第三十二話 転がる再会
カルバリーという自然の芸術区で、充分に足裏をくたくたにさせた後、僕は再び北へと上っていった。
バスの中では、隣の人とカードゲームをして過ごしていた。
「まったく、広いねえ。少しは日本に土地を分けてほしいよ」
もう長いことバスに揺られているというのに、窓の外ではデジャヴのように同じ景色が続いていた。果てしなく広がる大地に、名もなき雑草やグラスツリー、バオバブの木がその姿を見せつづけている。
風景に潮風が交じりはじめた頃、バスは〈モンキーマイア〉へと到着した。
モンキーマイアにある〈シャークベイ〉は世界遺産に登録されている海で、町は一日五十時間あるかのごとく、のんびりとしているらしい。
僕はここで降り、ユースホステルに泊まることにした。
ホステルの中は意外なほど空いていて、僕は四人部屋を一人で使える贅沢を味わうことができた。
シュノーケリングセットを持って、急ぎ足でビーチに行くと、そこには透明の海が広がっていた。幸い天気も良く、目一杯、太陽の光を浴びることができた。
クルーズ用の船着き場の近くでは、大勢の人が集まっている。
そこではなんと、野生のイルカへの餌付けが行なわれていた!
ガイドがバケツいっぱいに魚を入れ、指名した人に餌付けしてもらうというもので、ほとんどは子供が選ばれているようだ。
イルカは透明の海を気持ちよさそうに泳ぎ、潮でキラキラと光る体をくるくると器用に回転させ、キョロキョロとした愛嬌あるお目々でエサをおねだりしていた。じつに可愛らしい。
「おーい、そこの人、やってみないかい?」
若いガイドが僕に声をかけてきた。最初は気づかなかったが、ようやく自分を指していることに気づくと、ふがふがと鼻息をたて、早足でそこへ駆けていった。
この若いガイドは、一座の中で唯一のアジア人が目をキラキラさせているのに気づいたのだろう。なかなか、いい奴だ。
「ほら、口元に手を近づけるだけだよ」
魚を渡してもらうと、イルカちゃんは僕の足元で、しきりにおねだりしてくる。魚のヌメっとした感覚にとまどい、この子には必要以上のおあずけを強いてしまった。
「お兄さん、テクニシャンだね」
若いガイドはそう言って、観客の笑いを誘う。
「そう言われるのが、夢だったんだ」
笑いに包まれた空間の中、ようやくこのイルカちゃんを満足させることができた。
餌付けが終わり、海岸沿いを歩いていると、男が話しかけてきた。
「君はさっき、餌付けしてた人だろ。運いいね!」
見るからにラテン系の男で、肌は小麦色に焼けており、中肉中背、彫りの深い顔立ちで睫毛の下には鳶色の瞳が輝いている。
「俺はセンシ。イタリアから来たんだ」
「ああ、俺はゴスケといいます。よろしく」
「日本から来たんだろ?」
「うん」
「俺、日本に興味があるんだ。向こうではニンジャが歩いてるのか? みんな、芸者が妻なのか?」
「……ドラマや映画の中じゃね。イタリアでは全員、芸術家なの?」
「サッカー選手もいるよ。あと、女性専用の紳士がね」
どうやら、典型的なイタリア野郎のようだ。「そうだったね」と僕はあいづちをうつ。
「スノーケリングやるんだろ? あっちにいい場所あるんだ。行こうぜ」
僕らは、お互いの国についてのジョークをとばしあいながら、一緒に歩いた。
「ほら、ここだよ」
そこの海質は実際に素晴らしく、絵に描いたようなコバルトブルーが広がっていて、魚も大きなものから、小さい奴まで色々なのが泳いでいた。
二人で日没近くまで海中の世界を楽しみ、ユースホステルに帰る頃には、体にすっかり潮のにおいが染みついていた。
ほかほかの玉子焼きを腹に入れ、ほんのりとした満腹感をひきずったままハンモックに揺られる。最高の朝だ。
はたして、日本に帰った後、僕は社会に溶け込めるのだろうか。
陽がいよいよ高くなると、僕は目を開け、少しボーっとしながら部屋に戻った。
部屋には、もじゃもじゃ頭の毛深い男が、後ろ向きで立っていた。新しく来た人だろう。
さっそく、あいさつをした。
男はのそっと動き、ふり向いた。
その途端、僕の心拍数は動きを止めた。
「ジェイソンです。どうも」
「ああ、よろしく……って、なんで、ここに!」
混乱。まさに、そういう状態である。
「オイラも旅をしててよ。おまえを遠くから見かけて、この部屋にしたんだ。なんせ、オイラたちゃ、あのクソッタレ農場のクソッタレな仲間だかんよ」
おいおい――
彼はだるま髭を以前よりも濃くし、目つきは相変わらず悪い。
とにかく、ジェイソンがいる。信じられないことだけど、これは現実なのだ。なんて、クソッタレな現実だろう。
