第二十二話 夕暮れの笑み
アデレードの街は、道が碁盤の目のように秩序よく並んでいて、街中はほどよい大きさなので十分に歩いてまわれる。
街並みは英国風の造りに模せられており、かつ、オーストラリアらしい小高い丘もあり、〈食の都〉らしく多くの美食レストランがある。物価はほどほどに安く、無料で公開されている施設が多数あった。住民や旅人に優しい街といってよい。なかでも、十六ヘクタールの広さを持つ水蓮で有名なボタニックガーデン、そして美術館と博物館は広くて見どころが満載なので、僕といううさん臭い画家にとって、それらの場所はいい題材となった。
(どうやって、こんなの描くんだ?)
美術館では、思わず感心してしまうような作品を丹念に観てまわっていた。
背景に使う色の配合、細かい描写、人や動物の表情、事物の光と影の使い方――それらの要素を参考にして、アデレードヒルズから街を一望する絵を描いてみるのだが、当然、プロのようにはいかない。
思いつきで絵を描くことを決めたものの、本当にこれでいいのだろうか。
「――とにかく、続けることが大事だ。納得するまでやればいい」
その夜、父親が受話器の向こうで、ドラ息子の僕にそう言葉をかけてくれた。頭では分かっていることでも、信頼のおける人から改めてそう言われると、元気が湧いてくるものだ。
ひととおり街を堪能すると、アデレードの南部に浮かぶカンガルー島へと向かった。
この島は人口わずか四千人ほどだが、東京都の二倍の広さを持ち、野生動物の宝庫となっている。アシカ、コアラ、カモノハシ、カンガルー、クジラ、イルカ、ペンギンなど、オーストラリアを代表する愛らしい動物たちが暮らしているのだ。
動きだすと意外にすばしっこいコアラや、大量のアシカがのんびりと日光浴をしている風景を眺めていると、旅行客は子供がおもちゃを与えられた時のように素直に感動し、自然と顔が綻んでしまう。彼らのしぐさは、人の感情を喜ばせ、驚かせ、愛おしくさせ、さまざまな感情の電源を押してしまうものなのだ。
「ワオ! とても素敵な岩ね。まるでアートだわ。うん、アートそのものよ」
イタリア人のアマンダは、〈リマーカブルロック〉を見ながらしきりに感心している。彼女は僕と同じ宿に宿泊していて、同じツアーに参加していた。
リマーカブルロックは、この島の西南にある奇岩の集合体で、南極の風と冬の雨によって岩が削られていて、人がすっぽりと入れるほどの孔があったり、うねるような形であらゆる方向に岩肌がえぐられていたりと、自然が長い年月をかけて造り出した一つの偉大な芸術品といえた。
「絵は描かないの?」アマンダがくすくすと笑っている。
「そんな時間ないよ。写真撮って、現象したら描くよ」
「うん、いい考えね」と言ってなにやら笑うアマンダ。彼女は、いつも明るい。
この島を散歩していると、辺りの原生林や白い砂地、ゆっくりと唸ってゆく海が心を落ちつかせてくれる。夜になると、満天の星空や時折浜辺に現れるペンギンが目を輝かせていた。
静かな夜になると、昼には思いつかないか、あるいは思い出そうとしていなかったのか、むき出しの想いが顔をだすことがある――
パースでのあの電話以来、ミナとは連絡をとっていない。伝えること――それは簡単なことのはずなのに。
自分の状況、傷つくことの怖さ、何かが変わってしまうこと。そんなことがつきまとって、壁を破ることができずにいる。
心が、痛い。
それでも今こうして、澄みやかな月明かりと重厚な夜のさざなみの前に佇んでいると、自分の核であるはずの何かの線が、カチッと胸の奥で接続しそうな気がしてくる。
宿に戻ってから、陽気なアマンダと一緒にパスタを作った。彼女はイタリア人らしくパスタに関してはうるさい。けれど、できあがったものはひどくうまかった。
「ありがとうアマンダ。本当においしかったよ」
「グラッツェ。でもね、あなた食べるのが早すぎるわ。あたし、まだ半分しか食べてないのよ? 食事とレディの扱いは密接なのよ、気をつけなさい」
