第二十四話 つづきへの旅

 二人の旅はつづいてゆく。


 今度はレンタカーを借りて、運転を交代しながら、休憩しては立ち小便をして、〈クレイドル山〉を目指して走っているのだ。


「なあ、知ってるか」


 ハンドルを握りながら、ポークが言った。


「俺たちの国じゃ、妖精ってやつが身近なんだ。そういう昔話を小さい頃によく聞かされるからね。いや、酔ってるわけじゃないよ? 俺は運転中にビールは飲まない」


「わかってるよ」


「段々、そんなものの存在なんかは信じなくなったさ。ところが、この年になって妙な考えが浮かぶようになってね。考えてみると、俺たちの星ってさ、一体どうやって動いて、こんだけの生きものがいるんだ? 科学的に説明するのもいい。けどさ、そんなんじゃあよく分からないことが多いんだよ。わかるかい?」


「うん」


「一体、何の意味があって俺たちはここで生きていて、どうして地球があるんだろう? そんなことを考えたりさ、ここにあるような大自然を目の当たりにすると、人も大きな何かの一つなんだなって感じるんだ。結局、俺たちは知らないことの方が多いのさ」


 僕は、うなずく。


「妖精はいるかもしれないね」


 二人を乗せた車が、この島の上に流れる小石のように、一つの方向へと流れてゆく。


 クレイドル山――オーストラリアの旅行パンフレットを見たことのある人は、この山の景色を目にしたことがあるかもしれない。


 セントクレア湖国立公園にあるこの山は、ゆりかごのように切り立った形をした山頂を持ち、標高千五百四十五メートルの雄大な姿を誇っている。さらに、この山の手前には透き通った湖が広がり、世界遺産にふさわしい優美な景観が広がっていた。


 この国立公園(十六ヘクタール!)を、足ががくがくになるまで僕たちは歩きまわった。何とか再びクレイドル山の前に戻ってくると、ポークは湖に釣り糸を垂らし、僕はスケッチをはじめた。今回の相手はかなりの大物だ。


 日が暮れると、キャンプ場でテントを張った。火をおこし、ウィンナーを焼いて、ビールを飲んだ後、少しの沈黙が流れた。


 夜の山は不気味なほど静かだ。うっすらと山の影がそびえている姿が何とも恐ろしく、旅人の孤独をさそう。けれど、星空はこの上なく綺麗で、それらが夜空のキャンバスに惜しみなく散りばめられている。


 僕は星を見ながら、虫の音に耳をすませていた。


「どうしたゴスケ? もう酔っぱらっちまったのかい?」


 ポークがけげんそうに言った。


「ううん、虫の音を聞いてるんだ。なかなか粋なもんだぜ」


「虫の音が? 日本人って変わったセンスしてるんだな」


「どうかな。最高の演奏だと思うよ」


 ポークは、感心したような顔をしている。「国によって感性って違うのかもな。おもしろいもんだ」


「妖精もいるかもね」


「足がないのはごめんだぜ」


「オッパイが大きいのがいいな」


「ああ。そんでもって、キスのうまいやつがいい」


「もうそいつは妖精じゃないね」


 目が閉じてしまうまで、僕たちはそんなくだらない話をこの山に聞かせていた。




 ――山の朝は寒い。湖の水で顔を洗うと、眠気なんかは一気に覚めてしまう。


 コーヒーをいれ、朝の散歩をすると、自然の塊であるこの山のどこにも朝の光がきらめいていた。


「これこそ、朝、だな」


 帰りの支度が終わり、車に乗りこんだ後、僕たちはしばらく黙ってしまっていた。頭の中のどこかで、生きる喜びを刺激する新鮮な風が吹いていて、しばらくはその気分に浸っていたかったのだ。


