第二十八話 陸の孤島で

 コンコンコンコン。


(ん?)


 コンコンコンコンコンコン。


 頭をボーッとさせたまま、苛立った気分をのせたまま薄いドアを開けた。目覚まし野郎の正体は魁だった。


「おおい! あっちで今、日本人同士で話してるんよ。一緒に語ろうぜ!」


「えっ? 眠いんだけど」


「せっかく初日なんやけん。もったいなか。早う!」


 しかたがない……。

 重い頭をふりつつ、焚き火場へ向かった。いくらか不快になりながらも、近くにあった岩に腰かける。

 焚き火を囲んで、魁と次郎が座っていた。夕暮れ時の寒ずんだ空気に、暖かい煙が高くまでくゆっている。

 次郎はこまめに薪をくべながら、僕に質問をしてきた。「護助君は今まで、どんなことしてたの?」などと、しばらくの間は、こうしたあたりさわりのない会話が続いていたが、どうにも僕の気分はのらない。


「そろそろメシにすっか」


「おう、腹減ったな。メシ作っか!」


 次郎の提案に魁も快くうなずき、さっと腰を上げて準備にとりかかりにいった。

 思ったよりもキッチンは広く、ガスコンロが三台あり、十人がけのテーブルの横のスペースにはL字型にソファが設置されていて、みんなで食事をしながらテレビを観られるようになっていた。


 この時間になると、色々な国の旅の労働者もキッチンに出てきて支度をしはじめた。やはりヨーロッパ系が主で、アジア系は日本人三人に韓国人が二人しかいなかった。どの外国人も気が良さそうで、気さくに挨拶をしてきた。前の場所と違って、いい連中かもしれない。まあ、まだ分からないが。


 すっかり自分のレシピの定番となった野菜炒めをきれいに平らげると、僕は食器を洗ってからすぐに自分の部屋に戻っていった。とにかく疲れている。魁がみんなで集まろうと、また声をかけてきたが、今度はそれを振り切った。


 まったくもって、だるい。


(サン、元気かな)


 おぼろ月夜が窓の外でゆらめいている。ようやく、深い眠りへと落ちていった。




 朝が来た。今日から仕事だ。


 まだ、霧が辺りに立ち込めていて肌寒かったが、朝食を済ませると、昼用のトマトサンドウィッチを作って、外にある切り株に腰かけた。キッチンの前が集合場所らしい。


 南極海に近いこの地方には、氷の地から運ばれる風が上陸してくるので、とてもオーストラリアとは思えない寒さが漂っていた。


 やがて、他の労働者も集まりはじめ、トラクターに接続してあるリンゴ入れ用の大きな箱に三人から四人がけで乗りこみ、それぞれの作業場へ向かっていった。


 僕は今日が初仕事なので、現地で暮らしているベテランスタッフの二人と共に働いた。仕事は、ひたすらリンゴを採る作業だった。重さ二十キロまで収納できる前掛け式の布製のカゴにリンゴを入れていき、一杯になったらトラクターに接続してある大きな箱へ注ぎ込むように入れる。その箱が満杯になったらそれが給料に換算されるという歩合制の仕組みなので、おちおち休んでいるわけにもいかなかった。


 とにかくリンゴを採って採って採りまくる作業だ。

 何よりも体力がものをいうことは言うまでもない。


 始まってから三十分も経たないうちに、もう充分な汗を拭いていた。二人のベテランスタッフはさすがに仕事が早い。


「もっと、丁寧にやりなよ」


「大丈夫、すぐに慣れるよ。まだ若いんだし」


 彼らはお互いにおしゃべりしながら作業を続けている。


 楽しそうに仕事をしながら汗を流している彼らには青空がよく似合った。一枚の絵に描きとりたいな、と思うほどに。


「二人とも、楽しそうですね」


「えっ? いや、けっこうだるいんだけどね」男は笑った。


「そうなんですか?」


「帰ってからのビールが楽しみなだけだよ」


「何言ってんだよ。おまえ、仕事中もよく飲んでるじゃんか」


「ばか、新入りの前で変なこと言うなよ」


 なんとも、オージーらしい人達だ。


 晴天の午後が、リンゴの木の葉の色とその影をくっきりと映しだしていた。


 農場に広がる緑と青く映える大空の下、僕は汗を拭く。


 ふと遠くを眺めた。それは、遠い昔に日本で見たことのある景色と同じなような気がした。




 この農場で働きはじめて三日が経とうとした頃、ベテランの二人とは離され、同じワーキングホリデー労働者でベユンという名のベトナム人と組んで仕事をするようになった。ただ、サンとは違って、彼は最初から無愛想な男だった。まあ、そんなことはどうでもいいことだ。




 農場から町までは十五キロもあり、とても徒歩で買い物に行ける距離ではない。

 スタッフのビリーが、ボロボロの車に六人から七人くらいまでを積み込んで、定期的に町まで連れていってくれるのだ。ただし、ビリーはオーナーに言われてそうしているだけで、あからさまに面倒くさそうな顔をしていた。


 その日、僕は六人の農場仲間と一緒に、ビリーのオンボロ車に乗って町に買い出しに行った。その中には次郎がいた。今のところ、彼ともあまり話していない。その次郎が、スーパーのお菓子売り場で声をかけてきた。


「護助君、ティムタム好きなの?」


「あっ、うん」


「味もいいけど、このパッケージのデザインなんかもいいよね」


「うん、まあそうだね」


 そう言いながら、(そういや、ここんとこ絵を描けてないな)と僕は思っていた。


 ひととおりの食材とお菓子を買うと、一同はバーに行ってビールを一杯ひっかけることにした(――乗り気じゃなかったが、歩いて帰るわけにもいかない)。そのバーでは、酒樽が無造作にフロアに置かれていて、その酒樽がテーブル代わりになっていた。


「いい店だろ?」


 マクドが話しかけてきた。彼は二十歳になったばかりの南アフリカ出身の若者だ。百九十二センチも身長があり、しかもラグビーをやっていたので体は針金のようにがっしりとしている。性格は竹を割ったようにカラッとしていて、いつでも明るかった。


「ああ。田舎のバーって感じがして余計にいいね。遠くの土地でのビールのうまさを楽しめる感覚がいいな」


「うんうん、わかるよ」


 次郎もうなずいている。



「日本人ってビール好きなのか? 俺たちはほとんど毎日ビールだけどね」


「だろうね。ところでさ、この店なんていうの?」


「……なんだっけ。ちょい待ち」


 マクドも気になったのか、でかい体をゆすってバーテンダーに聞きにいった。しばらくすると、彼は大笑いしながら戻ってきた。


「ジロー、ゴスケ、聞いてくれよ。この店、名前ってもんがないらしい」


「えっ? なんで?」


「オーナーが夜逃げしちまったこの店を、あのバーテンダーの姉ちゃんが引き継いだんだって。んで、なんやかんやでドタバタしているうちに、地元の人から『あの店』、『名無しの店』とか呼ばれて、段々、客が自分の思いつきでこの店の名前を呼ぶのが定着しちまったんだって。だから、今じゃ色んな名前があるらしい。前オーナーの時の店名を使うのも縁起が悪いってんで、もう名無しの店で構わねえんだってさ」


「おいおい、いいかげんすぎるだろ。名無しを店の売りにしてるところなんて初めてだよ」


「何にしろ、繁盛してんだから、大したもんだよな」


 名無しの店のビールはよく冷えていて、飲むと喉が洗われるような喉ごしのよさがあった。


 少し顔に赤みがでてきた頃、僕たちは店を出て陸の孤島へと帰っていった。

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