第二十七話 慣れと疲労
いつも通りのパースでの日々も一旦終わり、ついに、いつも通りではない日々を送るための始まりの日がやってきた。
バックパックに荷物をぶち込み、ウールワースの買い物袋に食料を入れると、玄関のドアを開けた。
「じゃあ、行ってきます!」
ティミーさんは穏やかな笑みで応えると、両手を僕の方にかざし、人差し指の上に中指を重ねクロスさせ、「Keep cross finger(あなたに幸運を)」と、祈りの言葉を言ってくれた。それはちょっとした幸運の儀式だった。
「キープ・クロス・フィンガー」
僕もその儀式を返し、「See you again!」と言ってから、駅へと足のつま先を向けた。
パースから電車で南に下り、途中でバスに乗り換えると、辺りの民家の存在は微々たるものになってきて、平原や牧場が延々とつながっていた。そんな変化のない景色を眺めていると、一体オーストラリア大陸はどれほどの大きさなのだろう、と感じずにはいられない。
バスに揺られながら色々なことを考えていた僕は、昨夜の睡眠不足も手伝い、次第にうとうとしだしていた。
気がついた時には、よだれを手で拭き取りながらマンジュマップの停留所を見渡していた。バスケットコートが三面は入る駐車場が広がっているが、例え休日になったとしても、とても満車にはならないであろうほどに辺りに人気はなかった。
僕を含め、バスから降りた訪問客はベンチや路傍に腰を下ろし、それぞれの迎えを待っていた。多くの訪問客が車で迎えられていく中、僕を拾いに来るはずの車はなかなか現れなかった。
前回の農場〈カジャーナ〉で、待たされることには慣れてしまっていたので、やれやれとつぶやきながら、ボンヤリとする。
三十分ほど経つと、ぼろぼろのランドクルーザがすごい勢いで駐車場へとやってきた。僕はタバコを吸いながら、様子を伺う。
その車の中から、焦げ茶色のぼさぼさの長髪をふりしきりながら、あごから耳まで髭を生やしたやせ型の男が降りてきた。
(あいつかな。何か変な野郎だな、嫌だな)
本能的にそう思った。
男は僕に気づくと、近づいてきた。意外とでかい。
「日本人か?」
「ええ。護助です。中山護助」
「俺たちの農場〈ロットン・アップル〉で働く奴だよな?」
「そうっす」
「オーケー、車に乗ってくれ」
何となく不安になりつつも、その男について車に向かった。その車の中には六人ほどの男女が乗っていた。ロットン・アップル農場で働いている連中のようだ。
「やあゴスケ、Nice to meet you!」
車の中にいる連中は各々、声をかけてきてくれた。ありがたい。
おんぼろ車はひたすら、森の中を行く。
(結構、遠いんだな)
辺りにあるシダの大木群からカンガルーでも出てこないかと、窓の外に目をやる。
やがて、森の中の視界が急に広くなった。
百坪はありそうな土地に、長屋式の宿舎が建っている。車から人の姿は見えなかった。
車から降りると、どきどきする胸をおさえながら辺りを見まわした。前回の農場と同じく、宿舎は畑と森に囲まれていて、ひっそりと佇んでいる。ここの宿舎は、中庭を囲んで四方向に並び建ち、西側の建物の前には焚き火用の炉があって、人が十人は座れそうなテーブルが置いてあった。
なかなか良さそうな所だ。それにしても、農場っていうのはどこも陸の孤島のような場所にあるんだろうか。
「ねえ」
キョロキョロしている僕の後ろから、一緒に車に乗っていた、スイス人の女の子が声をかけてきた。「部屋、まだ案内してもらってないよね?」
僕は肩をすくめて笑った。
「ビリーに聞いてみるね」
そう言うと、彼女は僕を迎えに来たドライバーの男に話しかけにいった。
(あいつ、ビリーっていうのか。無愛想な野郎だな)
しかし、当のビリーは彼女と話している時は人が違ったように嬉しそうだ。
(嫌な野郎だな、おまけに鼻毛も出てやがる)
すぐに、彼女が戻ってきた。
