『痩せ犬と夜道』

@ono_teruhisa

【短編】痩せ犬と夜道

                     小野 晃久




 野犬が出た。

 オレがその報せを耳にしたのは夕食の時だった。いつも通りの遅めの時間、両親と三人で食卓を囲んでいると、不意に戸口で防災無線が鳴った。それは毎日、市の支所が流している町からのお知らせだった。そこで、注意が喚起されたのだ。近頃町内で野犬の目撃情報が相次いでいます。気を付けて下さい、と。

 その放送を聞きながら静かに箸を動かしていた父がポツリと呟いた。

「最近は野犬言うて聞かんようになったなあ。昔はここらでもたまにおりょうたが」

「そう言やあ……」と、つられたように母が口を開いた。

 その話はこうだ。母がまだ子供だった時分(それは戦後しばらくの頃だ)、近所の道端で独居老人が遺体となって見つかる事件があった。早朝に発見されたその遺体は激しく損傷し、見るも無残な姿だったそうだ。警察が調べた所によると、その老人にはどうやら痴呆性の徘徊癖があったらしい。状況から見て夜道にさまよい出た所を運悪く野犬に襲われたものと考えられた。母は野良犬の話を耳にすると今でもその恐ろしい出来事を思い出すと言うのだ。

 それを聞いた父は「昔はそがんことがたまにありょうた」と頷き、二人の話題はひとしきり過去に向かって行った。

「ごちそうさま」聞くともなしに聞いていたオレは、空いた食器を流しへと運んだ。それからマグカップ一杯のインスタントコーヒーを淹れ、離れにある自室へと引き上げた。



 その日の深夜、オレは急にコカ・コーラが飲みたくなった。そんな嗜好品、普段はまったく口にしないのだが、ごくたまにあの刺激と香りと甘さが恋しくなることがある。その衝動が湧き上がって来たのだ。

 これはいささか面倒な事態だった。と言うのも、オレのみならず家族もまずそんな物を飲まないものだから、ストックが一切なかったからだ。つまり、飲もうと思えば買いに出る必要がある。しかし、オレの住んでいる場所は酷く田舎の山の中で、近くに歩いて行けるような深夜営業のコンビニやスーパーなどなかった。車を使うにしても一番近い所で三十分はかかる。往復で一時間、この夜更けに運転して行くのはさすがに億劫だ。

 他にコーラを売っているのは自動販売機ぐらいか。それならここから徒歩で十五分ほどの所にあるが――。

 オレはしばらく考えて、結局自販機を選ぶ。どちらにしてもあまり違いはなさそうだが、夜中に片道二十キロ近い運転よりは一キロ余りの行軍の方が幾らかマシだろう。

 何はともあれ、もはやコカ・コーラに支配された口を解放するには現物を手に入れるしかなかった。オレは財布を手に、上着を引っかけて部屋を出た。



 まだ肌寒い季節、オレは夜気に身をすくめつつ庭先の玉砂利を踏んだ。そこでちょっとの間じっとする。しばらくして人感センサーで点いていた玄関のライトがふつりと消えた。

 我が家も隣家も、皆寝静まっている時間だ。人工の光はどこにも無く、身体の内にまで侵食しそうな暗みが押し寄せて来る。

 人による光源が消えれば不思議と雑音まで失われたような気がした。それまでの静寂が静けさへと変わる。そこは音で溢れていた。近くの竹林で何かが落ちて反響し、風に揺らされた杉の葉がささめき、谷川の流れがざわめく。

 いつの間にか閉じていたまぶたを開ける。すっかり闇に慣れた目にとってそこは極めて視覚的だった。植込みのツツジや松がシルエットになって浮かび上がる。その先に石垣があって、下が小さな畑と空き地になっている。更に藪が谷の小川へと下って行きながら、向かいの山の黒々とした影につながる。もちろんそれは名の有る山ではない。ほんの手の届きそうな高さの山々が、陰影の濃淡に脈を打って並んでいる。

 それにしても闇夜にしてはやけに明るいと思って空を見上げれば、今更ながら満月に気付く。その輝きは満天の星々を霞ませて煌々と青い。

 これなら懐中電灯さえ要らないか。

 玉砂利を踏む音を立ててオレは隣家との間の路地から家の裏手に出た。

 家の裏には共有私道が通っている。そこで一転して再び人工の光が目を刺した。コンクリート舗装のでこぼこ道は、裏隣りの家の敷地を迂回うかいして公道に合流している。車一台分ほどの細いアスファルトの道が山から谷に向かって下りていた。光源はその山手にある街灯だった。

