第三十話 未来への影
魁が抜けてから、僕と次郎は二人で仕事をすることになった。
今までと変わりなく、いや、むしろ今まで以上にはりきってリンゴを採っていった。彼の抜けた寂しさを振り払う気持ちがそうさせていたのだろう。
青空と、それを映す畑の中の澄んだ池。ほとりでは虫が鳴き、堤の上の畦道じゃ、僕たちを乗せたトラクターが、それはのんびりと走ってゆく。作業地に出向いた後は、梯子と背伸びを駆使しつつ、自然との共同作業を繰り返してゆく――
この貴重な日々は、未来へと伸びる僕の影に、どんな色を与えるのだろう。
よく晴れた日、池の縁に腰かけ、農場の景色を写しとっていた。我ながら、この絵には小鳥のさえずりや木々のざわめきが聞こえてきそうな健康さを伝えるものがあると思う。というか、そう思いたい。
次郎が僕を見つけると、その絵をのぞきこんできた。
「おお、うまく描けてるね!」
「そう、かな?」
「なんだろ、よく見て描けているっていうか、すごくこの農場を捉えていると思う」
「まじ?」鼻の穴を膨らます僕。
「あっ、ところでな、次郎ちゃん」
そういえば、あることを思いだした。
「明日は、決行するんだろ?」
次郎は一瞬、目を上空に上げると、イタズラ小僧のように笑った。
「よし、やるか! 魁がいた時は大雨でできなかったからな。明日は晴れそうだし」
その明日――僕はいつもより大きな伸びをした。
僕の最後の仕事日だ。
いつも通り、自分たちの作業場に出ると僕たちはてきぱきと働き、昼食をかじり、歌ったり叫んだりしながら作業に取り組んでいく。
そして、ついに終わりの時がやってきた。
「おつかれえ!」
ピッキング用の布製カゴをトラクターの上に置くと、僕らはがっちりと握手した。
「んじゃあ、天気もいいし始めるか!」
次郎が梯子の上にデジタルカメラを置き、撮影位置を定めた。
ある日、魁が「一回さ、俺が最後の日にみんなで素っ裸になって写真撮ってみようぜ! こんな自然の中じゃ、気持ちよかろ!」と素っ頓狂なことを言いだしたのがこの企画のきっかけだった。もっとも、肝心の言いだしっぺは、大雨のためにそのくだらない願いを叶えられなかったが。
けど、僕らは魁なしでも決行する気である。
二人とも農場のど真ん中で生まれたての姿になって、ピッキング用のカゴで大事な所だけをふさぐと、満面の笑みでカメラに収まった。
「うーん、何とも言えない開放感があるねえ。新しい趣味になったらどうしよ」
「俺ら、変態かもね。まあ、魁もだけど」
やっと服を着はじめた頃、ティナがトラクターをとりにやってきた。
「ゴスケは今日が最後でしょ? よく、頑張ってくれたわ」
いつもはクールなティナだけれど、この日は出会い頭から笑顔だった。
「いやあ、お世話になりました」
「ところで、なんでズボンのベルトを締めてないの? あなたって、どこかぬけてるわね」
「いや、あの」僕は苦笑して、次郎の方を見た。彼も小学生のような顔をして笑っている。
「実はね、最後にこんなもんを撮ってたんだよね」
僕たちはティナに駆け寄ると、デジタルカメラのディスプレイに写った自分たちのわんぱく姿を、彼女に見せびらかした。
「Oh……my god!」
ティナは顔を赤くして、大笑いした。
「あんた達って、今までの日本人と違ってクレイジーね。こんな人達もいたのね……。勉強になるわ。だって、今まではみんな、大人しかいなかったのよ」
僕たちも、大笑いしていた。
「でも楽しかったわ。日本人の紳士的なイメージを壊してくれてありがとう」
「どういたしまして」
「ゴスケ。今までありがとうね。今みたいに、少し困ったところもあるけど、よくやってくれたわ。今のピッキングっていう時期はね、一年を通して一番賑やかで、私たちにとっても楽しい時期なの。色々な連中が来るからね。ねえ、時々でもここのこと、思い出してね」
「うん、ティナさんもありがとう! お元気で」
僕たちは抱き合い、そして、笑顔のまま一つの写真に収まった。きっと、セピア色で焼き上がるのだろう。
最後の夜は、いつも通りにみんなと飲んだ。特別な何かを求めるわけでもなく、かといってそれが起こったわけでもなく、気がつけばあっという間に夜は更けていった。
朝――。
寒気が漂うこの陸の孤島の暁に、ゆっくりまぶたを開けると、僕はタバコに火を点けた。吐く息は白く、寒さからくるものと、タバコの煙とで入り交じっていた。
しばらく、外の切り株の上にボーっと座っていた。ますます寒くなるとキッチンに入り、熱いトースターとコーヒーで腹ごしらえと一緒に暖をとった。一石二鳥っていうのは、こういうことを言うのかもしれない。
もう、帰り支度は済んでいた。
次第に次郎をはじめ、農場のみんながガヤガヤと集まりはじめた。みんなでおしゃべりをしていると、ビリーがやってきて、僕に声をかけてきた。
「よし、そろそろ行くぞ」
ビリーの鼻からは、何本もそそうがでている。そこだけは、来た時と一緒の光景だ。
一度部屋に戻り、荷物を取りにいってから、車に乗りこんだ。次郎、マクドにケリーらも一緒だ。
車窓から過ぎてゆく昨日までの日常は、思ったよりも早く遠ざかっていった。
しゃりっと、音をたててリンゴを噛んでみた。いつも通りの味だ。
停留所に着くと、みんな、魁との別れの時のように、僕を抱きしめてくれた。
「本当にありがとう。日本でも会おうね。その時は、あんたよりもいい男紹介してね」
ケリーは、最後まで優しかった。
「あんま、旅先で脱ぐなよ」
マクドは笑っている。
「じゃあ、またな。旅を楽しんでくれ!」
次郎はハキハキとそう言った。僕がいなくなって、誰よりも淋しい人を選ぶとしたら、それは彼だろう。けれど、彼は力を込めて僕の肩を叩いてくれた。
僕は次郎の肩に手をまわした。
やがてバスがやってきた。飛び乗り、みんなに手をふった。
「みんな、ありがとう」
やがて、最後の停留所さえ、僕の視界から遠ざかっていってしまった。
終わってみると気づく時の流れの早さに、少し疲れを感じていた。だから、目を閉じて眠りについてしまうことにした。
これから、絵を描くのが好きになった自分の最後の旅が待っている。しかし、今は何も考えず、追憶の波に揺られていたかった。
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