御前花火

ミラ

御前花火

 中庭の掃除は、我々の日課だった。

 医者に言わせれば行動療法の一環だそうだが、掃除夫代わりに利用していることなど、お見通しである。

 そのぶん入院費を安くしてもらいたいぐらいだが、そんなことを言えば退院が遠のくのは目に見えていた。我々はある意味で囚人なのである。

 毎夕庭掃除が終わった後、夕食までの約二十分間、ベンチに座って他の病棟の患者と世間話をすることは、私の数少ない楽しみのひとつである。

 もうひとつの楽しみは、ある美人看護婦との密かな戯れだったりするのだが、その話は後ですることにしよう。ちゃんと最後まで読んでくれる人だけの特典である。

 さて、いろんな患者と話をすればするほど、世の中には実に多種多様な精神疾患が存在するんだなと、あらためて驚かされる。妄想幻覚強迫観念、多重人格離人症、躁鬱病に癲癇発作、統合失調自閉症、淫乱症に多動症。

 しかし世間が思っているほど我々は健常者と違っているわけではない。大抵の患者は一見ごく普通に見える。むしろ余りにまとも過ぎて、そのせいで社会から弾き出されたかのような人さえいる。

 これから私が語るのも、そのような人物の一人についてである。

 その男は元外科医だった。自分でそう言ったのだ。もしかしたら嘘、あるいは本人の妄想かも知れないが、私には確かめようがない。

 よって私がこれから記す彼の告白も、どこまで本当かわからない。もしかしたらその男の存在自体が、私の妄想かも知れない。いや、これは冗談だ。

 その日も庭掃除の後、私は中庭を取り囲むように配置されたベンチのひとつに腰を下ろして休息しながら、誰か話し相手になってくれそうなやつはいないかと辺りを見回していた。

 そして掃除用具置き場のそばで所在無げに佇む見慣れない男に目をつけた。歳は三十代後半ぐらいか。髪は短く刈り上げ、入院患者用の白い服が真新しい。新入りだな、と私は思った。

 私は立ち上がり、ゆっくりと男に近づいていった。

「君、何番病棟の人」

「えっ、四番病棟ですけど」

 男の顔に怯えの色がよぎったのを、私は見逃さなかった。無理もない。場所が場所だけに、もしかしたら相手は凶暴な人間かもしれないのだ。

「そうか、じゃあ巽先生だな」

 各病棟にそれぞれ専任の医師がいるのである。

「そうですが」

「彼は元々ここの患者だったらしい。自分を医者だと思い込んで、そう振舞ってるうちに周りも騙されて、いつの間にか本物の医者ということになってしまったという噂だ。気をつけたほうがいいよ」

「あはは」男は笑った。「わかりました。気をつけます」

 冗談が通じるということは、さほど重度の精神疾患ではないということだ。冗談を冗談と認識できるかどうかは、精神の健全さを測る上での、ひとつの重要な指標である。もっとも下手をすると、こちらの正気が疑われることになるのだが、私が完全に正気なら、そもそもこんなところにいるはずもない。

「夕食まで、まだ時間がある。そこのベンチに座らないか」

「そうですね」

 男は阿形と名乗った。幾つか言葉を交わすうちに、彼は私に気を許したのか、ここへ来た経緯を詳しく語ってくれた。彼の様子から自発的に入院してきたのだと思っていたのだが、意外にも強制入院だった。

「私は本来犯罪者として監獄に入れられるべき人間なんです。それなのに彼らは、犯罪が起きた事実を隠蔽するために、私を狂人扱いにして、ここに放り込んだのです。あ。いえ、つまりその」阿形は自分の失言に気づき、口ごもった。

「気にしなくていい。話を続けて」私は先を促した。


――私には今年十歳になる息子がいました。生まれつき脳に障害があり、言葉もしゃべれなければ、食事もトイレも一人ではできませんでした。

 妻は息子の世話に疲れたのか、三年前に列車に飛び込んで自殺しました。外科医ですから他人の死体は見慣れていましたが、身内の、それもバラバラになった死体を見るのは、それが初めてでした。

 仕事のこともあり、私ひとりでは息子の世話をすることができないので、知的障害児専用の福祉施設に預けることにしました。職業柄その方面には伝手がありましたから、信頼の置ける施設に入れることができました。

