第四十話 スケッチは遠くへ

 スケッチをある程度のところで切り上げ、エアーズロック付近にあるホテルへと僕は戻った。せっかくだから、一日くらいはホテルの一人部屋で過ごしてみたかったのだ。

 いや……それだけじゃない。ここなら、ゆっくりと、あのコと話せるからだ。


 吸い終わったタバコを灰皿に押しつけると、受話器を握った。少しだけ、手が汗ばんでいる。


 ベルが鳴る。

 呼び出し音が、ゆっくりに感じた。


 彼女の顔が浮かんだ。

 微笑んでいた。

 そうか。僕も笑わなきゃ。


 思えば、彼女といる時間は何にも代えられないものだった……そう、この旅と同じように。

 ここで色々なものに感動してきたように、ただ自分の気持ちを表すだけじゃないか。


 その時間が、ついにやってきた。


「もしもし」


「おっす、護助だよ」


 今、日本には月が出ているだろうか。

 ここには……今日は出ていなかった。


「元気だったか?」


「うん。護助君は?」


「もちろん、元気さ」


「今、どこなの?」


「エアーズロックだ」


「うわあ、いいなあ! 私も行きたいよ」


「来なよ。お腹を空かして待ってるからさ」


 ミナの笑い声が伝わる。

 君のこの笑い方が、僕は好きだ。


 僕にとって、ミナはいつだって美しい存在だった。ドジで少し我が儘で、時々意地悪になってみせるところも、その全てが愛しかった。だからこそ、近づきたかった。それに気づいたからこそ、近づきたかった。

 でも、僕は臆病だった。今もそうなのだろう。


 あれから時が経ち、思う。

 それでも、背筋はまっすぐにしていたのだと。

 だから、僕はここにいるのだ。


 せめて、そこだけは誇ろう。


「なんか、護助君、遠くに行っちゃったんだね」


「えっ、まあオーストラリアだからなあ」


 くすくすと笑うミナの声が聞こえた。


「ほんと、神秘的なとこなんだろうねえ。護助君には、たまらないんだろうね。ねえ、最近絵は描いてるの?」


「ああ、一応な。ミナは……」なかなか次の言葉が出てこない。


「うん……うまくいってるわ」


 彼女は言葉というバトンを受け取ってくれた。

「最近は、生活と仕事のバランスがうまくとれてるの。楽しいわ」


 そうか――


「きっと、幸せなんだと思う」


 僕は、目を閉じた。


 彼女が選んだ道の途上に、彼女はいる。ミナも旅をしているのだ。なぜ、そんな簡単なことに気づかなかったのだろう。


「すごいよな」


「えっ」


「いや、こんな所で、こうしてまたミナと話せるなんてさ。俺は、人生ってのが本当に面白く思えてきたよ。ここで、色んな連中に会って、色んな景色を観て、最近さ、思うんだ」


 そう、本当にそう思う。


「大事なのは、近いとこや遠いとことか、お金をかけてどこに行ったかというよりも、そこで自分の心に、何を残せたかってことだと思うんだ」


 部屋の中なのに、風が頬を縫っていく気がした。


「うん。そうだね……そうだよね」


「ミナ。どうしても、伝えたいことがあるんだ」


「なに?」とは、彼女は言わなかった。僕は、窓の外を見る。


「ミナが好きだ。今でも大好きなんだ」


 どれだけの時が流れたのだろう。

 少し震えた声が、僕の耳に入ってきた。


「ありがとう、護助君」


 受話器の向こう……彼女の深呼吸する様子が伝わってきた。

 今、僕の心は、広い平野の真ん中に立っている。


「でも、私は君の気持ちを受け取れないよ……もう、大切な彼氏がいるから」


 ――そりゃそうだ。


 勝手でごめん。


「護助君はね、私にとって大事な人だったよ。ぶっきらぼうで、でもすごく優しくて。君といた時間は幸せだった。君は、私の心に荷物を置いていたわ。でも……もう、時間は流れちゃったから」


 視界が鈍くなっていく。


 だが、それと同時になぜだか僕は少しだけ笑っていた。いいにおいが頭の中で少しだけ広がっていた。


 それは、新しい季節を連想させる、甘くてさらっとした桜のにおいだった。


「ミナ、君がいたから、世界が広がった」


 そう、本当にそうだった。


「でも、そうだよな。もう、ミナは行かなきゃなんないんだよな」


「うん……」


 こうして、過去というものは積み上げられていくのだろう。


「じゃあ、元気でな……!」


 僕は、確かに笑っていた。


「ミナ、ありがとう」


 彼女の、息を深く吸う音が伝わってくる。

 その後には、彼女の、あの風鈴のような声が届いてきた。


「うん、護助君もね……ありがとう」


 受話器から離れていくこの手。

 ベッドの上が柔らかいことに気づく。


 この胸の中から、様々なボールが飛び出そうとしている。


 思えば、長い旅だった。そして、いい旅だった。


 本当に、ありがとう――

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