第三十五話 途上にある運命
カナナラの南にあるパヌルル国立公園には、西の秘境の象徴〈バングルバングル〉がある。
アーガイル湖を後にし、僕は、そのバングルバングルの地を歩いていた。
ここは、幾層にも重なった砂の岩山群が東西南北に向かって並び立ち、それらの丸みを帯びた峰が空に向かって突き出している変な土地だ。上空からこの地を見ると、隆越したコブが大地にところ狭しと張り巡らせられているのが確認できる。
自然が永い年月をかけて作った足場は当然、人間用にできているわけがなく、僕は同じツアー客とともにひぃひぃ言いながら難所を越えていた。
砂でできた峡谷を縫うように歩いていくと、白人の女の子が岩肌に手をついて立ち止まっているのが見えた。どうやら、疲れているらしい。僕と並んで歩いていたオランダ人の男が心配そうに彼女に声をかけ、その手をとってあげた。
さすが、ファーストレディの本場で鍛えられているな、と思っていると……なんと。
バシ! と、彼の手ははたかれてしまった。
「いいのよ、かまわないで! 疲れてなんかいないのよ。これは、私にとって試練なのよ」
「試練?」
彼は手をおさえながら、いかにもいぶかしげに、このハードな女をにらんだ。当然だ。
「そうよ。私には自分で決めた神様がいるの。他の世界中の神なんてメじゃないわ。その神様は朝になると、私にキスをしてくれるの。とっても、素敵なキスよ。私はね、この試練を越えて、神様にあれを渡すの。何だか分かる?」
その男も僕もポカンと口を開けたまま、お互いを見やった。それから、男は言った。
「いいや、分かりたくも知りたくもないね。それにしても、試練ってなあ、辛そうだな。おまえさんの神様はきっと、とんだS野郎だぜ」
女は右手をその男の顔に向かって、水平にふったが、すでに男は三歩後ろにパッと飛び退いていた。彼につづいて、僕も逃げるようにその場に背を向ける。
少しふり返ると、女はブロンドの髪を振り乱しながら、両肘を垂直に張り、膝をカクカクさせながら踊っていた。
(きっと、呪いの踊りなんだろうな)
夜になってから、そう思った。
だけれど、そんなものの効き目がありっこないことを僕は知っている。どこを旅していてもそうなのだが、やはりこの土地の夜空も素晴らしく、夜の闇に融け込んでうっすらと見える丸い峰の上に、幾千の星空が姿を現していた。
ここは、バカらしい恨みが通じる場所ではないのだ。
キャンプ客同士で夜の宴をしている時、例の女は三十メートルくらい先で、なにやらウロウロして、天に手をかざしながら何かぶつぶつ言っていた。おそらく、〈おやすみ〉のおまじないなのだろう。
(やれやれ、最近は、よく変なのに会うなあ)
疲れた体をひきずったまま、西最後の地に足跡を残し、ようやく、オーストラリアの最北部〈ダーウィン〉へと向かった。これで、バスを使って旅をするのは最後になる。
旅をしているといつも感じることだが、人の気配など及びもしない平原が、窓の外に途方もなく広がっているのを目の当たりにすると、自分があてどなく、どこかの地をさまよっている気がしてしまう。
しかし、ぼんやりとした視界の中に、たしかに行き先はあるのだ。
ダーウィンに着くと、まずは、レストランでワニの肉を食してみることにした。
ダーウィンはワニの生息地として有名で、当然、そんな珍味も売りにしている。そのイメージどおり、ワニの肉はスジが張っていて固く、呑み込みにくかった。味は鳥肉に似ている。それを噛みくだしながら、(まあ、記念だから)と割り切って、ビールを飲み干してから、宿へ向かった。
宿は、共同部屋がメインの安宿なのだが、中庭にプールがあり、その周りにはビーチチェアが置いてあった。僕はそのうちの一つに寝ころがって本を読むことにした。
「護助ちゃん!」
突然、自分の名を呼ぶ声がした。まさか、と思いふり返ると、なんと、そこにはますます日焼けした次郎が立っていた。
次郎も仕事を終え、ダーウィンに来ていたのだ。
「まさか、こんなとこで会うなんて!」
「オーストラリアも意外と狭いねえ。まあ、みんな行く所は似たり寄ったりだからね」
僕らはさっそく、盃を重ね、夜が更けるまで語り合った。次の日からはもちろん、二人で行動を共にして歩きまわった。
この街は東南アジアに面しているだけあって湿気が高く、蒸し暑い。建物はいかにもトロピカルなものが多く、藁葺きが敷かれた屋根の下にショップが建ち並び、道路と並行して、ヤシの木などの熱帯植物がボンボンと天に向かって伸びていた。
次郎と一緒にこの街を歩いていると、やっぱり、同じ景色を分かち合えるのもいいもんだな、と思う。特に、こうして偶然に仲間と会い、新鮮な時間を共有できるとなおさら、旅は道連れっていう気分を満喫できるものだ。
