載してある熱感知システムにすべて任せる。

 私の右目には様々な機能を備えた義眼がはめ込まれている。

 この右目の義眼にはオートで人の形をしたものを追いかけてくれる機能も付いていた。

 そのために人気の無いところを選んだんだから活用しなければ損だ。

 義眼が示す目標物との距離は約二十メートル、陽炎が揺らぎ、建物崩壊による埃が舞い上がる悪条件だが撃ち込むことだけに集中すれば当てられる。

 銃と左手が溶けて絡み合い一体化したような感覚。

 呼吸を止め引き金を慎重に絞り込んだ。

 最速で撃鉄を起こし、もう一発。これで全弾撃ち尽くした。

 石の塊に思いっきり石をぶつけたような音。

 銃声ではない。

 銃声はその謎の音の後。

 右目が勝手に動く上へ。

 少女が飛んでいた。

 足は潰したのにそんな――再生? 違う、不可能。

 そこで理解する。

 私の銃声の前にした音の正体に。

 地面を拳で殴りつけた音、というには暴力的な音だった。そして効果的だった。

 滅茶苦茶に痛いに決まっている。私のように痛覚をコントロールできない限り、命がかかっている状態でも思い止まってしまうだろう。

 呆然とする私の目の前で彼女は制服のスカートを翻し、埃と血でドロドロになった髪を振り乱して――

 どうして……足が動かせない。どうやっても。混乱している。私。

 八メートル……七メートル……六メートル……。

 視界の数字が小さくなっていく。

 義眼が目標物との距離を告げている。

 逃げないと、距離を取らないと。

 早く。

 速く。 

 はやく。

 ハヤク――

 少女の左手の拳が赤とピンクと白に染まっていた。

 皮膚が裂け、肉が削れ、砕けた骨が外に飛び出している。

 拳が砕け散っていた。規則性もなく歪に。

 赤、白、ピンクの花を咲かせた音が瞼を震わせる。

 私の義眼に少女が空中で噴出させた血の飛沫がかかる。

 瞬時。

 世界は赤へと変わった。嚇々かっかくの空に浮かぶ異形。

 強化された手が砕け散るほど地面へぶつけた反動は驚異的な速度を持った跳躍を可能とした。

 なんという生への執念。

 少女が飛べた種を暴いたところで窮地から脱せるわけではない。

 行動をしなければ――私も自分の能力を使う。

 緊張で縮み上がった血管を拡張し血圧を安定させる。

 最速で動くために脊髄の反射反応を限界まで開く。

 そして恐怖心を感じる脳の部分を閉じ、興奮剤代わりの三点セット、ドーパミンβエンドロフィン、セロトニンを分泌させる。

 痛みも恐怖も感じない戦闘マシーンが完成された。

 少女の動きが二分の一倍速程度まで遅くなる。

 実際に少女の動きが緩慢になったわけではない。

 私の目にそう映っているだけだ。

 野球で球が止まって見える、事故にあう寸前、周りの時間がゆっくり流れる。

 私は今、意図的にこの状態を作り出していた。

 一瞬だけ、時計に目をやる。

 吸血鬼化症進行度、十三パーセント。

 これならしばらく動ける。

 能力発動は吸血鬼化症を著しく進行させる。

 無意識の行動だった。

 その一瞬が私を一手遅れさせる。

 視線を戻した時には少女が二メートル先まで迫っていた。

 想像以上に速い。

 新たな推進力が無い以上空中で速度を上げることなど出来ないはずなのだが、私が眼を逸らした間に少女の飛行速度は上がっていた。

 少女と向かって右側の建物はまだ健在だった。

