第十九話 アリガトウ
朝早く目覚めると、僕は買ったばかりの画材道具を抱えて、家の正面口の日陰にイスを用意した。
腰かけ、半袖をムッと肩までまくり上げ、正面の家を鋭く睨む。
ドクン――清々しい血の巡りが頭を一周しているように感じた。
鉛筆を、握った。
B4紙の上部にあたる屋根から除々に下ってバルコニーまで、まだ手になじんでいない鉛筆で形を創り出していく。欄干と柱のバランスがうまくとれずに、消しゴムで修正を繰り返す。
次第に、鉛筆の芯がずいぶんと短くなっていた。
陽は高くなり、自分の座っている場所に、焼き付くような熱があたる。
まだ続けたいが、このままではミイラになってしまう。
明日に持ち越すことに決めて自分の部屋に戻ると、またすぐに出かけた。サンと一緒に念願のサーフボードを買いに行くのだ。
翌朝、僕とサンはスカボロビーチに立っていた。
買ったばかりの黄ばんだ中古サーフボードを持って、猛烈な勢いで僕は海へと飛び込んだ。
「待てよ!」
サンも後に続くと、ボードの上に腹ばいになって、沖に向かってパドリングしだした。二人とも、周りのサーファーの動きを伺いながら見よう見まねで漕いでいる。現地のサーファー達はうまく波をとらえて、なめらかに波の上を滑って得意の技を披露していた。
「いいなあ」サンは波の上にぷかぷか浮かびながら、ぼやいている。
「よそはよそ、うちはうち!」
大丈夫、サッカーで鍛えてきた体なのだ。
「さあ、いくぞ!」
迫り来る波に合わせて、僕は勢いよく漕ぎ出した。
波は全てを呑み込まんと、てっぺんから一気にその形を丸めはじめる。ある者はその形に呑み込まれ、ある者はそれを利用して青い水圧の覇者にならんとする。僕らはもちろん前者で、あっという間に自然現象の中へ呑み込まれていった。海水の中で、洗濯機に回されるようにぐるぐると体が回転して、耳と口に容赦なく砂と水が侵入してくる。何とか顔を水面上に出すと、僕はペッペッと、飲めない水を吐きだした。
「こいつは、一筋縄じゃいかねえな」
密かに持っていたはずの自信など、簡単に失くなってしまっていた。すぐ近くでは、サンも海水を吐きだしている。おまけに、だらーんとヨダレまで垂らしていた。お互いの顔を見て大笑いした後、次の波を待つために、僕たちはまた沖に向かって漕ぎはじめた。
これで懲りるつもりなんか、微塵もなかった。
朝早く起きてスカボロへ。そこから帰ると、ペンをとってスケッチブックに描写をしはじめる。それが終わると、日によってはカンナや由美や亮さんと遊んだり、一人でキングスパークやモンガー湖をジョギングしたり散歩をしたりする。家に戻ると、ティミーさんと一緒に夕食をとり、テレビを観て、お話しをする。
そんな日常が、僕の新しい足跡になっていた。
ティミーさんの家を正面から捉えた、僕にとって初めての絵。その記念すべき作品を約束通り、まずはサンに見せた。サンは、「ゴスケらしい絵だと思う。俺は好きだよ」と言ってくれた。
そしてその後で、この絵をティミーさんに贈った。彼女は喜び、何度も「ありがとう!」と言ってくれた。ずいぶんといびつで、色もところどころはみ出していて、技術的にはお粗末な一品なのに。
「世界に一つしかない作品よ。大事にするわね」
「でも、下手くそでしょ?」
大切な人に贈るにしては、ふさわしい出来だとは思えなかった。でも、ティミーさんは言ってくれた。
「そんなのは問題じゃないわ。描き続けなさい。悔しいと思う時ほど、描き続けるのよ」
それからというもの、僕はスケッチブックと一緒に外出するようになった。
今年もあと三日で明けようという日、由美がメルボルンへと旅立っていった。出会いと別れの循環がギュッと凝縮された時間を過ごす――それが旅人の宿命なのだ。
空港に着いても、由美は気丈な彼女らしく、涙を見せまいと必死で堪えていた。逆に、カンナの方がボロボロと大粒の涙をこぼして、カンナに抱きしめられている。亮さんはその光景を微笑ましく見つめていた。
空港で何回もこのような景色を見てきて、多くの友達を送り出しているはずなのに、空港には慣れても、別れの瞬間だけは未だに慣れずにいた。セバスや剛やテレサ達も、すでに帰ってしまっている。
「淋しくなったら電話してね」
「おまえこそ」
「あんまりポテチばっか食べちゃダメよ。旅の前にお金なくなっちゃうから。おばあちゃんの年金を借りちゃダメだかんね」
由美は最後まで僕をからかうのを忘れなかった。
今年最後の日――。
クリスマスもそうだが、この日になると、パースの街は死んだ街のようになるらしい。
確かに、いつもは人通りが頻繁な通りも、今日は全くといっていいほど人とすれ違わない。
そんな無人の街をカンナと歩いていると、日本人の老夫婦が話しかけてきた。
「いや、日本の方に会えて、よかった。年末の休みで年越しは海外で過ごそうと、水入らずの旅行に来たんですが、どこもお店がやっていないようですね」