 ですが当然の帰結として、私は妻と息子両方を同時期に失い、孤独な生活を強いられることになったわけです。もちろん時間のあるときは、できるだけ息子に会いに行くようにしていたのですが、次第に足が遠のいていきました。私の顔を見ても父親だということすらわからず、笑顔のひとつも見せてくれないのですから。

 離れてみて、私ははっきりと悟ったのです。息子は物を食べて、その消化物を排泄するだけの自動機械に過ぎないのだということを。そんな機械のために、愛する妻は命を絶ったのです。

 私は酒に溺れ、薬に溺れ、女に溺れ、男に溺れました。

 でも、私の空虚な心は何をやっても満たされることはありませんでした。

 世界には私よりもっと不幸な人はたくさんいるだろう、でも私が感じている苦しみは、その人たちの誰よりも大きいと、そう確信していました。

 そんな有様ですから、もちろん仕事など手につくはずもなく、医療ミスで何人もの患者を死なせてしまいました。地元の有力者で、警察にも顔が利く病院長が裏から手をまわしてくれなければ、私はとっくに業務上過失致死で逮捕されていたでしょう。

 病院長は私の苦しみを理解してくれていましたから、私を馘首にはしませんでした。

「好きなだけ死なせればいい。私が全部揉み消してやるから」

 そういって優しく肩を叩いてくれました。あんないい人は滅多にいません。

 そんな病院長の厚意に甘えきって、私は今年の春まで、ずるずると荒んだ生活を続けていました。


 そんなときでした。

 彼が息子の入っている施設を訪問しにくることを知ったのは。

 それまで私は彼のことを特に何とも思ってはいませんでした。ただ自分とは無縁の世界の存在と看做していただけです。ですが、施設にやってくることを知ってからは、自然と彼のことを報道するニュース番組を注意して見るようになりました。

 テレビの中でいつも上品に微笑んでいる彼を見て、私は最初の内、次のように思っていました。きっと彼は普通の人とは心の作りがまったく違っていて、何があっても常に穏やかな精神状態を保っていられるのだろう。声を上げて笑ったり、泣き喚いたり、怒鳴ったり決してしないのだろうと。

 でも、ある日気がついたのです。彼が私と同じように、人生に絶望し切っているのだということに。

 彼の目は訴えかけていました。

 誰か私を、この牢獄から救い出してくれ、と。

 そのことに気づいたのは、おそらく日本中で私一人だけだったでしょう。ということは、彼を救えるのも私一人だけだということです。

 そして彼を救うことで、私もまた救われるに違いない、そう確信したのです。

 その日から私の生活は一変しました。彼を解放するという目的が出来たことで、仕事にも身が入るようになり、充実した毎日を送れるようになりました。

 彼が施設を訪れるのは一ヵ月後。その日までに全ての準備を整えておく必要がありました。

 先ずはインターネットや図書館で情報の収集です。材料や製造方法を調べ、必要な器材をリストアップしました。なかには調達の難しいものもありましたが、大学の後輩に頼んで何とか手に入れることが出来ました。

 毎晩、仕事から帰ると自宅に閉じこもり、細心の注意を払って幾つかの試作品を作りました。そして休みの日に人里離れた山奥で試してみました。実験は概ね成功でした。しかし望んでいた性能には、まだまだ及びません。

 その次の週末には、近所で捕まえた野良猫を使って、より本番に近い状態で実験してみました。かなりいい感じでしたが、やはり猫では小さ過ぎるので、保健所に行って捨てられた大型犬を貰ってきました。もちろん利用目的は内緒です。

 三度目の週末、その犬を使っての実験は大成功でした。

 準備の第一段階は完了です。


 彼がやって来るまで後一週間というとき、私は施設に出かけ、息子の帰宅許可を取りました。

 久しぶりに見る息子は少し太っているようでした。

 私の顔を疑わしげな表情で上目遣いに睨み付ける息子を見て、私はあらためて悲しくなりました。でも息子に対して、かつて何度も抱いた怒りや憎しみを覚えることは、もうありませんでした。息子もまた、いいえ息子こそ一番大きな地獄を抱えているのだということに、そのときにはもう気づいていたからです。

 私の計画の目的は、施設を訪問しに来る彼を救い、そのことで私自身が救われることだと先ほど言いましたが、何よりも息子を救済することが最大の目的だったのです。

 私は息子を家に連れて帰り、一緒に食事をしました。その後行うことを考えれば、本当は物を食べさせないほうがよかったのですが、最後の機会だと思い、レストランから出前を注文して、少し豪華な夕食をとりました。もっとも何を食べるのも息子にとっては同じことですが。