 オレは光を背にそろそろと道を下った。ホームセンターで買った安物のスニーカーが舗装を叩き、足音が山中にこだまする。谷筋に隠しようもなくオレ独りの存在が提示されていた。改めて他に活動する者の無い時間なのだと実感する。

 畑の間を過ぎればすぐに谷筋へと合流する。道は左に大きく曲がって谷川に並行しながら川上の方へ下っていた。カーブの先に瓦が見えた。道の下、川を越えた向こう岸に家があるのだ。ガードレールまで迫れば、崖があって、コンクリで固められた四角い小川があって、広めの道があって、見下ろす屋根がある。屋内は真っ暗だった。

 その家の少し上手で下りて来た道は広い道に合流する。街灯がその丁字路を照らしていた。坂の上からそれは、寒々しいスポットライトで照らされた演者のない舞台のように見えた。

 街灯の真上にももう一軒、山岸を開いて建てられた家があった。こちらには門灯がともっていたが、やはり人の気配は感じられなかった。

 坂を下り切って三メートルほどのコンクリート橋を渡る。橋のたもとの公民館前を横切って、オレは街灯の下まで来た。道は車が余裕ですれ違えるほどの広さになる。この道を右折して下りれば更に大きな谷に合流し、同じような合流を繰り返しながら川は広くなって行く。それに従って道も開けていずれは町の中心部へと至る。だが、それは何キロも先の話だった。

 オレは丁字路を左に折れた。道は浅い勾配を持って上り始める。この坂を上り切れば比較的平地の多い集落になっていて、そこの個人商店に目的の自販機があった。

 緩い右カーブの先で右手の山肌が一部開けていた。そこでは斜面にへばり付くように幾つかの畑が耕され、何軒かの民家もあるはずだった。たが、いずれにも灯りは無く、山の影と一体化したその姿は全く見えない。

 そこを過ぎればしばらく人家も街灯も無くなる。両側を山で挟まれた谷筋を曲がりくねりながら、全体としては直線的に上って行く。山岸の雑木林から枝が幾本もせり出し、一層暗く道を覆っていた。それでも空を見上げれば月は変わらずに明晰めいせきで、少々枝葉に遮られようが歩けなくはない。

 ゆっくり息を吐く。オレの口からこぼれた薄靄うすもやは藍色の空に向かってあっという間に消えた。胸が高鳴っていた。それは小川のせせらぎに混じり、足音と同じようにこの山々に反響して聞こえた。

 何か、人外魔境じんがいまきょうにでも踏み入るような心地。

 それでも、引き返そうとは思わなかった。「コーラが飲みたい」そう口の中で唱えて歩き続ける。

 谷合の常として、道は山の褶曲しゅうきょくを削って幅を稼ぎ、且つなるべく真直ぐになるように通してある。右手側はそうしたのり面と山に切れ込んだ雑木林が交互していた。一方、左側はガードレールを越え、斜面はなだらかになりながら小川へと下がって行く。

 そうして比較的なった所は田んぼとして整地されていた。田は川上に向け、十数枚が段を連ねる。こうした地形だから土地の形状は狭く複雑で日当たりも悪かった。お世辞にも生産性の高い場所ではない。それでも先人たちは苦労して開墾かいこんし、少しでも多くの米を得ようとしたのだ。ただ、それも今は昔。集落の高齢化が進む中、近代的な米作りに適応しないこれらの田は継承もされず、もうほとんどが放棄されている。結果、土地は荒れて今は稲ではなく雑草ばかり育っている。

 道下に並ぶ田のなれの果てを眺めながら数十メートルは進んだだろうか。緩いと言ってもさすがに坂道で身体は温まって来た。上気した頬を撫でる冷気が今は心地良い。

 ふと立ち止まり、振り返ると谷を挟む山のシルエットが暗く天を支えていた。左右に二、三度うねった山肌の間にポツリと光が見える。先ほどの丁字路にあった街灯だ。深い闇に眩しく輝く光点は、しかし、蛇行する道のせいか距離は曖昧でやけに遠くに感じられた。