「ゴスケ、これがカギよ。六号室だって。ねえ、荷物重くない? 平気?」
「大丈夫、ありがとう。自分で運べるよ。それに、ピッキング(果物採取)の練習になんだろ」
彼女は笑ってあいづちをうつと、どこかに行ってしまった。
僕はバックパックを背負い直し、六号室へと歩をすすめた。突然、「おおっす! 元気?」と、横から、張りのある日本語が飛び込んできた。
見ると、一人の男がこっちに手をふりながら木製のイスに腰かけていた。年は二十四、五といったところか。男は坊主頭で、眉を斜め上に剃り上げており、目がきりっとしていてたくましく、うすい口髭をたくわえていた。
どう見ても、このゆるやかな地に似つかわしくない男だ。
「ああ、俺は護助。よろしくお願いします」
「おお、新しい日本人やろ? 俺は魁。よろしくな! いくつよ?」
「二十五」
「おお、もうちょい若く見えるね! 俺は十九。若いやろ?」
「じゅ、十九? 本当?」
「うそや。二十四!」
「ああ、そう」自分につかずおとらず、下らない冗談を言う男のようだ。
「俺は九州出身やけん。いいとこやろ? もう一人、日本人がいるんや。ちょい、ついてきてくれん? 写真撮ってほしいんや」
いきなりなれなれしいこの男を少なからず不快に感じたが、とりあえず荷物を部屋に置き、しかたなくついていった。
そのもう一人の日本人は中庭にいた。その男はこっちに気づくと頭を下げてきた。
「ああ、初めまして。次郎です。よろしく」
「よろしくお願いします。護助です」
その男も坊主頭だったが、魁と異なり目が大きく、鼻が丸い。一方、肌が小麦色に焼けていて、口髭をたくわえている点は魁と同じだった。魁と次郎は二人とも、どことなく野武士のような野性味のある雰囲気を持っていた。
「二人とも、一緒にここに来たの?」
それには、次郎が答えた。「いやまあ、そうだけどね。こいつとはここまで来る時にたまたま一緒のバスだったんだよ」
そんなことはどうでもいいらしく、魁はカメラのノブをいじっていた。「ああ、そうそう、写真撮ってくれん? 次郎も今日坊主にしたばっかでさ。記念に撮っときたいんよ」
僕は魁に言われた通り、二人の撮影をしてあげた。
「俺は荷物の整理をしてくるよ。それじゃあ」
仕事が済むとすぐにカメラを返し、自分の部屋に急ぎ足で戻った。
部屋に戻ると、荷物を整理して、ベッドに寝袋を敷いた。シーツがあるとはいえ、オーストラリアのバックパッカーの多くは衛生状況が悪く、多くの旅人がベッドの上に寝袋を敷いて寝る。ここの部屋の広さは三畳半ほどで、机とロッカーが置いてあるのみで壁もずいぶんと薄かったが、僕には十分だった。
なぜだか、疲れていた。おまけに、暗いなっている。
なので、そのままベッドに横たわった。
(母さん、元気かな)
辺りは静寂で、まどろむのには良い環境だった。しかし、うとうととしながらも、疲弊まじりの億劫な気分はなかなか晴れずにいた。
ここまで、慣れない環境の中で大切な仲間に支えられつつ、自分なりに必死に日々を通ってきた。その中で自分が好きになりそうなことも見つけ、旅からパースに戻って過ごした期間は無理なく自分の歩調で生活できていた。
だけど、新しい環境に飛び込むことを繰り返すうちに、緊張と安楽との境界線があやふやになり、見えない疲労が重なって、いつの間にか、色々なことがしんどくなっていた。
(今回は必要最低限だけ、人と関わればいい。とくに、もう日本人はいいや。十分、同郷の友達もつくったし、日本に帰れば日本人だらけだしな)
と、こんなことまで考え始める。
寝ころびながら窓の外を見ると、ぬけるような青空が木々に光りと影を与えながら煌めいていた。
(なんで、こんなとこにいるんだっけ……本当、俺は今、日本から遠いとこまで来ちまってんだな)
眠い。とにかく、眠かった。
(何をいまさら……)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます