第二十一話 まだ見ぬ世界
まだ見ぬ世界に恋い焦がれる
空気はきれいだろうか
パンはいくらで買えるだろうか
人々は優しく親切だろうか
後悔や失望は怖れない
いくらでも歩んでゆけばいい
まだ見ぬ世界に
恋い焦がれるなら
「また戻ってくる。必ずだよ」
「絶対よ。絶対、戻ってきてね」
バックパックに荷物を積み込み、スーツケースをティミーさんの家に預けると、僕はイーストパースの駅に向かった。
農場で稼いだ金を元手に、ようやく、一回目の大がかりな旅に出られるのだ。今回は、オーストラリアの南部とシドニーを巡るつもりだ。
駅にはサンと亮さんがいた。
今度は、僕が見送られる番だ。
「また会おう。旅の無事を祈ってるよ」
サンも、あと少し経てば旅に出るつもりだ。とはいえ、僕もサンも帰国前にはパースで過ごすつもりだったので、再会を期しての別れだった。
亮さんもあと少しで、学校がきっかけで最近付き合い始めた恋人と旅に出る予定だが、メルボルンでの滞在が長くなるらしい。もしかしたら、そこで再会できるかもしれない。
「かわいいコ、ゲットしてくるんやで。ピンク色の旅にせなあかんで」
僕は苦笑いして、「亮さんみたいにゃ、いかねえよ」と返す
出発の時が来た。
席につくと、窓越しから二人に手をふった。
オーストラリア横断の長距離列車〈インディアンパシフィック〉がいよいよ動きだす。
バッグからMDを取り出し、クラッシュの〈London Calling〉に耳を傾けた。
列車は、広い広い荒野の上をゆっくりと走ってゆく。
西から南へと入る前の最後の町〈カルグーリー〉を越えると、いよいよナラボー平原に入っていった。地平線いっぱいに広がる荒野には、ボソボソっとしたいくつかの枯れ木や雑草が砂地にくっついている。
いくら進んでも同じような景色が続き、その『無』の景色は、この世の果てを連想させるものがあった。時折、ひょこっと現れるカンガルーやエミューの姿を見ると、暗闇の中で懐中電灯の光をじっと追うように、人々はその動物たちの姿に夢中になっていた。
この世の果てとも思われる景色に夕陽が降りてきて、大地を赤く照らし出すと、この世界のどこにも、平等に太陽は地面におさまっていくことを知る。それは、旅人達の故郷と広い世界のつながりを連想させる時間だった。
弁当を食べた後、タバコが吸いたくなったので、隣の号の奥にある喫煙室に向かった。ドアを開け、ムッとしたヤニの匂いが立ちこめる部屋に入ると、アボリジニの男が座っていた。パースでの彼らは、旅行者に金やタバコをせびることが頻繁だったので、僕は心中穏やかではなかったが、引き返すのも気がひけたので、構わずソファにどかっと座った。それから、タバコを巻いて火を点けると、窓の外を見た。
「へい、元気かい?」
アボリジニの男が話しかけてきた。
「……ああ、元気ですよ」
アボリジニの男は、「俺はバージってんだ」と名乗ると、他愛もない話題を持ちかけてきた。ひどく分かりづらい英語だったが、僕はバージさんの陽気さにつられるように、いつの間にか会話と喫煙を続けていた。
次の日も、同じように喫煙室へ向かった。
「やあ、バージさん」
当然のようにそこに座っているヘビースモーカーのバージさんに声をかけ、向かい側に腰を下ろした。
「よお、坊主。いよいよ明日はアデレードだな」
バージさんは目尻を深く畳み、口を開いた。
彼の紺色のジャケットは裾がすり切れていて、頭に巻いているフランス国旗色のバンダナはあちこち糸がほつれていたが、それらの飾りものはこの男の持つ雰囲気にすっかりとりこまれていて、むしろ、粋な趣を感じさせた。ただ、そんな彼にそぐわず靴だけは新品同様のきれいなナイキだった。僕の目線に気づいたのか、バージさんは言った。
「パースで知り合った友達にもらったんだよ。いいだろ? フランス生まれの白人だよ。いい奴だった」
列車は相変わらず、ゆっくりと荒野を走ってゆく。
「もう少しで故郷に帰れる。この靴で帰るんだ」
バージさんは続けた。「アデレードから、ザ・ガン号に乗り換えて北に行くんだ。アーネムランドに行くのさ」
初めて聞く地名だ。「アーネムランド?」
「俺たちアボリジニ専用の地区がそこにあるんだよ。俺はそこの出身でね」
「ああ」
