第二十六話 平らげられるもの

 サーフィンをして海塩がたっぷりついたままの体で、久しぶりにチャンと再会した。


「久しぶりねゴスケ。あなた、本当に黒くなったわ」


 友達のほとんどがパースを去ってしまった中、チャンはまだパースに残っていた。彼女はEUセンターから専門学校に移って、現在はデザインの勉強をしている。


 僕とチャンは、レストランやお土産屋が集まる西海岸の観光スポット〈ヒラリーハーバー〉へと足を運んだ。家族連れが多く、小さな子供達が銀色の海とたわむれ、めいっぱいの光を浴びていた。


「ゴスケは本当に海が好きね」


「まあな。チャンは?」


「うーん、まあまあかな」


「まあまあなの?」


 チャンはいたずらっぽく笑った。「ねえ、覚えてる? 私が、あなたと過ごした夜のこと」


「ん……うん」


 僕は喉をつまらせるようにうなずいた。


「あの時もこうして海を眺めていたわ。あなたは困ってた。今と同じね?」


 僕は首をかしげてみせた。


「わたしはあの後、海に行くのが辛くなったわ」


「そうだったのか」


「そうよ」


 それから少しの間をおいて、チャンは少しだけ微笑んだ。


「あたしね、前の彼氏とよりを戻すことにしたの」


 突然の告白だ。


 裏返りそうになる声が正常になるよう、喉に力を込めて僕は言う。


「そう、よかったじゃんか」


「……そうね、そう、ありがとう」


 同時に、前を見た。

 水平線が手に届きそうなほど近くに感じ、銀色に煌めく海面と岸に張り出している桟橋とが、風の流れと共に穏やかな音楽を奏でているようだった。


「ねえ、ゴスケ。前に言ってたあなたの好きなコとはどうなったの?」


(そうきたか)


 僕はぼんやりと空を眺めたまま、あの手紙のことを思い浮かべた。


「うん、もしかしたらまた会えるかもしれない。五月にオーストラリアに来るらしい」


 チャンは瞳を大きく開いた。


「そう、よかったね! ……じゃあ、会わなくちゃ。絶対に会うべきよ!」


「そうだな。俺、また働かなきゃだけど、やっぱり彼女に会いたいよ」


「そうね……大変なのは分かるけど、無理にでも会うべきよ」


 そう言うチャンの視線が海へと向かう。


「俺はさ、日本で培ってきた夢をなくしちまった。でもさ、ここに来て良かったよ。新しい夢が育ってきてる」


「そのスケッチブックね? ねえ、見せて」


 ひどくどぎまぎしたが、結局、チャンの強引さに負けてしまった。


 彼女はその絵を一枚一枚、ゆっくりと目に通してゆく。

 僕は緊張しながら、彼女の目の動向を探っている。無理もない。何せ、彼女はデザインを学んでいる人間なのだ。


 最後のページまで丹念に見ると、チャンは感心したように、僕を見てきた。


「ゴスケ、あなたすごいわ。初めてなんでしょ、絵を始めたのは?」


「教科書の落書きなら、よくやってたよ。鼻毛描くのが得意です」


「聞いてないわ……でも、一枚一枚めくっていく毎によくなってるわ。全体的に、決して技術的に上手いものとは思えないけど、それは経験を積めばいいことだもの。あなたの絵って、あなたの性格と違って細かいわ。よく観察できてると思うの。表現したい意図がはっきりしてるっていうか」


「ちょっと毒が混じった批評だけど、嬉しいよ」


「ねえ、この絵なんか特にいいわね」


 チャンは、夕日を題材にした絵を指した。モンガー湖を囲む森林に落ちてゆく夕日を捉えたものだ。


「ああ、それはうまく描けた、かなあ?」


「ねえゴスケ」


「ん?」


「絵、続けてね。もしも、もっといいあなたの最高傑作ができたら、また見せてね」


 友達とはいえ、思わぬいい評価をもらって、僕は嬉しくなっていた。なので、調子に乗って、夕日の絵のページをぬいた。


「ありがとう。なあ、よかったらこの絵、もらってくれよ」


「え」


「記念だよ。なんか、真面目に見てくれて嬉しかった。どうせ、また夕日の絵は描くからいいんだ。もらってくれ。ティッシュ代わりにしてもいいんだぜ?」


 チャンは少しはにかんでいた。「ちゃんと飾っておくわ。ねえ?」


「ん」


「ありがとう」


 スケッチブックを閉じると、僕らはまたぶらぶらと歩き出した。




 もう戻ることのない、特別な時間を共有した日々――。


 いくつかの時間はとっくに過ぎたというのに、心の奥では、寂しさの連鎖が時計の針のようにカチカチと鳴り続けていた。


 青空にふわふわと浮かぶ雲があるとても良い天気の日、キングスパークまで歩いた。

 針葉樹やシダ類やらの緑が、相変わらずこの公園のあちこちで芽を伸ばしている。小鳥はそれらの木の枝の上で唄うように啼き、地元の人々は大好きな日向ぼっこをしてくつろいでいた。


 ユーカリの並木道を歩いて、そこから斜面を下り、キングスパークの縁側の方に出ると広場があって、そこには戦争記念碑やインフォメーションセンターがある。その広場の高台からは、パース市街とスワン川、遠く広がる山の端とを見渡すことができた。ここはパース観光のメッカというべき場所で、僕もここから観るパースの光景が大好きだった。


