第二十三話 光は空から
シドニー――
オーストラリア一の大都会であるこの街は、有名なハーバーブリッジ、オペラハウスをはじめ、開拓時の歴史的建造物、広大な緑の公園、いくつもの旗がゆらめく港と高層ビルがうまく調和していて、オーストラリアの精神や志向をダイナミックに表現している。
駅に着くと、長距離列車に揺られつづけた疲れた体をなんとか動かし、キングスロードの安宿に荷物を置いた。ゲイ通りで有名なオックスフォードストリートで厚化粧の男からウィンクされたりしながら、僕は市内を散策していた。車に道路が必要なように、旅人にとって〈散歩〉は絶対不可欠なものだ。
大都市シドニーといっても、オーストラリアなだけに、街にせかせかした雰囲気はあまりなく、好きな場所で足をとめて休める余裕がこの街にはある。
僕は特に、〈ミセス・マックォーリーズ・ポイント〉が気に入った。ここはシドニーの北にある入り江につきだした丘で、ここからはハーバーブリッジを背景に、くっきりとしたオペラハウスを観ることができ、シドニーを描くにはうってつけの場所なのだ。
特に、夜景には百見の価値がある。ここで、ティムタムをつまみながらスケッチをするのは最高だ。
広告やテレビでしか見たことのないものを実際に目の前にし、その姿を描いていると、いいしれぬ興奮が体中を巡った。楕円形を半分にしたような屋根を、天に伸ばすように幾層かに重ね、建築という芸術を誇らしく表現するオペラハウス。その背後では、人の往来が激しい移民国家を象徴するかのように、長く太く高く設計されたハーバーブリッジが実に堂々と横たわっている。
「なに描いているの?」
「あら、あなた絵描きなの? 下手ね」
「オイラも描いてよ」
そんなふうに、地元の人達が時折、絵を描いている僕に話しかけてくる。そんな時、僕は決まって筆を持つ右手を頭の後ろにまわし、「下手って言うなよ」と言っておどけてみせる。
シドニーの光景をようやく描き終え、自己満足な達成感を胸にしまい込むと、世界遺産〈ブルーマウンテンズ〉へと向かった。
シドニー中心部から西へ百キロほど行くと、その壮大な丘陵地帯がある。高台からその景色を眺めると、ユーカリの木を多く茂らせているため、ほんのりと青く色づいた霧のようなものが雄大な森の地帯を包んでいた。
幻想的な景色だった。
誰もが、この圧倒的な壮観を目にすると、自然の果てしない大きさを感じずにはいられない。
高台の左手前には有名な〈スリーシスターズ〉がある。谷底からそびえる三つの切り立った奇岩が仲良く並んだもので、呪いをかけられた三姉妹の姿だという、アボリジニの伝承があるらしい。
高台から、生まれたての子馬のように足をガクガクさせるほどの急斜を誇る、粗末な階段を降りて谷底に着くと、森の中を歩きはじめた。
森の中は静寂で、鳥や虫の鳴き声がよく響いていた。
木生シダや針葉樹、赤く色づいたブラシのような花、パンク野郎のようなツンツン頭の植物、天に向かってまっすぐ伸びるユーカリの木の中を僕は歩いてゆく。
森の天井の隙間からは中天の陽光が差しかかり、緑の香りが心の中の何かを回復させていくようだった。時折、対面からやってきた旅行者とすれちがった。挨拶をするときの彼らの笑顔はみな晴れやかだ。
自分で選んで進むこと――
その喜びが、体中に染みわたっていった。
「あなたって、イカれてるわ」
シドニーの旅行代理店のスタッフに、そう言われた。
次の目的地〈タスマニア島〉への航空チケットの手続きをする際、僕の無計画ぶりを聞いて呆れたのだ。
まあ、いいか。
多雨林地帯として、特異な植物や野生動物が多い島〈タスマニア〉は、その面積の大部分が世界遺産になっている。シドニーから飛び立ち、このタスマニア島に着いた僕はまず、その街並みの美しさに目を奪われていた。
オーストラリアの中でも二番目に古い〈ホバート〉の町はこぢんまりとしているが、とても落ちついた雰囲気の中に、歴史の趣を感じさせるレンガ造りの家が建ち並んでいた。
石造りの倉庫が並ぶ波止場の辺りでは、観光用に造られた帆船がのんびりと浮かんでいて、いくつかのオープンバーでは、旅行者がビール片手に目の保養をしている。
港沿いにある、砂岩造りの倉庫群〈サラマンカ・プレイス〉は映画のセットのようで、古き良き時代を偲ばせた。サラマンカ・プレイスから裏側の丘一帯は〈バッテリーポイント〉と呼ばれていて、そこにある民家は人形劇に使われるような可愛らしくほんわかとした造りのものが多く、坂道を上がった先では、ホバートの美しい岬を一望できた。
まるで童話の世界に踏み入れてしまったかのように浮世離れした町の風景は、タスマニアの心意気をしっかりと人々に伝えているようだ。僕はこの町を歩いては止まり、スケッチを繰り返していた。
この町で一泊した後、ホバートから、火山岩で形成された〈フレシネ半島〉まで足を伸ばした。ここで、ポッサムやハリモグラなどの野生動物を見ながら歩いていると、同じく一人で旅をしている、アイルランド人のポークという青年が話しかけてきた。
「動物は好きかい?」