 タスマニア島の地は、神秘と自然の歴史が溢れていて、光と影が交差しては、若い旅人や熟練の旅人のそれぞれの生命に息を吹きかけ、それぞれの想いに時間を与える。


また歩きだす時まで――。




「また会おう」


 もう二度とやってこないであろう時間を共有した僕ら二人の旅人は再会を誓い、ホバートで別れた。

 アイルランド人の旅人は、もう少しタスマニアに残るつもりだ。日本人の旅人の方は、メルボルンを目指して飛び立ってゆく。


 緑の島はあっという間に、飛行機の窓の視界から遠ざかっていった。




 メルボルンで、亮さんと僕は再会した。亮さんは隣に恋人の美津代さんを連れていた。背筋をピンと伸ばした品のある女性で、シックなメルボルンの街に似合う人だった。


「よかったですね、いい彼女ができて。コンチクショーが」


「おまえ、旅はどうやった? 楽しめた?」


「はい。つうか、今も旅の途中なんすけど」


「そいで、こっちの方はどうや?」


 亮さんはいたずらっぽく笑い、小指を立てた。


「いやいや、何もないですよ」


「そうかあ。おまえもそろそろ、いい人見つけなあかんで?」


 僕は下唇を出し、肩をすくめた。


「なんかね、無理してがっついても俺はダメですよ」


 亮さんは彼女の感想を求めた。美津代さんはふふ、と笑って答えた。


「いいんじゃないかしら。中途半端に手を出すより、男らしいと思うわ」


「それもそうやけど、こいつは臆病な奴なんや」


 ほうっておけ、という意味をこめて僕は舌をだした。


〈メルボルン〉は、英国風の街並みと斬新な建物とが融合されている都市だ。目抜き通りには洒落たバーやレストランが並び、世界各国の料理で賑わっているレストランからは絶え間なく人々の笑い声が聞こえてくる。


 新しい街に着く度に、僕はできるだけ博物館に行くようにしている。博物館はその土地の特徴を大まかに教えてくれるからだ。建物の規模、内装、雰囲気を知って感じることで、観光の基本的なものを押さえることができる。


 この日は、亮さん達と共に南半球最大の博物館に入った。さすがにメルボルンの博物館だけあって規模が大きく、環境と民俗文化を取り上げた展示を中心に、多くの展示方法が施されていた。


 中に入ってからは、亮さんと美津代さんとは別行動で、僕は同じフロアをぐるぐるとまわった。

 展示物の一つ一つに目を預け、自分がスケッチしたいものを決めてゆく。こういう時間に身を置くことに、僕は喜びを感じるようになっていたし、それは、その空間で自分だけが感じることのできる、限られた至福の時間なのだ。


 しばらく経つと、ハッとなり、二人の姿を探しにいった。


 もうすぐ夕方がやってくる。博物館を出てから、三人でトラムに乗りこむと、窓から空に広がる紅色に気づいた。鈍く光るその色が、英国情緒あふれるトラムの内装まで優しい色に映えさせていた。




 洒落の街メルボルンでの滞在は、早くも終わろうとしていた。それは僕にとって、一旦パースに帰ることを意味していた。もう少しいるはずだったが、旅行資金が尽きてきているのだ。


「お金って旅行者にとっちゃ、マラソンランナーのスタミナみたいなもんですね」


 横には亮さんと美津代さんが並んでいる。


「それが尽きちまったら、動くことができねえ。うまいこと、給水所でもあったらいいですがね」


「そうやな。そもそも、生きてること自体がマラソンみたいなもんや……ほら、あそこで給水しようや。俺がだしたる」


「すいません」


 ハングリージャックに入ると、亮さんは僕にハンバーガーとポテト、コーラのセットをおごってくれた。


 夏の終わりに近づいていく風がこの街の通りをそっと吹き通り、人々に新しい季節の到来を告げていく。多くの移民が住むこの国だが、誰もが同じ風と同じ陽の光を受け、共の空間を分け合いながら、生きているのだ。


そして、誰にでも平等に夜の帳はおりてゆく。




 リリリリリリ。列車のベルが鳴った。


 メルボルンの駅にあまり人はいなかった。亮さんと美津代さんはもちろん、僕の見送りに来てくれた。


「護助、エロ本買わんでええのか? さっきの店、安そうやったのになあ」


「電車の中で興奮してもね、やり場がないですよ」


 これで亮さんともお別れだ。彼は手を差し出してきた。


「じゃあ、またな」


「ええ、また」


 握手して、頭を下げると、僕は列車に乗りこんでいった。


 列車が動きだした後、僕は窓に顔を押しつけ、まぬけな般若のような顔をつくってみせた。日本人カップルはそれを見て大笑いしている。


 やがて、列車は夜のしじまをじっくりと引き裂きながら、旅人の疲れた体を第二の故郷へと運んでいった。

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