 今日は、ここからのパースの光景を描くことにした。絵を描き始めた頃は、高いビル群と高架道とのバランスをスケッチするのが難しくて、ためらっていたのだが、今日はチャレンジしてみることにしたのだ。


 描き始めてから、案の定、高架を描き上げるのに思案していると、電話がかかってきた。


「おっす、オラ、サン」


 サンからの電話だった。彼の陽気な声に、うれしくなる。


「よう、ニセ悟空。どこで、そんなうさん臭い日本語を覚えたんだ?」


「今滞在している農場の日本人からさ。元気だった? サーフィンは?」


「相変わらずだよ。洗濯機みたいにグルグルまわる時もあれば、波の野郎の上に乗っかる時もある。なんにしろ、いつも通りかな」


「そうか、よかった。そろそろ、寂しがってると思ってさ」


「誰が」


「なあ、やっぱり旅っていいよな」


 サンは言葉を宙に浮かすような調子で言った。


「なあゴスケ。今思うと、あのカジャーナ農場時代はさ、本当に楽しかったよな。色々辛かったけど……だからこそ、楽しかったのかもな」


「同感だよ」


「最近考えるんだよ。楽しいって、何だろうなって。基本的に俺はここで楽しんでる。でもさ、本当に心に残るものってさ、辛くても、ひたむきにあがいて、それでも心から笑っていた時間だった気がするんだ」


「分かるよ。今はどうなんだ?」


「ん、そうだな、まあ順調だよ。いい奴らも多いからね」


 そう言うサンの声はいつもよりもトーンが低かった。


「なあゴスケ、ここにいる間に、もしおまえの絵が高く売れたりしたらすごいよな」


 思わず、僕は大きな声で笑った。


「おまえ、目がいかれてるのか? イス取りゲームの景品にしかならないよ。それに、プロの画家や美術学校の学生に失礼だろ」


「そうかあ」


「でも最近はさ、描いてても、もどかしくて辛い時もある。うまく表現できないことだらけでね。俺はもしかしたら、今はまだサッカーを失った意地で、絵にしがみついてるところがあるのかもしれない……でもね、それでも感じることができるんだ」


「何が?」とは、サンは言わなかった。僕はつづけた。


「必死こいて描いてる時にさ、ああ、これってドキドキがあるなって。まだ確信とまではいかないけど、せっかく自分で見つけたものだから、モノにしたいんだ」


 サンには自分の心根を語ることができた。けれど、この日は受話器の向こうの相手に語りかけるというよりも、自分に言い聞かせるように声を出していた。


「俺はね、自分の命を紡いでいきたいんだ。俺のやりたいことで」


 受話器の向こうのサンは、今どんな顔をしているだろう。思えば、こいつには世話になりっぱなしだった。


「なんだかゴスケと話してると、元気が出てくる気がするよ」


「色気はねえけどな」


「あったら困るよ」


「お互いにな」


「そろそろメシでも作るよ。絵描き、頑張れよな。またな」


「ああ、またな」


 電話を切ると、一服してまた作業に取りかかった。


 しばらくすると、子供が作品を覗くように見てきた。「お兄ちゃん、やるじゃん」


 そのまま、その子と話しているとなにやら盛り上がってしまい、一緒にバレーボールをして遊ぶことになった。その球はよく弾み、僕もその子も十分な汗をかいた。




 ICNの紹介で、僕は前回よりもすんなりと仕事を見つけることができた。行き先は〈マンジュマップ〉。パースより南に下った所にある、リンゴの生産が盛んな土地だ。


 その仕事が終わったら、西まわりで北に向かおうと思っていた。

 まだ何も始まっちゃいないのに、その旅のことを考えると、ドキドキしてしょうがなかった。


「旅は素晴らしいわ」


 ティミーさんがそう言った。僕たちは庭で、ガレージの壁にペンキ塗りをしている。


「でもその前に、また農場で働かなきゃ」


 指には白いペンキが垂れてきて、すでにべたべたになっている。


「いいじゃない。せっかく、海外で働けるんだもの。しなきゃ、はだめよ」


「うん、そうだね」


 確かにそうだ。こういうことを言ってくれるティミーさんに、僕は日々感謝している。


 以前、これからのことで僕が不安になっていることを打ち明けると、ティミーさんがこう言ってくれたことがある。


「You can do that(あなたにはできるわ)」


 その時、彼女はいつになく真剣な顔つきだった。

 嬉しかった。


 そう、この先、何が起こるかなんて分からない。思ったような結果だって出ないかもしれない。だが、僕はやれるはずなのだ。何回迷っても、僕は彼女の言葉を信じよう。


 本当に自分を信じられるだけの男になろう――


 となりで刷毛をせっせと上下させているティミーさんを見ながら、勝手にそう誓っていた。


 その日の夕食には、ティミーさん特製のシチューがでた。赤ワインとカブを刻んで入れたものをベースに、さまざまな種類の野菜が混ざっていて、濃厚な野菜汁とさっぱりした酸っぱさがバランスよく口の中に広がって美味だった。


 お腹いっぱいに平らげると、僕は「ありがとう」と言った。

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