第三十一話 そこに行っちまおう
擦り傷が目立つ膝だよな
でもね 少し飛んでみるんだ
おおげさなもんじゃないよ
目の前の風景を感じるだけ
そこから青空は広がってくから
そんでもって 今日のごはんが
おいしく感じるかも
もう 行っていいだろ
なんだかドキドキするんだ
そう 行ってくるよ
これから西海岸沿いにオーストラリアを半周するため、まずはパースから北に約六百キロ離れた〈カルバリー国立公園〉へと向かう。
僕を乗せたバスは、パース市街の目抜き通りをぬけて、海岸沿いの道をひたすら走っていた。
オアシスの〈Live forever〉を聞きながら、銀色の陽光が煌めく青い海を見つめる。イルカは顔を出してくれるだろうか。
中継地点のジェラルトンで、バスは休憩のために停留した。
バスを降り、メモ帳を開きながら、重たい足取りで受話器へと体を運んだ。
どうしても、今、電話しておきたい相手がいるのだ。
トルルルルルル、トルルルルルル……
呼び出し音を聞きながら、
出ないでくれ……いや、それは困る――
と、矛盾した感情に翻弄される。
ガチャッ。つながった――。
「もしもし?」
「んがっ、ミナか? 俺だ、護助だ」
久しぶりに聞く彼女の声は以前よりも大人びていた。
「あ、護助君! 元気なの? 久しぶりね!」
「うん。今、ジェラルトンってとこにいるんだ。旅、出てる。仕事終わったんだ」
「そうなんだ、おつかれさん! すごいな、一人で旅してるんでしょ? ……ねえ、何か息が荒いよ?」
「あっ、ああ、こっちは暑いし、今走ってきたとこだし、別に、変な電話かけてるわけじゃねえんだよ? あっ、走ってはねえや」
ミナは大笑いする。「相変わらずだね」
おかげで、いくらか気が楽になった。
「なあミナ。こっちに来るんだろ? エアーズロックだっけ?」
「あっ……実はね、そのことでそろそろ電話しようと思ってたんだ」
何か、嫌な予感がした。
「休みがとれなくて、あたし、行けなくなっちゃった……ごめん。自分から言いだしといて勝手だよね」
そう、嫌な予感ってやつは、なぜだか昔から結構当たるのだ。
「そうか。残念だけど、しかたないよ。仕事だもん」
人間とは不思議なものだ。その時ショックなことがあっても、意外と普通に対応できたりする。そして、後になって心が痛んでくるのだ。
何にしろ、今の僕には、空元気を示すほかに選択肢はなかった。
「本当に、ごめん」
「謝るこたあ、ねえだろ」
受話器の向こうで、ひとつ、彼女は息を吸った。
「護助君、旅は楽しんでる? 仕事はどうだった? いい出会いはあった?」
「ああ。旅はまだまだこれからだけどね。仕事は本当に、やって良かった。いい連中とよくバカやったよ。ミナは? その、色々うまくいってんのか?」
「そうだね。以前の生活が戻りそうな感じ、かな」
彼女は続けた。「あたしね、きっと、それで幸せなんだなって思ったの。何が大切なのか、少しずつ分かってきてる気がしてて……」
「そうか、そうなんだ」
それ以上、彼女の言葉を聞くのは怖かった。
でも、受話器を切りたくはなかった。もう少し、声を聞いていたかった。
「大切なものは、大切にしないとだよな」
「なにそれ」と言って、彼女は笑う。
「あたしね……あたし、前に言ってた彼氏とやり直すことになったの。もう一度、頑張ってみようかなって」
――ああ、またこんな展開か。
目の前は、何も見えちゃいなかった。きっと、何かしらの景色はあるんだろう。でも、僕の頭は、心は、何も捉えてはくれなかった。ただ、こんな言葉だけがかろうじて口から飛び出ていた。
「よかったじゃん、頑張れよ」
「うん、ありがとう……」
そこからの会話は覚えていない。
受話器を置いた後も、しばらく、僕はそこに立っていた。
お互いの方向を、確認してしまった気がしていた。
駄目だなあ、俺――
右肩から吊り下げられたバッグには、スケッチブックと鉛筆とアパレル画材がしまってある。そのバッグをぎゅっと上げて持ち直すと、町の食堂へ歩いていった。
*
ミナは、すでに置いた受話器をまだ握っていた。
二ヶ月ほど前、彼女は、やり直すことになったその恋人と偶然、日本橋で再会した。それからは、申し合わせたようにちょくちょく会うようになっていた。そして、その彼と一緒にいると、安心できる自分がいることに、改めて気づいたのだった。
その一方で、全く扱い方の分からない意味不明の感情が、未だに自分の心を曇らせてもいた。
オーストラリアに行こうとしたのは、いくつかの偶然が手伝ったことも大きい。だけれど、それだけじゃないことも分かっていた。
旅に出てしまったあの人は、いつも自分の心のどこかに存在していた。その人は、昔、自分のことを好きと言ってくれた。嬉しかった。本当に――
でも、素直にはなれなかった。あの時の自分は影を引きずりすぎてしまっていた。彼のことをもっと知りたかった気持ちもあったのに。そして、そのまま時は経ち、自分と彼はもう、それぞれの道を歩いていた。
自分は汚い人間なのだろう。彼が一途に自分のことを想ってくれていて、その自分も彼を特別だと思っていたのに、ずいぶんと傷つけてきたのだ。
それでも、やっぱり真実は伝えなきゃならなかった。自分が知っている彼のままなら、そうしなきゃいけない気がした。
ふと、夜空を見上げた。月が出ている。三日月だった。
*
月を見ている。日本と一時間しか時差のない土地の月を。
満月だった。
夜が明け、何人かの旅人とともに、僕はバスから外へと足を踏み入れた。切り立った岩肌の隙間を縫うように進んでゆく風が、旅人の肌に心地よく吹きかかってくる。
〈カルバリー国立公園〉――。
旅の初めとしては、ずいぶんと体力を消費する場所だった。岩の上を歩くので足場が悪く、平地と比べると、相当体力を使う。しかし、目に映る迫力ある岩肌や異質な空間が眼下に広がっているのを確認するたびに、旅人は足をとめて写真を撮ったり、感嘆の音を上げたりしていた。
マーチソン渓谷のトレッキングに苦労しながらも、自分が求めていた空間にやっと身を置けていることに、僕はなんとも言えない喜びを噛みしめていた。
夜になると、銀色の月がラメをまき散らしているかのように、大小さまざまな星が夜空にびっしりと散らばっていた。
「ゴスケ、何やってるんだい?」
キャンプ場で、ガイドが興味深そうに、僕に近づいてきた。
「絵を描いてるんですよ。ずいぶんと、いい景色がたくさんあるからね」
携帯用のライトに照らされているこの作品だけぽつん、と明かりが灯っていた。
「そいつは趣味かい?」
「んー、まあそんなようなもんかなあ」
この絵を照らすわずかな光は、孤独を照らす闇のようだった。僕はばたんとスケッチを閉じ、ガイドと一緒に夜食をつまみにいった。
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