 腕を前に出し無傷の建物の壁に指を刺し込み、腕を前から後ろに追いやる。

 スキーの時にストックを地面に刺し込み漕ぐ要領だ。

 跳躍した時同様にまたもや腕を推進力に変えて私に迫っていた。

 少女の手が頭に迫る。薄くなった建物を思い出す。

 死ぬ。

 指先に触れられたら問答無用の死が待っている。

 それだけは避けなければならない。

 この戦いで、少女の動きの何が死に繋がるかはインプットできた。

 とにかく手だ。手以外で能力は使えない。

 これは賭けになる。

 もし手以外で使えたら、私の読み負けだ。潔く負けを認めよう。清く死のう。

 私は能力を使い、手に掴まれる=死と脳に刷り込む。

 一種の自己暗示のようなものだ。

 後は身体に任せよう。

 脊髄にある中枢神経に働きかけ、オートモードに切り替える。

 身体の感覚器という感覚器が自分の死という刺激に反応して脊髄反射が起こる。

 情報伝達が脳を経由せずに完了し、身体が無意識で動く。

 考えて動こうとすれば、どのような鍛錬を積んでも動き始めるまでに0.3秒程度のタイムラグが発生してしまう。

 少女の動きと崩れてくる店舗の瓦礫に対して私の身体は全力で死から逃れる動きを見せる。

 少女の手から主要部位を守る動きだ。

 膝を曲げ重心を低くし、右手を頭に掲げる。

 空中にいる少女は私の掲げた右腕を右手で掴んだ。

 掴まれたと意識する前に、

 バキッ。

 右腕が砕ける音。

 痛みはない。元々痛覚など無いのだから当然だ。

 私の頭に落ちようとしていた数百キロはあろうかという、コンクリートに鉄骨が混じった破片を左肘で弾く。

 左肘が戻りきる前に、すでに再生を終えた少女の左の手が私の左手に伸びる。

 再生が早い!?

 一瞬うろたえる私の脳とは裏腹に、ここでも身体は死から逃れるための最適な行動を取る。

 左腕を少しだけ動かし、銃を握らせる。

 砕か――れない。

 どちらか片手でしか能力が使えない? そもそも右手でしか能力が使えない?

 この状態の私に確かめる術はないが、左手だけ限定でオートモードを解き銃口の角度を変え、撃鉄を起こし引き金を引く。

 カチ。カチカチカチ。空しく響く指が引き金を引く音。重い音はしない。レイジングブルは沈黙。沈黙。沈黙。沈黙。

 撃ち込むが弾がでない。さっき撃ち尽くしたからだ。このミスは私を死地へ誘う。

 ふわりと戦場に似合わない百合の香りが鼻腔をくすぐった。私を死地へ誘う匂い。

 空中から重力を味方にし私に覆いかぶさる少女。

 バランスを崩した私に馬乗りになった少女の右手にはヒビの入った私の右手。

 左手には私が左手で持つレイジングブルの銃身をしっかりと握りこんでいた。

 少女は不自然に手をクロスさせた状態だった。

 髪を振り乱し、息を荒げ、喘ぐ様にして出した言葉が私の鼓膜を叩く。

「どうして砕けないのよ! みんな私が思うような形になったのに」

 私の右腕のことを言っているのだろう。

「頑丈だけが売りなんだ。この程度で砕かれては困る」

 少女の動きは脳内麻薬のおかげで二分の一倍速程度の速度で見えるはずなのだが、今の私の惨状を見ればわかるだろうがまったくゆっくりに見えない。

 白夜の速度は私の想像を遥かに超えていた。正確にいうと奴は成長している。そして今もなお成長し続けている。病気の進行のせいもあるだろうが、それだけでは説明の出来ない速さで、だ。

