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ミラ
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「おじさん、僕を買ってくれませんか」
という声とともに、街中で突然背後から肩を叩かれたのである。
俺にはそちら系の趣味はなかったが、よほどの美少年ならば考えないこともないかなと、振り向いて声の主である二十歳前後の若者を観察したのだが、そいつは若さ以外まるで見るべきところのない冴えない容貌の持ち主であって、こんなやつに男色家と思われて誘いを掛けられたのかと自分が情けなくなったものの、それでも何となく興味を引かれたので、
「ほう、いくらで売るつもりかね」
と聞いてみたところ、
「それは身体の、どの部分かによって違います」
などと言いやがるので、さすがに少し気持ち悪くなったのだが、
「部分で違うというのはつまり口とか手とか尻とか、プレイでどこを使うかによって値段が違ってくるということかい?」
と訊ねたら、若者はなぜか怪訝そうな表情を浮かべた。
「ま、いずれにしても俺には、男とそういうことをやる趣味はないけどな。じゃあ、さいなら」
片手を軽く振って立ち去ろうとしたら、若者はあわてた様子で、
「ああっ、いえいえ。そういう意味で買ってくれと言ったのではないんです。僕の臓器をどれでもいいから買っていただけないかと思って」
「何、臓器だって?」
俺は若者の顔をまじまじと見つめた。
いかにも凡庸でつまらない顔立ちだが、目つきは正常で狂気を窺わせるところはない。
「とにかく話を聞こうじゃないか」俺は言った。
そのあと俺たちは近くの公園のベンチに座って、自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながらじっくりと話をしたわけだが、要点だけ掻い摘むと、彼はある事情で急にどうしても大金が必要になり、しかしこれまたある事情で仕事で稼ぐことも借金することも出来ず、このままでは死ぬしかないと途方にくれていたとき、そうだ死ぬくらいなら自分の臓器を売ればいいじゃないかと天啓のように閃いたということなのである。
「さいわい体だけは丈夫ですから、臓器の一つや二つ無くなったって、たいしたことはありません」
そうかなあ、ちょっと認識が甘すぎるんじゃないか、と俺は思ったが口には出さず、話の続きを待った。
「さて、売るといっても誰に売ればいいのかわからない。とにかく目に付いた人に声を掛けてみよう。あ、あそこに身なりのいい裕福そうなおじさんが歩いている。試しに話を持ち掛けてみるか、そう思って最初に声を掛けたのが──」
「俺だったというわけか」
「そうです」
「フムン」
確かに俺は見るからに高級そうなオーダーメイドのスーツを着ているし、腕時計はダイヤのロレックス、そしてもちろん見た目に違わず裕福だ。一時は川べりのダンボールハウスで暮らすほど落ちぶれたこともあったのだが、ひょんなことから手に入れた十万円を元手に蓄財し、今では贅沢三昧の日々である。
ところがそんな俺でもひとつだけ悩みがあった。
人間ドックで緑内障の疑いありという検査結果が出たので更に精密な検査を受けたところ、近い将来に失明する可能性が高いと言われ大変なショックを受けたばかりなのである。
俺は若者の眼を覗き込んで言った。
「わかった。買わせてもらおう」
「本当ですか。ありがとうございます。で、何に致しましょう。腎臓ですか。肝臓ですか。それとも──」
「眼だ。君の眼をもらうよ」
眼と聞いてさすがに最初は躊躇っていた若者も、俺の提示した金額に眼を丸くし、悩みに悩んだ末決心してくれた。賢明な判断といえるだろう。彼が今すぐ必要としている大金を差し引いても、一生豊かに暮らせるだけの額なのだ。切羽詰って自殺まで考えていた彼にとっては、たとえ視力と引き換えだとしても夢のような話に違いないのである。
緑内障は角膜移植では回復しないので眼球と視神経を丸ごと移植する必要があるのだが、この難手術の経験があるのは世界でもわずか数人の高名な眼科医だけで、日本国内においては一人しかいないという。
もちろん金と引き換えに健常者から眼球を摘出して移植するのは立派な臓器売買であり、違法行為であるのは言うまでもない。だが世の中金さえあれば大抵のことは可能になるのであり、そして俺には金が十分過ぎるほどあった。
そういうわけで若者との商談が成立して数日後には、その日本人医師に手術を執刀してもらえるよう手はずを整えることが出来たのだった。
いよいよ手術という日の朝、俺は病院に向かうタクシーの後部座席から窓の外を眺めていた。
車窓を流れ過ぎてゆくのは、ごくありふれた何の変哲もない町並みであった。が、そのときばかりはそんな景色が堪らなく愛おしく思えた。手術に対する一抹の不安が心をよぎったからだろう。
ふいに逃げ出したい衝動に駆られた。しかし今手術をしなければ、いずれは失明してしまうのである。そのときに、あの若者がまだ眼球を提供する意思を持っているとは限らないし、ほかの提供者が都合よく現れる保証もなかった。
「やるなら今しかない。逃げちゃ駄目だ」
青空にポツンとひとつ浮かんだ小さな雲を眼で追いながら、そのとき俺は自分にそう言い聞かせたのだった。
俺の心配をよそに手術は滞りなく終了し、一週間後には両眼を覆っていた包帯が取れたのだが、そのとき恐る恐る眼を開いた俺の前には、狂人の見る悪夢のようにサイケデリックな世界が広がっていた。
俺の訴えを訊いた執刀医は、「手術の失敗ではありません」と、ゾンビのような緑色の顔をこちらに向けて断言した。
「どうやらあなたと提供者の『色のクオリア』が、逆転スペクトルの関係にあったようですな」
最初は何のことやらさっぱりわからなかったが、クオリアというのは感覚器官が外界から受け取る質感のことであり、それは必ずしも万人に共通しているとは限らないという。
要するに眼球を提供してくれたあの青年にとっては、これが正常な世界の見え方だということなのだ。
俺はこの不気味な色彩の世界に、いつか慣れることができるのだろうか。
ことがクオリアの問題だけに、くおりゃあ参ったなあ。
なんちゃって。
目玉商品 ミラ @miraxxsf
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