第二十九話 美しき世界

 マンジュマップの夜は美しい。


 天気の良い日には天の川が夜空を横断し、プラネタリウムのように、ぴかぴかの星達が夜空に貼りついている。


 それにしても、いつの間にか、オーストラリアに来た時と同じような考え方をしていたなんて、僕はなんてまぬけなんだろう。


 満天の星空の下で焚き火を囲みながら、みんなでビールを飲む――


 今しかできないであろうこの瞬間を、ここのみんなはしっかりと楽しんでいた。


 この夜、僕はおもいきって自分から魁に話しかけてみた。


「なあ……ここの連中って、いい奴が多いな」


「おお、楽しいやろ。護助が働いとった以前の農場はひどかったんやって?」


「ああ。まあ、もういい思い出だけどね」


 酔っているのも手伝って、最近の仕事についての悩みを魁に打ち明けてみた。


「最近、俺の相棒があんま働かないんだよ。ちょっと雨が降るとすぐに部屋に戻っちまうし、俺が一箱満杯にする頃には、あいつ、その三分の一くらいしかやってないんだ」


「ピッキングはペア制やからね。二人で力を合わさんと稼ぎにならんもんね。パートナー、変えてもらえば? 実際、次郎なんか、一回変えてもらったかんね」


「うーん、そうだなあ。次の旅が、このままじゃ厳しくなっちまうもんなあ」


 ふうっと息をもらすと、目の前のかがり火に目をおとした。


「俺さ、間違ってたよ……はじめは、みんなとあんまり仲良くするつもりはなかったんだ。もう、充分だってね。でも、それは間違ってたんだ」


 魁は、最近明るくなった僕の原因が、彼によるところが大きいことには気づいていないだろう。魁の天衣無縫で明けっぴろげな性格は、いつの間にか周囲を元気にさせる力があった。


「そうやな、護助のいう通りや。ここの連中は本当、いい奴らやけんね。結局、どこも一緒なんやろな。色んな奴がおるけん。国境なんて、実は大した意味はないんやろ。みんな、人間やけん」


「そうだな」


 胸が熱くなっていた。


「おっほほおい!」巨体を揺らしながら、マクドがビール片手に僕らの間に飛び込んできた。


「またまた、酔ってんねえ。おまえ、踊って、そんで吐いちまえよ」


 魁は楽しそうに笑っている。マクドは言われるまでもない、といった様子で丸太のような腰をくねらせて焚き火の周りを踊りはじめた。まるで、ディズニー映画かなんかから飛び出してきた不格好な大木みたいだ。周囲の連中もそれにつられ、手拍子をとって、一緒に踊りはじめる。


「俺らも、腰ふるかあ!」


 そう言って、次郎も立ち上がった。曲はビートルズの〈Hard days night〉。僕の手元にはビールが三缶。まだまだ夜は長そうだった。




 よく晴れた日曜日が明け、新しい週になると、僕の相棒であるはずのベユンが消えていた。


「知らなかったのか? あいつなら昨日、帰ってったよ」


 ビリーが何事もなかったかのように告げてきた。


「まじかよ。一言も聞いてねえっつうの」


「日本人が嫌いなんじゃないか?」


 ビリーはつまらないジョークを言う。


「俺は途中で投げ出す奴が嫌いだ。かまわねえよ」


 魁と次郎のコンビに、そのことについての相談をもちかけた。彼らは現場スタッフのティナにそのことを告げにいくと、彼女はいい答えを出してくれた。


「ゴスケ、カイとジロウの組に入れてもらいなさい」


 この朗報には心底喜んだ。二人はしっかりと働くし、叫んだり、歌ったりしながらリンゴを採れるからだ。

 実際に、彼らと一緒に仕事をするようになってからは、どんどん仕事が楽しくなっていった。三人とも日本人らしくやるべきことはしっかりとやって稼げるだけの働きをしたし、休憩時には腐ったリンゴを投げ合ったり、突然叫びだしたり、歌い出したりしてはみんなで笑いあっていた。




 雨が降ると、農場の朝はしのつくほど寒くなる。寒さに震えながら労働者はいつもの集合場所であるキッチンの前に集まっていた(もっとも、何人かは前日の酒の影響と寒さで部屋から出てこなかったが)。


ティナが朝礼をはじめた。彼女は丸くて赤い顔で、タバコをくわえながらクールに話す。


「今日はみんなに見せたいものがあるの。全員、トラクターに乗ってちょうだい」


 彼女の指示通り、いい大人達がそろってトラクターの箱に収まると、倉庫へと連れて行かれた。そこは採取されたリンゴを集荷する倉庫だった。小学校の体育館ほどの大きさで、リンゴを入れたコンテナが積み重ねられており、フォークリフトが三台置いてある。


 そこで一同を降ろすと、ティナは倉庫の真ん中に置いてある三つのピッキング用の箱を、ビシッと指さした。


「みんな、この三つの箱の中をご覧なさい。これは傷だらけのリンゴをピッキングした悪い例よ」


(そういうことか)みんな、一斉にそう思っただろう。


「まあ、俺らじゃなかろ」


 魁は他の連中と同じく、妙な自信があるらしい。各々その箱を見ながら、


「うーん、たしかにひどいかもな」、「ちょっと多いね」と口にしている。


 箱に貼ってある、担当者名の書いてあるラベルを見ると、僕たち三人組は一気に驚愕した。


『K、G、J』


 それは、カイ(K)、ゴスケ(G)、ジロー(J)を指す記号だった。しかも、しまつの悪いことに三箱ともだ!