 先へ進もうと向き直る。再び歩き出し――かけてオレははたと動きを止めた。

 今、せせらぎの中に何か別の音が混じらなかったか。

 そう思ってきょろきょろと首を振る。すると、やはり何か聞こえた。左手、ガードレールよりも先の田んぼの中からだ。荒れ放題に有象無象の枯草が織りなす草むらのどこかに何か動物の気配がする。だが、この夜陰にあって姿は全く見えない。

 一体、どんな動物だろう。オレは脈が速くなるのを感じた。

 タヌキやイタチだろうか。それともネコ、ウサギ、キツネ、ハクビシン……。それなら良い。そうした小型の動物ならどうと言うことはない。しかし、それよりも大きなものだとしたら。例えば、この辺りで出くわして恐ろしいのはイノシシだ。あるいは――。

 思わず唾を呑む。引き攣った喉がゴキュッと鳴った。オレは息を潜めてじっと待った。草むらの中の動きを逃すまいと意識を集中する。目を凝らし、何とか暗みを覗き、耳を澄まして獣の息遣いさえ拾おうとする。

 ガサリ、とまた音がした。だが、それは目を向けていた田の方ではなく、背後の杉林からだった。

 瞬間、オレは駆け出していた。咄嗟とっさに考える暇もなく、全力で足を回転させる。ただただその場から逃げようと一心不乱に。

 闇の中で景色が飛ぶように後ろへと流れた。アスファルトだけが青白く浮き上がる。おぼろげな心象のようにそれは瞬く間に過ぎ去り、ひょうひょうと耳を掠める夜風の中にオレ自身が溶けて行く。

 背中を押しているのは恐怖心だった。だが、同時に掴み所のない高揚感が手を引く。これならいつまででも、どこまででも走れるのではないかと錯覚する。

 もちろんそれは錯覚だ。妄想の中で永遠に引き延ばされたその感覚も、実は十数秒。現実のオレは風に溶けるはずもなく、日頃あまり部屋から出ない三十路前の身体はすぐに悲鳴を上げ、きつくなり始めた傾斜に足がつかえ、酸素を求めて息がつかえ、走れなくなった。ノロノロとスピードが落ちれば、やはり特別速かったはずもないと気付き、その遅さにガッカリして完全に足を止める。膝に手を突いてぜえぜえ喘いだ。身体は熱くなり、汗がにわかに吹き出て来る。

 かたを見やる。先ほどいた所からは数十メートルほどか。何も追いかけてきてはいない。それを確認できて安堵しつつも、内心「しまった」と思う。逃げるなら家の方へと戻れば良かったのだ。それを、オレは慌ててそのまま坂を上ってきてしまった。

 谷は先ほどより細くなり、両脇の山林と斜面が暗い壁となって圧迫している。夜空も狭くなった気がした。来た道は闇を縫うように下っている。先ほどは見えた街灯も山岸の陰に隠れてしまってもう見えない。月影さやかに朧な風景だけが身を包む。

 不意にあらゆるものから切り離されてしまったような心細さが込み上げた。

 それでもまだ、オレはコーラが飲みたいのだろうか。自問してみてもよく分からなかった。

 されど、ここで引き返すのも馬鹿馬鹿しい。もはや自販機の方が近いのだ。

 結局、惰性のままにまた坂を上り始める。

 S字を描いた道の先、谷の一番狭くなった所が埋め立てられていた。そこに黒々とした四角い口がぽかりと開いている。上は山を切り開いて通された広域農道が直交している。その道幅分、二十メートル足らずのトンネルだ。

 短いとは言え、入り口に立つと暗さはいや増さった。さすがに月の光も届かず、中はまるで深淵のよう。反対側の出口でアスファルトが余計に輝いて見えた。

 この中に入るのか、と少し躊躇ためらう。それほどに視界がかず、様子がうかがえない。先ほどの草むらではないが、何か潜んでいる可能性もある。ソイツらは息を潜めて待っているだろう。音も立てず、虎視眈々と、獲物がその領域に足を踏み入れるのを。そうして、間合いに入った瞬間――。

 いや、それはいくら何でも妄想が過ぎるか。こんな遮蔽物しゃへいぶつもない所で、野生動物が気配もなくじっとしている事などまずない。

「気配はない。ない。ない……」

 オレはトンネルに踏み込んだ。

 そろり、そろりと足を動かす。スニーカーの地面を打つ音が壁に反響する。前に進めば進むほど深みに落ちていくかのようだ。いつの間にか、自分の手足すら見えなくなる。ぐっと身体が重く感じる。何もないはずなのに、何かに阻まれている気がする。混乱しているのだ。あまりに暗すぎて、脳が目の前に黒い物体があると勘違いしている。だから、身体はぶつからないために硬直してしまう。それが分かっているのにままならない。この程度の距離でさえ遅々として進まない。

 こんな状況で、もし本当に何か潜んでいたらどうしよう。それが危険な獣だったら。

 腹の底がざわついた。

 それを強引に封じ込めて前に進む。何かいたとして、ソイツが襲ってきたとして、だからどうしたと言うのだ。それはそれだけの事ではないか。

 所詮は短いトンネル。どんなに鈍い歩みでも抜けるのはあっという間だった。再び視界が開け、無事満天下へと戻る。月は明るい。「こんなにも明るい」先ほどまでとはまた違った感慨でオレは空を見た。今はただこの明るさだけがありがたい。何事もなく、この深い闇を抜けたのだ。

 安堵があった。強張っていた肩の力がふっと抜ける。しかし、足は止めなかった。オレは歩き続ける。

 トンネルの先は右の大曲になっていた。同時にこの坂で一番の勾配こうばいでもある。オレが少しでも傾斜の緩い左端を歩いていると、曲がり切らない内に空が広くなった。坂道の終点が見えたのだ。

 両脇の山林が左右に広がり、左前方に田んぼが現れる。その田を回り込んだ道はちょうど対角で頂点に達し、空を指して途切れていた。周りの山稜ももう丘のような高さでしかない。

 コーナーの出口付近で道は一度平らかになった。右に農道へと合流する分岐があり、右正面には久々に人家があった。やはり屋内に起きている人気はなかったが、それでもここは人の領域だった。道なりには街灯も二つほどあり、いよいよ戻って来たのだと思える。

 そこから左に弧を描いた道は最後の十数メートルで再び坂になっていた。

 上り切ると四辻よつつじになる。ここはこの地区で一番高い場所と言う訳でも無かったが、直進方向の山林が開けており、見晴らしが良い所だった。なだらかに低くなる土地の多くは畑で、その間に民家やこんもりとした林、幾つかの街灯の光が模様を成す。遠くにはここより高い山々の影が霞んで見えていた。

 景色を透かし見ながらオレは十字路を右へと折れた。数十メートル先に五、六棟の民家や倉庫が集まっている。その中で再び右折する。そこを少し登ると大昔の小学校とそのグラウンドで、今は地区集会所として使われている。目的の個人商店はその登り口の前だった。

 当然ながら営業している時間ではない。と言うより、何年か前に老主人が他界して以来、もう店としてはほとんど機能していないのだ。入口の古びた木枠の引き戸には大きなガラスがハマっており、内側で閉じられたカーテンが随分と色褪せて見えた。

 それでも、店頭に置かれた自動販売機だけはかろうじて動いていた。缶の模型が並ぶディスプレイはライトが壊れているのか暗いものの、電源ランプは正常だ。赤地に白い波模様で彩られた機械は低く静かに唸っている。

 オレは財布を取りだして二百円を投入した。機械が景気よく硬貨を飲み込み、選択ボタンに光をともす。紅茶花伝が売り切れていたが、幸い目的のコーラは残っていた。

 鈍い音を立てて落ちて来たロング缶は全く冷えていなかった。どうやらこの自販機はかなり調子が悪いらしい。しかしながら、この状況では文句を言う先もなく、オレは仕方なくプルトップを引いて口を付けた。

 鼻をくすぐるあの軽やかな香り。濃厚な甘さ、甘さ、甘さ。喉ではじける刺激。

「あぁぁ、まじい」

 途中で飲むのを止めて息を吐く。常温のジュースはねっとりと舌に絡み付いた。やはりそれは本来の味ではない。いや、しかしこれが本当の味なのか。

 コーラを口にする時、いつもそれほど好きな味ではないなと思う。ぬるさを差し引いたとしても、それはやはり今回も同じだ。だのにどうしてたまに飲まずにはいられなくなるのか。

 ともかく、目的が果たせてオレは満足していた。頭を傾け、半ば無理矢理にもう一度甘々の液体を腹に流し込む。ピリピリと電流に似た快感が体を満たす。

 ふと軒先から夜空が見えた。満月が炭酸の泡のように美しく映えている。オレはそれに向かってガフッとゲップを放った。

 ああ生きている。それが幸せだった。


                        -了-

                     2018年2月24日



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