 あらゆる無駄を省いた反射行動で対応してもギリギリの状態だ。

 少女に馬乗りされている今の自分の姿を想像すると、憤懣やるかたないし、いつあの手が私の頭を触るかわかったもんではない。

 早くこの不利な状態から抜け出さなければ……。

 数秒の膠着状態が私の頭を冷静にさせる。

 口調からしてオゾン弾は効いている。時間さえかければ私の勝ちだ。だが、その時間が稼げそうにないときたものだ。どうしたものか。

 身体に意識を向けなくていい分、作戦を考える余裕はあるが事は極めて順調に進まず。

 能力を使ってこない左腕でさえ、女子高生の細腕とは思えない力で私のレイジングブルを握り絞め、右手は現在進行形で背筋を冷やすような音を立てている。

 私はシリンダーラッチに指を引っ掛け、シリンダーを開ける。

 少女は私が何かしようと察し、銃を取り上げようと手に力を込める。

 私は――手に力を込めない。

 素直に銃から手を離し、それと同時にオートモードを切り、身体を通常モードに戻す。

 私のオートモードは死を避けることに関しては鉄壁を誇るが、攻めには使いにくい。

 自分が何かされたことに対して反応はするが、自分から何かするのには向いていないのだ。

 つまり受動的。

 今は能動的にいかなければならないタイミングだ。平たく言えば攻め時。

 なんていったって、敵が目の前でバランスを崩してくれているんだから、これを逃さない手はない。

 私が銃を離さないと想定して強く引っ張りあげたのだろう、大きく少女の左脇が空く。

 私は空いたそこに左肘を捻じ込み、腹筋の要領で起き上がった。

 バランスを崩した少女は変わり果てた元路地の地面に顔から崩れ落ちる。

 路地を構成していた建物の上部が崩壊し、開放感を増した空間に月明かりが入ってくる。

 月光に照らされた惨状は筆舌に尽くしがたく、戦闘の激しさを物語っていた。

 うつ伏せに倒れる少女の制服は自らの血でぐっしょりと濡れそぼり、黒色の制服が一層黒く染められていた。

 その濃い黒は一目見るだけで重さを連想させる。

 あれほどの出血では常人であれば呼吸を止めたくなるような臭いを纏っているだろう。

 血液の臭いを全身からさせているというのに、一切の外傷が見受けられない。私が撃ち込んだ四箇所の銃創は完全にに完治していた。

 制服に穴さえ空いていなければ、誰も彼女が撃たれたなどとは思うまい。

『ピー、ピー、ピー』

 耳に障る甲高い音が首元から聞こえ始める。

 時間いっぱい。制限時間だ。

 能力を使いすぎた影響で吸血鬼化症がかなり進行している。

 これ以上戦えば、私の首元が涼しくなってしまう。身長を肩で測るのはごめんだ。

 一度撤退するのが無難。

 自分の首も心配だが、何もせず撤退するのはよろしくない。

 現在はまだ誰もやってくる様子はないが、時間が経てばそうも行かないだろう。

 建物が一つ倒壊したのだ、近隣に住民がいなくとも誰かが通報しているのは想像に難くない。

 むしろ、今まで人が一人も通りかからなかったのが奇跡的なくらいだ。

 人通りがほとんど無いイコール0ではないのだから、戦闘していたこの十数分の間に人が通る可能性は十分にあった。

 相手を三分もあれば倒せる、そう踏んだ、私の判断ミスだ。

 戦うのであれば、スムーズに事を終えなければならない。

 戦闘時間が三分であろうと一分であろうと人が通る可能性は0には出来ないが、可能であるのならば人を巻き込む確率は下げなければならない。

 過去の戦闘を参考に、人通りのほとんどない路地を選んだとはいえ、こう派手にやらかしたのでは数分もしないうちに人がやってくるのは間違いないだろう。

「この音が気になるか? お前があまりにも強いから応援を呼んだ。私の仲間がもうすぐ駆けつけてくる」

 これはブラフ。

 こう言わなければ私が逃げた後、こいつがここに居座ってしまう可能性がある。

 そうなると数分後には来るであろう野次馬に、この少女が襲い掛からないとは限らない。

 だけど私がこう言っておけば、私の仲間から逃げるために少女はここからは離れるだろう。希望的観測になるが離れて欲しい。離れてくれなければ困る。

 誰も見ていないところで殺人を行っていることから、目立つ場所で人を殺すとは思えないが念のため。

 自分ではアカデミー賞ものの演技をしたつもりだ、上手く引っかかってくれればいいが。

「卑怯者!」

 お、乗ってきたかな。

「そもそもお前が喧嘩売ってきたんだろ? どっちにしても遅かれ早かれ私とはぶつかっていただろうけどな」

 巷で起こっている連続殺人事件の犯人はこいつで間違いないのだから、明日明後日中にでもラファエラの指示でこいつを弾くことになっていたはずだ。

 あのような見た目だがラファエラも無能ではない。ラファエラは自らの目的を達成するための努力は惜しまない。犯人を探し出し、街の被害を最小限に抑えることが出世に繋がると考えている。

 どんな手を使ってでもこの少女を探し出しただろう。

「あなたが先輩と一緒にいるところを見ていると笑えなかったんだから仕方がなかったんです。笑えないと私ダメになってしまうから……だからあなたを排除しようと思ったんです」