歴史で習ったインディアン迫害の件が頭に浮かぶ。彼らのうち一部の人々も政府が指定した居住地区に住んでいる。
バージさんは僕の考えを先回りするように会話を続けた。
もしかしたら、彼は僕のような聞き手が欲しかったのかもしれない。
英語圏の国出身ではない歴史に興味のありそうな若者を。
「俺たちって怖いのか?」
「時々ね」
おそらく嘘は見抜かれるだろうと思い、素直に言った。
「うん、たしかにな……町に出ているアボリジニの連中は、大抵怒ってるんだよ。それはすごく難しい問題なんだ。わかるだろ?」
「ええ」
「でもな、もうここの土地には色んな奴がいる。色んな家族ができている。大昔みたいに俺たちアボリジニだけってわけにゃ、いかねえ。そりゃ、差別は今もあるさ。ひどく傷つく時もある。腹が立つことも」
バージさんはタバコに火を点けた。彼は、僕にもよく分かるようにゆっくりゆっくりしゃべっていた。
「俺たちは山を、川を、自然を愛し、信仰している。これからは、その信仰を再びここにいる人々に伝えるべきだと思う。そこには、人間という生きものとしての大切なものがあるんだ。この大地は誰のものでもないんだ」
しばらく、僕らは沈黙したままタバコを吸っていた。
と、僕は彼の靴を指して言った。
「その靴、いいですよね。友達からもらったやつ」
「ああ、ほんとにいい奴だったよ。二人で一緒によく笑った。でもな、故郷に帰ったら、この靴は履かない」
僕が首をかしげると、彼はぽんぽんと自分の胸を叩いた。
「この靴はもちろん大事にしまっとくさ。でも、俺の村はみんな、裸足なのさ。大地を素足で感じるんだ。俺はアボリジニであることに誇りを持っている」
気がつけば、僕は大きくうなずいていた。
人間というものの生み出す精神、信念は美しくなりうることを確認したような気がした。
「おそらくその靴も」
僕がどもると、バージさんは優しく微笑んで言った。
「そう、これも俺の誇りさ。大切な白い友達からのね」
列車はいつの間にか、荒野の闇を切り裂いていた。
新しい朝を再び列車の中で迎え、十分に体を伸ばせない仕切りの中で、出来る限りのノビをした。そのままうとうとしていると、〈食の都アデレード〉に着くことを告げるアナウンスが流れてきた。
駅に降り立つと、朝の風は冷たく、鳥の歌がホームのあちこちに鳴り響いていた。
バージさんの姿を見つけ、駆け寄った。彼は古びたスポーツ用リュックを肩にかけているだけだった。
「おまえのは重そうだな」
「あなたのは軽そうですね」
二人の旅人の笑い声が、駅に響く。
バージさんが僕の手を握ってきた。彼の手はごつごつしていて、手触りが悪かった。なぜなら、色々なものをつかんでは、またそれを離してきた男の手だからだ。
「ゴスケ、そのまま進んでいけよな。行きたい方向にさ。山の、川の、海の祝福がおまえにあらんことを祈ってる」
「俺も、あなたに会えて良かった。お元気で!」
バージさんは北へ。僕は東へ向かっていくのだ。
改札を出ると、複数のバックパッカーホテルのスタッフが、呼び込みのために旅人を待っていた。さっさと交渉を済ませて安心感を得ると、さっそくそのホテルへと向かった。
部屋は六人部屋で、カーペットには正体不明のシミがところどころに点在し、壁にはひびが入っていて、二段ベッドにはしなびた布団が敷いてあった。
初めてのバックパッカーズ(オーストラリアやヨーロッパでは盛んな共同部屋の安宿)に、最初の方は目をみはっていたが、時間が経つにつれ腹が据わってきて、安いバッパー(バックパッカーズの略)なんてこんなもんだろ、と思うようになっていた。
「どこから来たんだ?」
「おまえ、酒持ってきたか?」
「今日はどうするんだ?」
何人かの外国人が話しかけてきたが、なんとなく落ちつかず、しかも今更になって自分の英語力を気にしてしまうようになっていた。
もう慣れたはずじゃないのか? とは思うのだが……
文法もそこのけでいつでも堂々と話していたセバスと、列車で会った誇り高いアボリジニ人バージのことを思い出していた。
僕は、元々内向的な性格なのかもしれない。
まあ、旅の最初の方だし、徐々に慣れていくだろう、と思うことにした。
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