「うん。こいつら見てると、癒される気がするんだ。ネズミみたいなつら面した友達も思い出すしね」と、僕は日本に友久のことを思い出しながら答えた。
小柄なこのアイルランド人は、緑色の瞳に、大きい唇、丸みを帯びたアゴを揺らし、いつも笑っていた。
フレシネ国立公園の目玉で、その名の通りワイングラスの形をした天然の湾〈ワイングラスベイ〉の白いビーチに着いた頃には、僕とポークはすっかり意気投合していた。ポークの英語はアイルランド人のわりには発音が良く、聞き取りやすかった。
ホバートの町に戻ると、僕らはさっそくアイリッシュパブに入った。
「オーストラリアはいい国だよ。気のいい連中が多いし、自分の国のビールも飲めるしね」
ポークはそう言うと、口についたギネスの泡をぬぐった。「食いものや飲みものって大事だよな。俺なんかはこのギネスがないと、一町先も歩く気がしないんだ。分かるだろ?」
「うーん、分かる、かな?」
大好きな味噌ラーメンを思い浮かべながら、なんとなくうなずいた。
「俺らなんかは恵まれてるよ。英語圏だから、どこに行ってもある程度は言葉が通じる。日本人は大変そうだね」
「うん。発音が難しいからね、英語は。俺なんかいつもきりきり舞いだよ」
「ゴスケ、大丈夫だよ。俺は君の言ってることが理解できるし、君は英会話を怖れてない。どうもね、日本人って英語を話す時に消極的になってしまう人が多い気がするんだよね」
「まあね、基本的に日本人はシャイだもん。俺もそうだよ。日本人相手でだって、上手にしゃべれないもん。けどさ、もっと旅をしたいし、げんに今は旅をしてるだろ。だから、英語の勉強は欠かせないんだよ」
「うん、分かるよ。俺も、フランス語を勉強してるからね。ゴスケ、遠慮なく俺をテキストにしてくれよな」
「ああ、音声つきでビールが好きだなんて、最高のテキストだね」
行きたい所が重なったこともあって、タスマニア島での僕の行動は、ポークと二人で動いていくことになった。
豊かな森林と、遠く谷間をのぞかせる草原を突っ切ってゆくバスに揺られながら、二人で旅の風景に耽ってゆく。一人旅に慣れつつある今、こうして同じ感動を分かち合える仲間がいることが、今はありがたい。
タスマニア北部の町〈ロンセストン〉に着くと、予約してあるYHA(ユースホステル)に向かって僕たちは歩き出した。
ところが、ここで思わぬ重労働を強いられることとなった。インフォメーションセンターでもらったパンフレットを見ると、バスターミナルからYHAまでは小指の先ほどの距離しかないくせに、歩いてみるとひどく遠く、おまけにひたすら歩道のない坂道が続いているのだ。
少し日陰で休むことにすると、ポークが気のぬけた表情で言った。
「おい、これを見てみろよ」
のぞいてみると、もらったパンフレットのはじっこに、虫メガネが必要なほどの大きさで、〈YHA行きのシャトルバス有り。ここから五キロ〉と書いてあった。
「ピッキングを思い出したよ……」
僕たちは軽く落ちこんでから、意地の悪いパンフレットにありったけの悪口を言って、また歩き出した。
ようやくYHAに着くと、さっそく最高のビールを喉奥に流し込み、深い眠りについた。翌日は、二人とも筋肉痛になっていた。
とにかく、僕たちはよく歩いた。
ロンセストンにある〈カタラクト渓谷〉に行くと、汗をたらしながら、石を踏み、橋を渡り、川を越えた。
渓谷の奥へと向かう途中、僕らの足は止まった。
谷間に、黄金のような陽の光が差してきたのだ。
眼下では絶え間なく流れる川がせせらぎ、谷間の岩.壁はきっちりとそびえ、それらを彩る緑が風に吹かれ微かに揺れている。そして、全てを優しく包み込む光――それは、天の祝福を思わせる光景だった。
ポークは無言のままシャッターをきり、僕はため息をつく。
思わぬことに、自分の目尻から涙が滲み出ているのに気がついた。が、ポークの手前、必死で堪えた。
(こういうことで、俺は泣けるのか)
無言の感動に理屈なんかいらない。スイッチを押せば光がつくように、時に人は、パッと自分の魂の色を深くしてしまう。それは言葉のいらない一瞬の作業なのだ。
ポークが言った。「これが写真でうまく写るかな? 帰ったら妹達にも見せるんだ」
「いい考えだね」
足元じゃ、砂利が音をたてている。
「きっと、うまく写ってるよ」
峡谷の中心部まで進むと、広々とした入り江が見えてきた。
そこにはなんと、広い公園と、上流の水溜りでできた大きな天然プールが隣接していて、まさに自然の娯楽場となっていた。谷越えをしてきた来訪者にとって、その光景は驚くべきものだ。何せ、大自然の渓谷の中にいきなり公共の場が現れるのだから! しかも、うまく周りの風景と融け込んでいた。
僕たちはここの入り江で泳ぎ、谷間に差すお日様の光を受けながら、ビールを飲んだ。何だか、ビールを飲んでばっかりだ。
「生きてるって、すばらしいな」
「本当、そうだな」
ポークに同意すると、僕はタバコに火を点けた。ひどくうまかった。
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