彼女はワインを飲んでいる。アマンダの肌はほんわかと小麦色に焼けていて、その肌の色は頭の後ろで束ねた髪とともに、彼女の活発さを象徴していた。
「ね、ゴスケ」
「ん、おかわりしていいの?」
「ふふ」と、アマンダは微笑んだ。
「なんかね、不思議なのよ。あなたって変よ」
「知ってる」
「物知りなのね」アマンダの白い歯が美しい。
「だって、なんかね、違うのよ。私の知っている男の人達と。んー、何て言ったらいいのかしら……あなたは紳士ってわけでもないわ。そう、優しさを表に出さないっていうか。もっと自分に自信を持ってもいいんじゃないかしら」
「まあ、君の国の男連中は世界で一番、女の子にアグレッシブだからね」
「ねえ、シャイになっちゃダメ。好きなコがいるなら、ガムシャラに進まなきゃ。ムード作りも肝心よ?」
「確かに俺は臆病だよ」
「そう思ったわ」
アマンダはくすくす笑っている。構わず僕は続けた。
「好きっていう気持ちさえ伝えられないんだ。何でなのかも分からない」
そう言ってワインを口に含み、すぐに飲み込んだ。
「恋といい、ほんと、うまくいかないことばっかだよ。それでも、俺はもがかなきゃならないんだと思う。それは分かってんだけど……やっぱり、どこかでかっこつけようとしてんのかな。いつの間にか、半端になっちまってる」
でも、乗り越えてきたものも少しはある気がする――
「もし、自分が大好きになった人と自分が歩いてきた道の上で会って、一緒に同じ方向に歩いていけるなら……そんな日を、俺はどこかで夢見てるんだろうな」
そう、自分はまだ新しい道を歩き始めたばっかりなのだ。
男として、もっと胸を張れるようにならなきゃ、見せかけじゃない優しさを持たなきゃ、大事な人と一緒になることなんてできないのだろう。
アマンダは、じっと僕を見てから、優しく笑った。
「あなたって、やっぱりシャイだわ。そしてやっぱり変よ」
こんなことをしゃべるとは思っていなかったので、僕の顔は熱くなっている。
食器を片付け、星空を見た後、僕らはそれぞれの部屋に戻っていった。その際に、アマンダがふり向いた。
「ゴスケ、あなたは根が真面目なのよ。でもね、時にはおもいきって大好きな人を連れ出すくらいの気持ちを持ってもいいのよ。女の子にとって何がいいのかなんて、結局は分からないものなんだから。あんまり、自分の中で固まんないでね……じゃあ、おやすみ!」
夜が明け、この島の海でスノーケリングをした後、僕は荷物をまとめて帰りの船を待った。
多くの旅人は、この島で、日常の中の胸の時計をそっとしまいこみ、生きものの営みや澄んだ空気を感じながら、安らぎを覚える。僕もその一人だった。
船上から、離れゆく小島をいつまでも見つめる。陽はまだ高く、陽光が絶え間なかった。
アデレードで再び一泊してから、地元のレストランで名物のカレーを食べ、そのまま駅へと向かった。次の目的地〈シドニー〉に向かうのだ。
「ワーホリなのにレストランで食事なんて贅沢ね」
アマンダは、相変わらずの底抜けに明るい笑顔で、僕を見送りにきてくれていた。
「アデレードだからね。食いだめしとかないと。列車の中じゃ三食、しけたパンでの生活になるからね」
車掌さんが、もうすぐ出発することを知らせるチャイムを鳴らした。僕は右手を差し出して、アマンダと握手した。
「んじゃ、行ってくる……あっ、そうそう、やっぱりレストランのものより、アマンダのパスタの方がうまかったよ」
「あらっ、言うようになったじゃない。あたしのおかげね?」
アマンダはその手を握ったまま、もう片方の手を僕の頭にまわし、両頬にキスをしてくれた。
「イタリア式の挨拶よ。あら、顔が赤いわね……ねえ、いつか私の国に遊びに来てね。パスタも出すわよ」
「グラッツェ。いつか、コロッシアムを描きながら君のパスタを食べたいよ。それに、こんな挨拶ならいつでも大歓迎だしね」
黄昏時の夕暮れとアマンダに見送られ、列車はゆっくりと動きだしていった。
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