第三十三話 月の階段

 ジェイソンのせいで部屋の窓を常に開けっぱなしにしてなきゃならないのはともかく、シャークベイの海は本当に素晴らしいものだった。


 朝から夕までの陽の光を、その時間帯によって海面に順応させていく、とても素直な海だ。おまけに、野生のイルカや、世界でも稀少なジュゴンがいる。


 大型ヨットでクルージングツアーをした際に、僕はジュゴンを見た。ジュゴンの体はレバ肉のような湾曲型で金色に輝いており、彼らはのんびりと海面に漂っていた。顔はずいぶんとへんてこで、とても人魚のモデルになった動物とは思えない。けれど、愛嬌溢れる容姿は、たちまち乗客のアイドルになっていた。


 ツアーから戻った後、僕からその話を聞いたセンシがひがんでいだ。


「ジュゴンに会えて、おまけに野生のイルカに餌付けしたなんて、おまえ、運いいよ」


 モンキーマイアでの最終日前日、僕とセンシは無謀にも、ロード用でない普通の自転車で〈シェルビーチ〉へと向かっていった。


 町からシェルビーチまでは軽く四十キロ以上はあり、しかも坂の上がり下りが激しく、おまけに異常にハエが多くて、少しでも止まると何十匹と体にまとわりついてくる。


 何とかシェルビーチに着いた頃には、二人の腿はパンパンに張ってしまっていた。ようやく着いたはずの貝殻だらけの浜の上で、しばらく倒れ込んでしまうほどにだ。


 シェルビーチは、何千年もの時を重ねてビーチにびっしりと白い貝殻をなし、その深さはなんと十メートルにも及ぶという。


 ようやく立ち上がった僕たちが、その浜辺を歩くたびに、キュッキュッと小音が鳴った。白い結晶を視界の下に、その上に紺碧の海が見える風景は、自然の不思議さと美しさが同居していた。


「ゴスケ、何かいい動物いそうか?」


「俺は神か?」


「いや、ゴスケはドッグフードさ」


「もう在庫切れだよ。まあ、海もきれいだし、いいじゃんか。おっ! あれなんか、センシの一番好きな生きものじゃないか?」


 潮風に吹かれながら浜辺を歩いている女性三人組が見えた。


「すまん、俺は間違ってたよ。ゴスケはグッチだったんだな」


 そう言い残すと、センシは一人で果敢に突進していった。


 やれやれだ。僕は、貝をひとつかみしてジャリジャリと音を鳴らし、ぼんやりと海を眺めた。


 案の定、帰りも地獄だった。センシはナンパ(失敗した)で余計な体力を使ったことを嘆いていた。道中、暑さと疲労と先が見えないストレスで、意識が遠のくこともあったが、二人ともなんとか町に到着し、無事自転車を店に返すことができた。


「この自転車でシェルビーチだって? あんたらみたいなクレイジーは初めてだ」


店員は呆れてこう言う。「宿まで車で送ってやろう」




 そろそろ、この町を出ようかと思っていた時、いつもにやけているセンシがなにやらシリアスな顔をして、僕のところにやってきた。


「センシ、真面目な顔してどうしたんだよ?」


「ゴスケ、おまえ、そろそろこの町を出るんだろ?」


「ああ」


「じゃあ、ジェイソンの野郎に見つかんないように出ていった方がいいぜ」


 僕は眉を上げた。ついに、センシもジェイソンの変人ぶりに気づいたのか。


「あいつ、おまえがいない時、おまえのカバンをごそごそやってたぞ。何か探してるみたいだった。俺が声をかけなきゃ、そのままカバンごとひったくりそうな勢いだったよ」


 胸に緊張が走る。

 奴なら、やりそうなことだ。


「そういや、カバンの中身が荒れてた気がする」


「ゴスケ、ぼーっとしすぎだよ。ちょっとは用心しなきゃ。そんなんじゃ、夜のローマは歩けないよ」


 なんで、僕なんかのバッグをあさったのか。僕が値打ちのあるものを持っていると思っていたとしたら、ジェイソンは相当な馬鹿だ。いや、それだけに、たちが悪いのかもしれない。


 次の日、ジェイソンが珍しくビーチに出ている間に、僕は出発してしまうことにした。それにしても、ジェイソンなんかのせいで、自分の行動が決められたことは、気分のいいもんじゃない。


 センシがバス停まで一緒に来てくれた。あの毛むくじゃらの男はともかく、ここでの思い出はセンシなしじゃあり得なかった。


「じゃあなセンシ。元気でいろよ」


「俺は南に、おまえは北か……それでも、いつか会えるよな?」


「うん。いつか、会おう!」


 バスは静けさの宿る町をテールライトで照らしながら、北へ走っていった。


(ダイエットコークか……俺は、ペプシの方が好きだな)


 手に持っているコーラを見ながら、そんなことを思った。




〈ブルーム〉――。


 この町は、昔から真珠養殖の地として栄え、日本人ダイバーが真珠採取に貢献したり、第二次世界大戦時の日本人墓地があったりと、日本人との関わりが深い。


 僕はこの町で降りた。

 本当は途中にあるエクスマスの海を見たかったのだが、予算にそこまでの余裕はなく、名物の世界最大魚ジンベエザメのいる時期でもなかったので、あきらめることにしたのだ。


 ブルームはひっそりとしている町で、わずかにチャイナタウンに人通りがあるくらいだった。しかし、このひっそりとした町は絵を描くことに集中するには最適な環境に思えた。


 画材を整えていると、ユースホステルの同部屋の女性が僕に(オーストラリアには男女同部屋の安宿が多い)、「ねえ、〈月の階段〉って知ってる?」と聞いてきた。

 僕は首を横にふった。


「夜になるとね、もうすごいのよ」


「すごい?」何だか、どきっとしてしまう。この想像力を、もっと絵に活かしたいものだ。


「それが出る時期は限られてるのよ。だから、明日の夜にでも、シティビーチに行ってみなさい。月が階段をつくるのよ。そりゃあ、神秘的なんだから」


 僕はあえてそれ以上聞かず、「そりゃあ、うっかりしてたな。行ってみるよ」と、新しい楽しみを持ち越せる嬉しさを抱えて、その夜は眠った。




 翌日。


 夕方にシティビーチに着き、〈月の階段〉の出現を待った。時間が経つにつれ、辺りには人が増えはじめていた。


(けっこう、有名なんだな。どうりで、宿にも人が多いわけだ)


 沖へと向いている突堤のテトラポッドに腰かけ、じっくりとその時を待つ。

 そして、


 きた――


 銀色として認知しているはずの月が、荒々しく怪しげな赤の光をまといながら、水平線から姿を現したのだ。

 それは、威厳と優美を湛え、ゆっくりゆっくりと、中天へ向かって昇ってゆく。


 その不思議な光は、干潮の遠浅の上で反映され、まるで月へと続く道か階段のように見えた。


 月への階段――僕は、その神秘的な光景にうちのめされていた。


 月は昇り往くごとに光を伸ばし、浜に向かってその光の階段を増やしてゆく。

 そして、除々にその階段を切りはなしてゆくと、元の銀月となって、再び夜空へと君臨していった。


 自然と宇宙が創り出す芸術。


 ――結局、人間はそれには適わない。それなのに、なんで人は、自分の芸術を創っていくんだろう。


 そう思うと、何だか虚しくなってしまう。

 勝ち負けなんかじゃないことは分かっている。

 ただ、人間の限界について、がらにもなく考えてしまうのだ。


 それから毎晩、月の階段を眺めたが、そのたびに、未知なる力への羨望と畏れが僕の心に浸透していくようだった。

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