此岸浄土(ヘヴン・アンダー・ヘヴン)
「人、そして天魔よ、まずは武器を収めるがよい」
蓮の花が艦隊に対して水平に向きを変える。いつの間にか、蓮の花の上に人影が見えた。宇宙服すら着ていない、一人の少女。
「折角この広い宇宙で出会ったというのに、相争って何の得があろうか。」
朗々と語る透き通った声が、人類、天魔、両艦隊の人員一人一人の耳に届いた。
「……あの花の上に地球人類が生身で立っているように見えるが、私は気が狂ったのか?」
「い、いえ、私の目にも、確かに映っております」
上帝が、呆然とした様子で部下に問いかける。強靭な肉体を持つ天魔ならともかく、人間にそんな芸当ができるわけがないことくらい、彼らとて承知している。
「それに、この声はなんだ? どこから聞こえてくる? こちらの通信網がジャックされているのか?」
「いえ、通信、情報ネットワーク、共に正常です。……その、私には、あそこに立っている人間が喋っているように感じるのですが……」
言うまでもないことだが、音とは空気の振動であり、伝えるべき空気のない宇宙空間で声を出そうとしても、伝わるわけはない。
「……重力子縮退砲、発射準備。出力設定、百パーセント。目標、前方の正体不明物体、及び不明生物」
「は? いえ、しかし、この距離でその出力では……」
低出力での使用ならば、生成されたマイクロブラックホールはすぐさま蒸発するため周囲への影響は軽微なものだが、最大出力で強大なブラックホールを生成すれば、近傍の味方艦隊にまで被害が及ぶ懸念がある。どころか、周囲の重力バランスが崩れ、天体の運行にまで影響を及ぼすことになる。宇宙秩序を守るものを標榜する超天連にあるまじき暴挙だ。
「聞こえなかったのか? 重力子縮退砲、発射準備だ」
「は、はっ! 重力子縮退砲、出力設定、百パーセント! 目標、前方の正体不明物体、及び不明生物!」
オーバーロードの頭が割れ、アカシック・スターの発射態勢に入る。破滅的なエネルギーが、その砲身に充填されていく。
「まったく……こっちもそっちも、人の話を聞かん連中だ」
しかし、それを前にしても彼女は泰然とした態度を崩さない。
巨大な超重力の塊が解き放たれ、彼女を呑みこまんと迫る。
またどこから取り出したのか、彼女は美しい装飾がなされた水瓶を放り投げた。少女が両腕で抱える程度の大きさだった水瓶は、その手を離れた瞬間から千倍、万倍、億倍と大きくなり、暗黒の天体を逆にその口の中にすっぽりと呑みこむ。
手元に戻った水瓶を彼女が逆さにすると、中から一粒の種がころりと転がり出た。
「……アカシック・スター、エネルギー反応消失……。対象へのダメージ、周辺艦隊の被害、重力場異常、いずれも確認できず……」
「……馬鹿な……」
超天連の誇る最強の兵器。どんな防御手段も意味をなさない重力子縮退砲すら、彼女の前では無力だった。
「しかし、こう殺風景では、落ち着いて話もできんな。どれ……」
蓮の上の少女はそう呟くと、先ほどの種を宙へ向かって無造作に放った。
彼女の手を離れた種は、ほんのわずかな波紋を残して宇宙空間に沈んだ。何も無いはずの空間に。
一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。暗黒の宇宙空間に、色が溢れた。
鮮やかな草花が萌える庭園。いくつもの蓮が浮かぶ池。あちこちには、煌びやかな楼閣や塔が屹立している。緑の中には、小さな虫や鳥までもが自由に辺りを飛び回っている。そんな美しい光景が、地平線の彼方にまで続いている。そう、宇宙のどこまでも続いているのだ。空の黒と煌めく星々が、ここがまぎれもなく宇宙空間であることを示している。
両軍の艦艇は、いつの間にか池に浮かぶ蓮の上にちょこんと据えられていた。
「ほれ、人も天魔も、そんな大仰な船から降りて、こちらで話そうではないか」
庭園の中央、立派な東屋の下で、彼女が手招きをしていた。
「全艦隊、跳躍!」
上帝が叫んだ。
「あ、は……ど、どこへでしょうか?」
「どこでもいい! ここから少しでも遠くへ離れろ!」
理解を超えた出来事の連続に、さしもの彼も完全に余裕を失っていた。
「そ、それでは、隣のアングリ銀河へ……。全艦隊、空間跳躍!」
超天連の艦隊が一斉に空間跳躍を行い、庭園から消え去った。
「全艦隊、ワープアウ……ト……」
艦隊は数秒の亜空間航行を終えて、遥か百万光年離れた別の銀河へワープアウト、するはずだった。
「これこれ落ち着け。別に取って食おうというのではない」
しかし、そこにあったのは先ほどと同じ庭園の光景だった。超天連の艦隊は、先ほどと同じく蓮の上に行儀よく並んだままだ。
「夢でも見ているのか、私は……」
上帝が呆然と、呟いた。
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