僕たちは、近くの〈ミンディルビーチ〉で、片足泳法を編み出すだめに胃にずいぶんと海水を貯めてしまったし、その浜辺の近くで催される夕方のマーケットでは、剣を喉奥に呑み込む大道芸人の臨時アシスタントに選ばれたり、ボタニックガーデンでは、男だけのバーベキューを決行して、たった二本の牛肉にまちがえて砂糖をかけてしまい、天に向かってあらん限りの罵倒をぶちまけたりした。そして、雄大な景観地を持つ〈リッチフィールド国立公園〉に行って、滝壺でスノーケリングしたり、イグアナを追いかけたり、崖の上から臨む太古の原生密林を眺め、子供のようにはしゃいだ。
ただ、この街で一度だけ僕らが胸くそ悪くなる出来事があった。
夜のダーウィンを歩いていると、ホテルの二階から水風船が飛んできて、目の前で弾けて水が飛び散り、足にかかったのだ。驚いて上を見上げると、白人の女三人と男がバルコニーから僕たちを見下ろしていた。ニヤニヤしているのもいたし、顔を赤くしている奴もいる。
「Fuckin` yellow monkey!」
そう言って、そいつらは口を揃えて笑っていた。
一体、何がおかしいのか。
僕はすぐにカッとなり、「くそったれのケツ野郎ども!」と叫んで(カッとしていたので日本語だった)、ホテルのロビーまで走ったが、フロントの男に通してもらえなかった。
しかたなく宿に戻ると、はらわたを煮えたぎらせながらビールを飲んだ。
「ああいう奴もいるんだよ。いい奴ばっかじゃないさ」
「わかってるけどさ……あのしょんべんたれどもめ」
「護助ちゃん、奴らの顔、覚えてる?」
「ん……いや、暗かったしね。そういや、覚えてねえや」
次郎は笑った。
「まあ、今夜は飲もう」
ダーウィン滞在の最終日、僕と次郎はダーウィンの観光地として有名なワニ園に足を運んだ。
ここには大小さまざまなワニがいて、手で持てるようなのもいるし、体長七メートルにも及ぶとんでもない奴までいる。ただ、共通しているのは、どいつも肉が大好きそうなツラ構えをしているということだ。瞳は三日月のようにシャープで、牙は何でも噛み砕きそうなほど鋭く発達しており、ウロコは銃弾さえ弾いてしまいそうなほど、分厚い。
飼育員が露台から肉つきの糸を垂らすと、一匹のワニが水面から勢いよく飛び、大きな口でそれをキャッチした。一メートル以上は飛んだろう。
「すげえな。オーストラリアの川で泳ぐのが怖くなったよ」と、僕は目を丸くする。
目の前の肉を喰らい、生き延びるために自分の持つ力を最大限にふるっていく獣。純粋で選択肢の少ないその生き方は、美しくも思える。
いっぱしに物思いに耽っていると、ガコッ! と突然、僕の足元で何かを噛む音が響いた。ハッとなった。見ると、金網に食いつくような格好をしている一匹のワニがいた。いかにもふてぶてしい。僕の足を食おうとしたのだろう。
「うひゃ、金網があってよかったな」
次郎はワニに向かって舌を出している。
「全然、気配を感じなかった」
「金網がなかったら、もうサッカーができなくなるとこだったな」
僕らはベンチに腰かけ、昼食をとりながらサッカーの話をした。
「護助ちゃんにとって、サッカーって何だったんだ?」
「そうだなあ」空を見上げた。
「時間だったよ。俺の人生の時間だった。俺の時間にはいつもサッカーがあったんだ」
そう言いながら、(ああ、そうだったのか)と、自分が納得した気がした。それは、実に新鮮でいて、懐かしくもある感覚だった。
「帰ったらさ、バッジョの絵を描いてみなよ」
「ああ、そりゃ、いいね! 帰ってからの楽しみが一つできたよ。……ああ、あとな」
目の前では、ワニが池の中や畔でうろちょろしているのに、僕の目にはその光景の色彩が水色で統一されているように見えていた。
「やっぱり、サッカーやっててよかったよ」
翌日、二人の日本人は駅にいた。次郎は翌日には東へ、僕はこれから南へと下ってゆく。
「じゃあな。また会おう」
出発の合図がホームに響き渡る。
南へ――
旅が、また一つ過去を増やしていく。
加速がついた列車の窓から、次郎の後ろ姿が見えた。彼はしっかりとした足どりで歩き、列車の方をふりかえりはしなかった。
久しぶりの列車移動だ。バスと比べると揺れが少なく、しかも隣の席が空いていたので、のんびりとできた。オーストラリアの真ん中にある〈アリススプリング〉へ向かっているだけあって、外の光景には砂漠の一帯が広がっていた。落日の陽が、愁えの光を砂地に映しだしている。それは、旅の終わりをほのめかす、静けさと荒々しさが沸々と同居した色だった。
アリススプリングでの滞在後は、南へ下り、アデレードからパースに戻るだけとなる。
(あと少しか……あっという間だったな)
窓の縁に片肘をつき、飽きることなく外の景色を眺めつづけていた。
「ちょっと、となりに座ってもいいですか?」
ぼやっとしたまま、僕はその声の方に身体を向けた。
その途端、顎が外れそうになった。
「オイラ達、運命なのかもな」
そう言ったジェイソンが、似合わない微笑みを浮かべて立っていた。
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