第二十話 その日常
「うおっ! いい感じ!」
年が明けて十日ほど経った頃、僕とサンは動いていく波の上に、十回中、三、四回は立てるようになっていた。誰にも教えを請わず、独力で波乗り(?)をしているうちに少しずつ進歩していたのだ。
「俺ら、自分でなんとかしちまうのが癖になってるよな」
砂浜に横たわったボードの上に座りながらサンが言った。濡れた手で吸っているタバコが少し形をくゆらせている。
「なんにしろ、楽しんでるもんな。今、息を切らしてること、塩水が腹に溜まってるのがその証拠さ」
「ちがいねえや」僕もタバコに火をつけた。うまい。
太陽は中天に差しかかり、その光の分け前を海面に散りばめている。
なんとなくモンガー湖に行って、なんとなくスケッチブックを広げると、僕は葦のなる一帯から大きな水たまりへとつながっている面の景色をスケッチしはじめた。
そこにブラックスワンが居座っているのが目についたのが、今回の描写のきっかけだった。ブラックスワンはその黒い体を水面に浮かせ、首を曲げて安楽の姿勢をとっている。彼らにとって最高の場所なのだろう。
筆を走らせながら、カンナのことを考える。
カンナもついに、先日パースを発った。ゴールドコーストに向かうのだ。これで、初期の仲間は亮さんと僕だけパースに残っていることになった。
去年の十二月――。カンナが違う家に引っ越す日、相変わらず人なつっこくてしつこいパースのハエを追い払いながら、痛いほど激しい日射しを受けて、僕はカンナのリュックを背負い、スーツケースを汗だくになって転がしていた。その時は、エジプトの石像をロープで必死に引っ張る労働者のような気持ちだった。前では、ボスのカンナがダンボールを抱えて小刻みに歩いている。
「おい、くそ暑いぞチクショウ」
「ここに来たならね、ジェントルマンになりなさい。アイスぐらいおごってあげるわよ」
「車をおごって下さい」
カンナはふりかえりながらも、息をついている僕を面白そうにつついてくる。
「にしても、女の荷物って何でこんなに重いんよ。漬け物石でも詰めてんのかこれ? 進むごとに憂鬱になるんですけど」
「カワイイ女の子の力になってんのよ。うれしいでしょ?」
「素敵な考えだね……あのさ」
「なに?」
「アイスはおくれ」
新しい家まであと三百メートルといった所で、僕らは右手にある公園でひと休みすることにした。
十二月の夏は、日射しに三割増しの威力を加え、公園の緑樹を容赦なく照らす。くっきりと光を与えられた他の面とは対照的に、その緑樹の影が、清々しい黒を伸ばしていた。
「ありがとうね、もう少しだから」
「そう祈ってるよ」
無性にビールが飲みたかった。
「着いたら、ビール冷やしとくからね」
「よく俺の考えが分かったね」
カンナは喉を鳴らすと、空を見上げた。
カワセミが虫を求めて枝から枝へ軽快なステップを踏んでいる。
「鳥っていいよね。飛べるんだもん。この荷物とかだって、飛んで運べたらいいのに」
カンナのこういう少女っぽい面が、僕は嫌いじゃない。
「とりあえず、翼が必要だな」
「うん、そうだね……でもさ、飛べるってどんな感じだろ。世界を見渡すことができるし、旅行代も払わなくていいんだよ? そしたらさ、大空にはためきながら大声で歌えるんだよ! あたしだったら、ビールも飲むわ」
「俺もだな。けど、パイロットは目指せないな。空で飲酒運転だぜ? まあ、少なくともあと少しでビールは飲めるさ、きんきんに冷えたやつをね」
「そうだね」
カンナは夏にふさわしいカラッとした笑顔でうなずいた。
案の定――泣き虫カンナは空港で肩を震わせていた。それを悟られまいと、彼女は亮さんと僕、他の友人を置いて、急ぎ足でチェックインを済ませてエスカレータへと飛び乗ってしまった。
彼女は、ふりかえらなかった。
みんなとまどっていたが、よくカンナとつるんでいた僕はその行為に少し腹が立ったし、何か言わなきゃ、と焦燥感が募り、「おい!」と、大きな声でカンナを呼んだ。
彼女は恐る恐るふりかえった。パッチリした目を赤く腫らせていた。
僕は叫んだ。
「ありがとうな! また会おう!」
彼女は目頭を押さえながら、ようやく手をふった。みんなもそれに続き、口々に惜別の言葉を放り込んでいく。
天の邪鬼な僕を、カンナは入国時から時に自然に、時に強引に引っ張ってくれた。もしもカンナがいなかったら、僕はうまくオーストラリア生活の軌道にのることができなかっただろう。彼女のおかげで、たくさんの友達ができたのだ。
そして、彼女は人工の鳥の一部となって僕の上を、遠くに向かって飛んでいった。
決して、本物にはなりえない代物だけれども、行き先という目的に向かって飛んでいけることには変わりはない。
(ビールでも飲んでんだろうな)
そんなことを思っていた。
パースでの新しい日常の中で、毎日必ず筆を握り、スケッチブックに生命を吹き込んでいく――その作業は僕の五感を一つの流れに統一し、あらゆる神経を一つの目的に没頭させた。まだまだ、決して思い通りには描写できないけれども、絵を描いている間、自分自身までその絵の中に入っていくような感覚に陥ることもあった。
それでも、
――もう、めんどくさくねえか?
正直、そう思うこともある。そういう声には耳をふさがなければならないことは、わかっている。
気がつけば、スケッチブックにはずいぶんと白紙のページが少なくなっていた。
二月になった。
僕は旅支度をはじめた。
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