 相変わらず息子は箸どころかスプーンさえ使わず、手づかみで食べていました。

 自殺した妻は生前、いつも息子の将来のことを心配していました。私たち夫婦が年老いて死を迎えたら、独りぼっちになったこの子は、いったいどうやって生きていけばいいのだろうと。

 私の計画がうまくいけば、その心配はもうなくなります。

 食事が済んで三十分ほど過ぎたころには、息子は安らかな寝息を立てていました。これからの作業がしやすいように、食べ物の中に睡眠薬を少量混ぜておいたのです。

 寝顔を見ると、ごく普通の健康そうな男の子です。目をさましたら私に向かって笑いかけてくれそうな気がします。でもそんなことは決して起こらないのです。

 私はソファーで眠る息子に麻酔薬を注射して抱きかかえ、真新しいシーツを敷いたテーブルの上に横たえました。


 全てが終わったときには夜が明けていました。

 私は息子を自分のベッドに寝かせ、麻酔が切れたとき暴れたりしないように、両手両足をロープでベッドの脚に縛り付けました。

 その後少しだけソファーで仮眠してから、通常通り病院に出勤しました。

 それからの数日間は、仕事を終えて帰宅するとすぐに、ベッドに縛りつけた息子のオムツを替えるのと、点滴を与えるのが私の日課となりました。そんな私を、息子は暴れもせず、ただ無表情にじっと見つめていました。もしかしたら息子はすべてを承知しているのではないか、ありえないことですが、時々そんなふうに感じました。

 彼が訪れる前日、私は息子を施設に送り届けました。それですべての準備は完了したことになります。後は翌日を待つだけです。

 その夜、私は興奮してなかなか寝付けませんでした。


 運命の日は快晴でした。

 私は施設へと車を走らせました。平日でしたが、私は病院長に事情を話して特別に休みを貰っていました。

 施設へと向かう途中、歩道のあちこちに警官の姿を見かけました。彼のために周辺区域を警戒しているのです。街路樹の植え込みをつついて不審物をさがしている警官もいました。今日が彼ら警官たちにとっては最悪の日になるのだと思い、私は申し訳ない気持ちになりましたが、もちろん計画をやめるわけにはいきません。

 施設に到着した私は駐車場に車を止め、玄関に向かいました。そこにもまた緊張した面持ちの警官たちが大勢いました。

 受付に行き、保護者として参観したいと告げると、警察の手荷物検査を受けなければならないが構わないかと言われ、私はうなずきました。待合室に通され、他の保護者たちが並んでいる列に加わりました。

 念入りに行われた手荷物検査を無事に通過し、私は集会場へと向かいました。携帯電話は預けさせられましたが、デジタルカメラの持込が許可されたのは私にとって幸いでした。

 集会場のステージには彼を歓迎する垂れ幕が下がり、四方の壁には色紙で作られたチェーンが飾り付けられていました。

 報道関係者らしき人たちの姿も、ちらほらと見受けられました。

 私たち保護者は、ステージと反対側の壁際に並べられた折りたたみ椅子に座らされました。

 数分後、入所している知的障害を持った子供たちが集会場に入ってきました。もちろん、その中には私の息子もいます。皆、職員の指示に従っておとなしく列を作り、板張りの床に腰を下ろしました。当然のことですが、暴れたり奇声を発したりするような子供は排除されているようです。

 ざわついていた集会場が不意に静まり返り、前の入り口から彼が入ってきたことに気づきました。会場中の視線が彼に注がれていました。彼が何者か理解できないはずの子供たちでさえ、彼の発する見えない力に引き寄せられるかのように、うっとりと見とれていました。もちろん私も例外ではありません。

 私服の警官、いえ、おそらくは専属のボディガードでしょう。屈強な男たちに周囲を守られながら、彼はいつもの、あの微笑を浮かべて優雅に歩いていました。でも、その洗練された立ち居振る舞いにもかかわらず、私には彼の心の絶叫が痛いほどの強さで迫ってくるのが、はっきりと感じられました。

