第二十五話 太陽の下で

 ためらわなくていい

 そこにあるだろ

 大切なものってそこにあるんだ

 気づかないっていうんならさ

 少し休んでみちゃおうよ

 缶コーヒーで一服してさ

 ゆらりゆらり揺れる木の葉でも見てさ

 あらら

 朝がやってきた

 今を生きるための朝がやってきた




 赤い土が底にこびりついた靴。どこでそうなったのかよくわからない形の小さな破れが点在するシャツ。

 そんな格好で、僕はパース駅へと降り立つ。


 相変わらずの駅の景色だ。


「ゴスケ!」


 一人の老婆が、万国共通の無邪気で罪のない笑顔を浮かべながら、抱きつかんばかりに近づいてきた。手の届く距離までになると、僕たちは実際に抱き合い、再会の喜びを分かち合った。


「おかえりなさい!」


「ただいま」


 何だか照れくさかったけれど、僕はティミーさんと肩を並べて、駐車場に向かって歩き出した。旅の間にも度々思ったことだが、やはりパースが懐かしかった。


 旅の間は、自分の目に映ってきた今までの何気ないパースの風景がちらちらと心の中に現れては、〈故郷〉を偲ばせる想いに駆られた時もあった。ここはもはや、自分にとって第二の故郷になっているのかもしれない。


 ただ、ティミーさんの握るハンドルで転がる車で、ひどくおびえるハメになった。彼女の運転ぶりときたら、絶叫マシーンに近いものがあったのだ。


 なんとか無事に到着し、シャワーを浴びて旅垢をおとすと、ようやくひと息つけた。


 リビングで紅茶を飲みながらくつろいでいると、ティミーさんがやってきた。僕は自分の表現力で伝えられる限りの旅の話をべらべらと彼女に喋りつづけた。

 ティミーさん自身も、若い時分にはずいぶんと旅をした経験を持っているので、僕の話を嬉しそうに聞いてくれていた。


「ほんとう、よかったわね。あなたが色々な経験をしていくのは素晴らしいことよ」


「うん、ほんとよかったよ。スケッチもいくつか出来たしね」


「あっ、そうそう!」


 ティミーさんは思い出したように自分の部屋に駆け込むと、それと同じ速さでまたリビングに戻ってきた。彼女は一通の手紙を手に持っていた。


「あなたのよ」


 差出人の名前を見ると、思わず「あっ」と声を漏らした。


〈ミナより〉


 釘付けになる僕。


「恋人かしら?」


 ふふふ、とティミーさんはいたずらっぽく笑っている。


 ティミーさんは、「今日は私があなたの分まで食事の用意をするわ。それまでゆっくりしてなさい」と言って、キッチンへと足を向けた。


 部屋に戻ると、どかっとベッドに腰かけ、再び、手紙の差出人の名前をじっと見つめた。(なんで、今俺に……?)


 何が書いてあるのか、開けるのが怖い気もして、少し天井を見上げてみた。自分がしばらく息をしていなかったのに気づく。ぷはーっとひと息つくと、やっと封を開けた。




   護助君へ


 お元気ですか? 日本はこれから春! ……といってもまだ寒いヨ(笑)

〈中略〉

 護助君。私、もしかしたらね、オーストラリアに行くかも。友達もエアーズロックとかその辺りに行きたがっててね。五月くらいに仕事の休みがとれそうなの。

 護助君、そっちにいても、私に元気をくれてありがとう。

 また、会いたいね。もし、エアーズロックの辺りに旅に出るなら連絡してね。

 それじゃあまたね。

                                 ミナより




 深くため息をつくと、わけもなく部屋をうろうろしはじめた。まるで夢遊病者のように。

 再びベッドに腰かけると何度も手紙を読み返した。


 ゆるやかで、深い海のうねりを連想させる音楽が、頭に響きわたっていた。


 なぜ今――どうして君は、俺の心をかき乱すんだ?


 それでも、やっぱり、胸の内には喜びが溢れてきていた。


 ミナからの手紙。

 とても大切な人からの手紙。


 恍惚に満ちたとてつもない感情を受け止めきれずに、また部屋の中で右往左往していると、ティミーさんがドアをノックしてきた。


「ゴスケ! ご飯よ!」


「あっ、あいあいさ!」


「アイアイサ?」


 ティミーは嬉しそうに、変な日本語を繰り返しはじめる。


 ーー五月といえば、僕もそのあたりで北に行くつもりだから、本当に会えるかもしれない。いや、今度こそ会おう……!


 その日の夕食は、いつにも増して身に沁みた。




 パースでの日常がまた始まった。ただ、滞在は短くなる。三週間後にはまたピッキングに出向き、それから、西まわりで北上していく旅に出るのだ。


 パース駅では、駅員が職務そっちのけでおしゃべりに興じていた。駅の前にある広場〈フォレストプレイス〉では、多くの人々がそれぞれのペースでボーっとしていたり、学生が友達と暇をもてあましたりしている。街の通りは、観光客と買い物客で賑わい、いたる所でパース市民の日常が交差していた。そして、南の風をうけた緑豊かな木の葉を揺らしながら、キングスパークは今日もその広大な芝生に家族がくつろぐ空間を与えていた。


 そんな相変わらずの故郷の風をうけながら、僕はサーフィンをしたり、ジョギングをしたり、街の散策をしたりしながら日常を過ごしていた。もちろん、勝手に自分の本職としている絵描きをこなしながら。


 けれども、僕の生活のサイクルは、以前に住んでいた時よりも質素で心淋しいものになっていた。もう、自分の知っている人はほとんどこの街から去ってしまっていたのだ。


 カリステアスさんや、最初のシェアハウスのオーナーの利夫さんの家に遊びに行ったりもしたが、すでに秋子もパースを去っていた。


「出会ってはまた別れ、そしてまた新しい出会いがある。ワーホリってのは短い期間で一期一会を繰り返す。そんなもんだよ」


 カリステアスさんも利夫さんも、そんなことを言っていた。また、同じようにいい出会いがあるだろうか。

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