 上半身だけを起こし、俯き肩を落とす少女。左手を私の方に伸ばして――。

 手に握られているのは私の手から奪ったレイジングブル。それを言葉を言い切ると同時に私に投げつけてくる。

 不安定な体勢で投げたとは思えないほどの勢いで、三キロを超える鉄の塊がはっきりとした殺意を持って私の頭めがけて襲い掛かる。

 感覚を開いた副作用でいつもより感覚が鈍くなった私の咄嗟に前へ出した左手に当たる。

 ジンッと身体の奥がしびれる感覚。勢いを私の左腕に完全に吸収されたレイジングブルが足元に転がる。

 しまった! 右手にすればよかった。

 後悔しても遅い。

 さらに私を後悔が畳み掛ける。

 飛んでくる銃に気を取られ、私が少女から目を離したのは一瞬だった。

 その一瞬で、立ち上がり私との距離を詰め、私の首を首輪の上から掴んだ。

 右手で。

 とても最近までただの女子高生だったとは思えない闘争本能。

 ウイルスのせいなのかそれ以外の要因が働いているのかはわからない。

 私にわかるのは、私にはもう打つ手がなく、チェックメイト、王手、袋小路、デッドエンド、詰んでいるということだけだ。

 能力を使えば吸血鬼化症が進行し、爆死。使わなくても紙のように薄くされて、圧死。

 どっちの死に方が私にはふさわしいだろうか。

 うーん、なんて首も傾げないし、そもそも選ぶわけがない。

 二者択一ではなくて三者択一なのだ。

 三つ目の選択を選ぶ。

 出来るだけ自分に使いたかったが、今は四の五の言っている場合ではない。迷いは死に繋がる。

 私はリンゴに噛み付く時のように口を大きく開き、首を掴んでいる少女の右手に噛みつ――けない。

 電子音が鳴る。その音の一つ一つがリズムを作り、音を紡ぎ曲になる。

 私の首からではない。

 音源は瓦礫に埋まって目視できないが、間違いなく私の鞄があった場所からだった。

 そういえば、ラファエラから貰った携帯電話の呼び出し音がこんな音だった気がしないでもない。

 それにしても、この場面でワルキューレの騎行は縁起が悪い。映画の一場面を嫌でも連想させた。

 首にかかかった少女の手が緩む。

 どうやら映画とは違い、地獄からは脱することができそうだ。

 壊れたメトロノームのように頭を振り、少女の鋼のように屈しない小さな手の平から逃れる。

 足元のレイジングブルを拾い一目散に駆け出す。

 両腿に気合という鞭を入れるがあちこち開いた副作用で力が入らず、思ったような初速がでない。首ばかりが堰(せき)間抜けなアヒルのような走りになる。

 背後から動き出す気配がする。少女が当然の権利のように追いかけてきているのだろう。

 掴まれるとまずいのでオトリの右腕を少女が掴みやすい場所に見せておく。これで問題ないはずだ。

 私を是が非でも捕まえたい少女は、私の右手に襲い掛かる。

 餌に噛み付く肉食動物のように。

 掴んだ瞬間に勝ったと思ったに違いない。

 後は動きの鈍くなった私を押し倒し、煮るなり焼くなり出来ると思ったに違いない。

 達成感に満ち溢れた表情を浮かべるに違いない。

 そして、少女は哀れ肉片となった私を見下ろし、この日一番の表情を浮かべるのだ。

 どう考えても、この流れで少女は私に勝てる。完璧な流れだった。

 そのどれもが不可能だという点にさえ目を瞑れば。

 私は掴まれた右手を外す。肘から下の重みが消え、右半身が途端に軽くなりバランスが悪くなった私はたたらを踏む。

 腕が取れるなんていうのは予想外だったのだろう、少女も後ろに数歩よろめき尻餅をついた。

 あまりやりたくはないが、どういう原理かは忘れたが、とりあえず私の意志で着脱出来る義手なのでトカゲの尻尾のようにこうやって切り捨てることも出来るのだ。

 脚に力を込め、右腕の肘から下がなくなり行き場がなくなった袖を翻し、路地裏から離脱。後ろから追ってくる気配はない。

 少女によって薄くされた建物が完全に崩壊する音が鼓膜を振るわせた。

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