「おいおい、なんかしゃべれよ。久しぶりの再会に感動してるのか? ジャップは、愛想笑いをするもんだろ?」
相変わらず気に障る野郎だ。それが、余計にこの現実を痛感させた。
「なんでここに? 今は、ピッキングの時期なんじゃないのか?」
ジェイソンが黄色い歯を見せた。
「オイラは優秀だから、有給休暇をくれたんだよ」
「嘘つけ、クビになったんだろ」
「おまえ、相変わらず生意気なジャップだな。礼節ってやつはどこにいったんだ?」
「今は閉まってあるんだよ。器用だろ」
ちっ、と舌打ちすると、ジェイソンはベッドに腰かけた。どすん、と音が響く。
「あの農場はクソだ。辞めてやったよ。トムの野郎は、経営ってやつが分かってねえ。あのアホについてくくらいなら、カシモドのノートルダム野郎についてった方がましだよ」
こいつ、例えが下手だな、と思った。相変わらず、インテリぶりやがる。アホのくせに。
「トムさんはいい人だよ。俺に良くしてくれたし」
「ふん、そうかもな。おまえみたいなロクデナシと仲良くできるんだから」
皮肉も陳腐なものだ。
「おっと、気分を悪くしねえでくれよ。なあ、仲良くしようぜ。旅は道連れって言うじゃねえか。なあ、おまえは確かにいい奴だよ。機転も利くし、本当は認めてるんだぜ」
(ジャップって言った奴が、何言いやがる)
僕は、わざとこれみよがしに肩をすくめ、部屋の外に出ていった。
夜になり、センシと一緒に食事くぉしていると、ジェイソンもいつの間にかキッチンにいて、隅っこで麺らしきものを貪っていた。
「あれか? おまえの元同僚は」
センシの問いに、僕はうなずいた。すると、センシは奥歯にパスタがはさまった口で、ジェイソンに声をかけた。
「おーい! こっち来いよ! 一緒に食おうぜ!」
おいおいやめてくれよ、と思いながら、僕はジェイソンをちらっと見た。案の定、奴は嬉しそうにこっちに近づいてきてしまった。
「いよっほう、イタリア人は親切だな。一人で心細かったんだよ」
「俺はセンシ、よろしくな!」
それから、三人で酒を飲んだ。まさか、ジェイソンと一緒に酒を飲む日が来るとは。旅っていうのは、いつも計画通りにはいかないものだ。
ジェイソンが馬鹿笑いしている中、何とか話を合わせる作業は苦痛そのものだった。
ようやく食事が終わり、シャワーをすませてさあ寝るぞ、と部屋に入ると、何ともいえない臭いが鼻についた。ん? と思い、二間はなれたベッドに目をやった。酔い潰れたのか、ジェイソンがぐっすり眠っている。
なんと、彼は今日初めて見かけた格好のまま、しかも靴をはいたまま寝ているのだ!
こんな男を起こすのも、何か怖い気がしたので、しかたなく窓を全開にして換気をよくした。吹いてくる風にぶるぶる震えながら、僕はなんとか、この日の眠りについた。
――ジェイソンはやっぱり、完全な変人だった。
ビーチに行くでもなく、彼はいつもダイエットコークを持って辺りをウロウロしており、食事はきまって三食とも缶に入ったレトルトパスタで、スプーンで口にかきこむように食べる。そして、いつも黒いロングシャツに黒いジーンズ、オレンジ色のバスケシューズ(脱ぐと、ひどい臭いを放つ)を身につけており、ポッケに手をつっこんだまま前につんのめるように歩いていた。
僕はそんなジェイソンの臭いにたまらず、ついに、「寝るときは靴を外に出してくれ。あと、風呂にちゃんと入った方がいい。お互いのためだ」と言ったが、靴の履きっぱなしはすっかり彼の習慣となっているらしく、三回注意しても、一回脱ぐといったしまつだった。シャワーは五日に一回は浴びているらしいが、体を洗っているのかは不明だ。
そんなジェイソンが、黒ずんだ鼻をひくひくさせながら言った。
「旅ってのはな、身軽が基本なんだよ。オイラは極力、荷物を少なくしてるから、服の替えが全然ねえんだ。なあ兄弟、旅ってのはな、そんなもんなんだよ。きれいなことばっか求めてちゃ、肝心なものが見えちゃこねえぜ」
一理あるが、本当にめちゃくちゃな男だ。この性格と年齢じゃ、ハックルベリーというわけにもいかないだろうに。それに、僕はこいつの兄弟じゃない。
「洗濯できる男って、女にモテるぜ」センシはジェイソンにそう言ってくれたが、はたして、彼がその忠告をどう受け止めたのかは分からない。
それにしても、ジェイソンは一体、どういうつもりで、僕に近づいてきたのだろう。以前の経緯を考えると、無視してしまってもいいものなんだが。
旅が、彼を人恋しくさせているんだろうか。
少なくとも、仕事で会わなかっただけマシか、と思うようにした。
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