第三十四話 道はあったのか
ブルームの町から西にあるケーブルビーチで絵を描いていると、ふと月の階段の光景が脳裡をよぎり、筆を止めた。
画材をバッグにしまい、チャイナタウンをなんとなくブラブラしだす。
ふと、長いこと親に連絡していないのに気づく。
携帯に手を伸ばした。
「もしもし、俺」
「あっ護助、元気なの?」
久しぶりに聞く母親の声だった。旅行はどう? いいコ見つけた? 御飯はきちんと食べてるの? といった、母子のありきたりなやりとりが交換された後、ブルームの話になった。
「いやあ、月の階段ってのが、すごくてさ」
舌が滑らかになってる。
「最近、筆をとるのが億劫になっちまってね。芸術ってなんだろうって思うんだ。自然は人間の及ばないスケールで、そりゃあすごい景色を創ったり演出したりしちまう」
「そりゃそうよ」
母は、ご近所との世間話の時のように笑う。
「でも、人間だって自然の一部でしょ? 護助が素直に感動できるのって、当たり前ですごいことなのよ。だから、人間も精一杯に美しいものを生みだせるんじゃない。このままいけば、除々に分かっていくわよ」
いつになく、僕たちは長いこと話していた。
ようやく電話を切った後、頭には、母親との会話が反芻されていた。
後日、シティビーチで寝転んでいると、月の階段をなんとか描こうという気持ちになっていた。構図が浮かばないままだったけど、ええいと、作業に取りかかる。
思うような色がだせず、苦虫を噛みつぶしながら描いている感覚だったが、筆を動かしつづけた。
時折、なぜこんな所で絵を描いているのか、この旅が終わったら日本で就職活動なんだな、と思うと、言い知れぬ不安が僕の胸をえぐっていった。
日本人墓地――。
戦争や、その他もろもろの理由で、ブルームで命を落とした日本人が眠る場所だ。
ひっそりと佇んでいるこの場所で、僕はなんとなく、顔も知らぬ人のお墓の前で手を合わせていた。
「日本人かい?」
いつの間にいたのか、地元の住人らしい、老いた男が話しかけてきた。
「はい」と答えると、名も知らぬ老人はゆっくりとした動作で、語ってきた。
「大したもんさ。そりゃあ、大したもんだったよ。黒潮を越えて、この地に来た日本人がここでみんなのために仕事して、死んでいっちまったのさ。何で死んじまったか? 色々さ。潜水病なんざ、陸で生きるはずの人間が罹るはずのもんじゃないのに、多くの日本人が真珠採りのために、そいつに罹っちまった。うん、弾丸や爆弾を喰らって死んじまったのもいる。そう、だから、ここに墓があるのさ」
「こんな遠くまで来て、彼らは何を思ったんでしょうね」
「いい奴も悪い奴もいたよ。一日一日、そりゃあ、色んなことを思ったろうさ。何せ、彼らの祖国から遠いんだから。おまえさんは何を思っとる?」
「明日は、どこへ行こうかなって」
老人は、少しうつむき、言葉を接いだ。
「ここの連中も、そうさ。きっと、明日はって、いつも考えておった。この連中が夢見てた頃はね、雨よりも、爆弾の方が降ってきたのさ。まったく、ろくでもないよ。色んな国がケンカしあってた頃さ。今の平和は、いくつかの狂気が残した残像みたいなものさね。未だに君達を憎む人もいるんだよ。……でもな、結局は、時が過ぎちまったのさ。立場が違ったために、彼らはここで眠っとる。お墓はそうさね、時の痛みを抑える、フタみたいなもんさ」
「安らかに眠ってくれると、いいですね」
僕がそう言うと、老人は少しだけ笑った。
辺りを見渡した。お墓の群れは何十年前の土や埃を付けたまま、じっとしている。僕は、再び目の前のお墓に手を合わせ、「じゃあ、そろそろ行きます」と老人に声をかけようと立ち上がった。
が、老人はそこにいなかった。見失うはずはなかった。
なのに、足跡らしいものも見当たらない。
不思議と、ゾッとした気持ちは生じなかった。
(明日、か……ケーブルビーチまで歩いてみるか。そして、夕方にはまた月の階段を描こう)
陽はもう、落ちていた。
ようやく、自分なりの下手くそな月の階段を描き終わった頃、真面目な学生の期末試験前のノートのように、スケッチブックには空白のページ数が少なくなっていた。もちろん、字ではなく、全て絵で満たされているのだが。
その絵を一枚一枚、確認しながら、バスの中での時間をつぶしていく。
これから、また北へと向かっていくのだ。森林を越えて。平原を越えて。
もう、狭くるしいバスの中で眠ることに慣れてきてはいたけれど、ふいに、ドン! という音と共に、大きなバスが揺れた時には、さすがに目を覚ました。
「くそ! でかいのをやっちまった!」
見ると、運転手が忌々しそうにそう叫び、バスを停めて外に出ていった。道路の真ん中では、大きなカンガルーが倒れていた。カンガルーは夜行性で、車のライトをめがけて突っ込んでくることが度々あるという。
その後始末を終えると、運転手は無言のまま車内に戻り、すぐに車を走らせた。職業上、何度か経験しているはずのことだが、当然慣れるはずもなく、彼も嫌な気分なのだ。
すまない――窓の外に見えるカンガルーの死体に、そっと手を合わせた。
ブルームの日本人墓地とあのおじいさんが、頭の片隅に浮かんでいた。
冒険の匂いがぷんぷんする地を歩いてみたくて、西オーストラリア最後の秘境〈キンバリー〉の玄関口である〈カナナラの町〉に、僕は降りた。
町はオード川とカナナラ湖、いくつかのクレーターに囲まれ、陸の孤島といった雰囲気を醸し出している。
地平線の端に大きな山が見える道路を歩いてみた。車の通りもめったにないので、その見通しの良さにどこまでも行きたくなってしまう。
多くの峡谷が眠るこの土地でのウォーキングはなかなかハードだが、その分、断崖の上から見た絶壁は美しく、特に、幾層ものさまざまな物質で積み重なっている自然の壁が、夕暮れ時のオレンジ色の陽を受けて偉大に映える様は、まさに荘厳だった。
ピンクダイアモンドが採れることで有名な〈アーガイル湖〉は、町から七十キロほどの場所にあり、広大な銀色の湖を取り囲む峡谷はいかにも〈秘境〉らしい。
〈インディ・ジョーンズ〉のテーマ曲を口ずさんでいると、同じクルーズ船に乗っている男の子が、「それ知ってるよ! お兄ちゃん、ぼうけんかなの? じゃあ、あれを退治してみてよ」と声をかけてきた。
見ると、湿原地帯でイリエワニがのそのそと這っているではないか。もちろん、即座に首をふった。
「今日は船酔いがひどいから、また今度な」
小僧よ、これが大人の断り方だぞ。
と、少年はしかたなさそうに笑い、レモンコークを少し飲ませてくれた。
うむ、大人への道は遠い。
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