 はじめは目を疑ったが、明らかに犯人が自分たちであることを知ると、「ごめんなさい!」と口々に謝りの言葉を唱えて、みんなからの許しを求めた。


「No worry(心配すんなよ)」


 と、みんなは笑い飛ばしてくれる。けれどこんなことで、みんなの朝の貴重な稼ぎ時を奪ってしまったことに対して、僕らはきめ悪く感じていた。


「とにかく、今後はこういうことのないように、みんな丁寧にやってちょうだい」


 ティナは相変わらずのクールな表情で、その場をしめた。彼女はいつも仕事に厳しく、手っ取り早く作業の効率化を狙う働き方にはいつも口を出してくる。りんごの傷が多くなるからだ。それは農場側からすれば、まったくもって当然のことなのだが、重労働をしながらもお金を稼ぎたい連中にすれば、やっかいな注意だった。


 みんな、旅のためになるべく多くの資金が必要なのだ。


 次郎がこぼした。「ったく、あんな人前で見せしめにすることなんてないのに」


 さすがの魁もまいっていた。「タチわるかよ。みんな、やってることじゃけんね。なんで、俺たちが選ばれたんやろ。きっと、たまたま運が悪かったんやね」


「まあ、とにかく楽しくやるか……」と僕は言った。




 日本人三人は、気をとりなおして、再び作業に取り組み始めた。


 ティナが、新しい箱を接続した入れ替え用のトラクターを僕らの元に運んできた。僕たちの変わらない陽気な姿を見ると、ティナはニコッと、おかしそうに笑った。


「頑張ってるわね」


「ティナも、一緒に歌うかい?」


 脚立の上から、僕は言った。


「残念だけど、日本語が分からないの」


「俺は英語が分からないよ。お互い、問題ないじゃん」


 ティナはくすくす笑い、「いいジョークね」と言った。

 



 ケリーはウェールズ出身の二十四歳のゲイだ。一見やせているようにみえるが、服の下にはぎっしりと筋肉がつまっていて、腕相撲ではマクドに次いで強かった。頬がこけたように窪んでいて、目がギョロっとしているので、どことなくイカつい。しかし、性格は穏やかで誰にでも紳士的だった。もっとも、イングランドのサッカーチーム〈マンチェスターユナイテッド〉を応援する時だけは人が変わったように興奮しだすが。


 ケリーは、農場でリンゴとたわむれている時以外は、常にしなを作る動きをして、尻をふって歩いている。僕たち日本人トリオは彼とも仲が良く、よく冗談を言い合っていた。そのケリーが言った。


「あたしね、日本語を勉強したいんだ」


「なんで?」


「だって、日本っておしゃれでしょ? コム・デ・ギャルソンとかケンゾーとか、独特でいて、どこか品があるのが好き。いつか日本に行って、ファッションを勉強してみたいわ。ゲイシャにも憧れてるし」


「おお、じゃあ来いよ! 俺ら金はねえから、ゲイシャには会わせられんけど、いい所はいっぱい知ってんよ」


「うん、魁の言うとおりだな。日本だったら、ぼったくられることもあんまないと思うし」と、僕はあいづちをうつ。


 はは、と笑うと、ケリーは少し寂しそうな顔をした。


「でもさ、あたしみたいのを受け入れてくれるかな? 日本は閉鎖的なイメージがあるし……オーストラリアは同じようなのが結構いるから、その点はいいんだけど」


「大丈夫だよ、きっと。新宿二丁目ってとこもあるし」


 楽天的な次郎はそう言って笑った。


「あたしさ、ときどき生きるのがしんどくなるんだ。人は、どうしても見かけが大事だから。なのに、なんで、あたしはこういう心でいるんだろうって」


 みんな、少し黙ってしまった。確かに、僕たちが理解できることじゃない。けれど、魁はいつもの大きな声で言った。彼は何に対しても熱く答えてくれる男だった。


「自分の心って、ままならねえもんよね……だからさ、ケリーほど自分の心をまっすぐに捉えられるのって、すごいと思うよ。うらやましかね。きっと、色んなものが見えるんだろうな」


 僕は、黙ったまま魁を見ていた。

 まさか、誰よりも正直に生きているように見える魁がそんなことを言うなんて。


 ケリーは涙ぐんでいた。決して可愛くはないが。


「あんた達、いい連中だね。なんだか、ここに来て本当によかったよ。前よりも、空が青くなった気がする。いい男もいっぱいいるし」


 ミルキーロードが夜空に架かる満天の星達の下――


 たくさんの笑い声が、世界のほんの一点の場所で確かに響いていた。

 



 今、僕はここに来た時と同じバスの停留所に立っていた。


 隣では、魁がバックパックを背負っている。彼は、今日で出ていくのだ。これから南へ向かうらしい。日本人はもちろん、ケリーやマクドも見送りに来ていた。


「みんな、ありがとな。また会えるといいな」


 その鋭い目つきとは裏腹の人なつこさを持つ、底抜けに明るいこの若者は、あっさりと、実に清々しく別れを告げた。


『頑張れよー!』


 魁の乗るバスが見えなくなるまで、みんなで手を振っていた。魁も懸命に応えている。


「俺、おまえの絵、好きだよ。なんつうか、喜びが出てる感じがすんね。そのうちさ、きれいな農場を描いてみてよ」


 去り際にそう言葉をかけてきてくれた魁に、僕は感謝の気持ちで一杯だった。


(あいつがいなきゃ、ここでの生活ももっと違ったものになっただろうなあ。いや、ここでの生活だけじゃないな、きっと……)


 そう思うと、無性に何か描きたくなっていた。横では、ケリーが涙を流していた。

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