 私は心の中で彼に呼び掛けました。もうすぐ、あなたを救って差し上げます。あと、ほんの少しの辛抱です、と。

 彼がステージ横の来賓席に座ると、所長がマイクを持って開会の挨拶を行い、入所者たちによる歌と踊りの発表会が始まりました。

 知的障害を持つ子供たちの歌と踊りです。聞くに堪えず、見るに堪えないものばかりであることは、ご想像のとおりです。でも彼は絶えず穏やかな笑みを浮かべて、子供たちの無様なパフォーマンスに視線を注いでいました。

 一通りプログラムが消化された後、彼がステージに上がり、スピーチを行いました。柔らかな声音で、子供たちの歌や踊りを大変素晴らしかったと褒め称え、それから福祉医療の充実の重要性について語りました。

 スピーチが終わると舞台袖から私の息子が花束を抱えて現れ、付き添いの女性職員に軽く背を押されながら、おぼつかない足取りでステージ中央の彼に近づいていきました。

 いよいよです。私はデジタルカメラを構え、そのときを待ちました。

 息子にこの大役を与えるために、私は施設の所長に大金を支払ったのです。シャッターチャンスを逃すわけにはいきません。

 女性職員が、相変わらず無表情でされるがままの息子を彼の前で立ち止まらせ、後ろから手を添えて花束を差し出させました。

 彼が身をかがめて息子から花束を受け取ろうとしたとき、私はデジタルカメラのシャッターを押しました。

 息子が爆発しました。

 一瞬、ステージ上に真っ赤な花が咲いたようでした。あるいは真っ赤な花火と言ったほうが近いかもしれません。爆発音は瞬間的で、その後しばらく耳鳴りのような異音が集会場を満たしていました。

 彼は身をかがめた姿勢のまま、全身に息子の血と肉片を浴びて佇立していました。ちょっと信じられないことですが、あれだけの至近距離にもかかわらず、彼に大きな外傷はないようでした。その一方で、息子の真後ろにいた女性職員は奇妙な姿勢でその場にくず折れていました。

 彼は後ずさりしようとして血溜まりに足を滑らせ、尻餅をつきました。

 そして不意に笑い出しました。

 甲高い、まるで悲鳴のような、怪鳥のような笑い声でした。

 私は成功したのです。息子を無意味な生から解放して、意味のある死を与えると同時に、彼に張り付いていた微笑の仮面を剥ぎ取って、外に出ようともがき苦しんでいた真の自己を表に引きずり出してあげることができたのです。

 救済計画は完了しました。

 数秒後、ダムが決壊したかのように集会場に悲鳴が溢れました。慌てふためいて外に逃げ出そうとする人々をぼんやりと眺めながら、私はかつて一度も感じたことのない至福に浸っていました。


「その後私は警察による厳しい取調べを受け、精神鑑定を受けさせられて、ここに来ることになったわけです」阿形は言った。

 私はしばらく言葉を発することが出来なかったが、沈黙の恐ろしさに耐え切れず、搾り出すようにして次のように言った。

「ここでは私は新聞を読むことを許されているが、そんな記事は読んだ覚えがないな」

「やはり信じてもらえないのですね。でも、これは本当にあったことなんです。世間の人が誰もこのことを知らないのは、権力によって事件が揉み消されてしまったからなのです」

 阿形の声には怒りが滲んでいた。

「しかし集会場には多くの目撃者がいたんだろう。もともと世間と接触を持たない施設の子供たちは勘定に入れないとしてもだ。いくら報道を規制したところで、人の口に戸は立てられないというじゃないか」

「まさにそれが問題なのです。あそこにいた多くの人たち、職員や保護者たち、そして取材に来ていた報道関係者たちがあの後どうなったのか、私はそれを考えると恐ろしくてなりません」

「私は、君のやったことのほうが恐ろしいと思うがね」

「なぜですか。私は息子と彼を救済したのですよ」

「やはり君は……」私は言葉を飲み込んだ。

 いつの間にか辺りは薄暗くなっていて、中庭にいるのは私たち二人だけになっていた。

「おや、そろそろ夕食の時間のようだ。食堂に行かなきゃな」

 私はそう言って、そそくさと立ち上がった。


 その後しばらくして阿形は病院からいなくなった。

 何か事情があって他の病院に移ったのだろう。案外完治して退院したのかもしれない。

 さて、これで私の話は終わりだ。紙数も尽きたようなので、美人看護婦との密やかなあれやこれやについては、また後日。

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御前花火 ミラ @miraxxsf

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