「ええ、ゴーストタウンみたいになってますよね。何かお探しですか?」
「はい、何かお土産でも見ようかなと」
「いつまでここにいらっしゃるんですか?」
「一月の四日までです」
「そうですか。それなら、年明けにはお店も開いているはずですから、買い物は年明けにしたらどうですか? それに、せっかく街を独占できる気分になれるんですから、今日はかえって街の散策にいいと思いますよ」
僕がそう言うと、老夫婦は安心したように笑顔をみせた。
「今夜はキングスパークで花火があがりますから、是非観に行った方がいいですよ」
カンナはそう言ってから、キングスパークまでの行き方を地図に描いて渡した。
「どうもありがとう。ご親切に感謝します」
老夫婦は帽子をとって深く頭を下げてきた。
老夫婦の後ろ姿を見送りながら、僕たちは久しぶりの故郷の作法に感心していた。
「なんか懐かしいね。あの二人、ちゃんと行けるかな、キングスパークに」
「大丈夫だよ。いざとなりゃタクシー使うだろ。でもさ、夫婦ってなあ、いいもんだな」
「二人で色々なものを観るのってステキだよね。感動も分かち合えるし」
「そうだよなあ……」
上を見た。ミナの顔が心に浮かんできた。もう、いいかげんうんざりだった。時に、ミナの影が忌々しいほどに僕の心をノックするのだ。
それを振り払うように、隣にいるカンナにちょっかいを出す。我ながら、情けない男だ。
ヘイストリート沿いに横並びしている、英国風の観光通り〈ロンドンコート〉の時計台の下で亮さんと合流すると、僕たちは年越し花火を観るためにキングスパークに向かった。
高台付近にシートを敷くと、三人でどかっと腰を下ろして、ポテトチップスやチョコレート、ジュースを置いてのんびりと時間をやり過ごした。
途中、僕がトイレから戻ってくると、カンナが肩をたたいてきた。
「護助君、あのおじいちゃん達、来てたよ。ありがとう、だって」
「そうか、よかった」
「おまえら、いいことしたなあ」
亮さんは大阪出身だけに人情にもろい。
十一時をまわり、隣のオージーカップルがあくびをしはじめた頃、スワン川の上空で花火が打ち上げられはじめた。
日本以外で初めて見る花火。
初めての海外生活での年明けを告げる轟音。
何かが実った気がして、僕たちは夜の芸術に浸った。
十二時――
〈Happy New Year!〉そう空に描かれた花火を目の当たりにした時、三人で握手を交わし、エミュービールのフタを開けた。
「乾杯! 今年もよろしく!」
花火が終わり、亮さんの部屋に戻って少し眠った後、また三人で、ノースフリーマントルに向かった。日本人が大好きな初日の出を見るのだ。
ノースフリーマントルの浜辺に座り、あくびをこらえていると、暁を越え、焦らすようにお日様は除々に姿を現しはじめた。眠気がとれないでゆっくりと動く雲の下から、次第にオレンジ色の影が浸食を伸ばしてしてゆく。ついには、空一帯を、海上を、そして生きものの瞳まで照らしはじめた。
亮さんが言った。「ありがとう。なんか、そんな気持ちや」
「うん。そして、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
ゆったりと、白い波が浜辺にうち寄せてくる。
去年からすでに焼けている肌をさらに濃いものにして、それぞれの今年がはじまってゆく。ここまで来ると、オーストラリアに来た当初に比べ、時間が経つのが早くなっていた。
もはや、僕にとってティミーさんとの生活はホームステイのようになっていた。
頼んだわけでもないのに、彼女は毎日のように、ふんだんに野菜を使った料理を作ってくれるのだ。その代わりに、僕はよく掃除をした。
「あなたはすばらしいわ。サーフィンしたり、絵を描いたり、色々なことに挑戦してるもの。あたしには分かるの。あなたはきっと、いい方向へ飛んでいけるわ」
「そんな……やりたいようにやってるだけですよ。それに、俺は飛べませんよ。今は、地を這いずりまわるのが精一杯です。英語ももっと勉強しなきゃね」
実際、本当にその通りだった。余裕なんてないし、今までの人生だって、なんとか少しずつ進んできたのだ。『飛ぶ』ことができた記憶なんかないし、これからだって分からない。
ティミーさんは、微笑んでいた。それは、すべての困難をオレンジ色の光で包んでしまうような笑みだった。
「そうかもしれない。でもね、あなたには、飛ぶことへの資格があるわ。もがいてでも頑張ってるんだもの。だから、飛べるっていう気持ちを忘れないで。それが一番大事なのよ。そういう気持ちを込めて絵を描きなさい。もっともっと、良くなるはずだわ。絵だけでなく、全てがね」
やめてくれ。僕は、まだ何も分かってないのだ。これからもどうなるか分からないのだ。
でも……。
「ティミーさん、ありがとう」
思わず日本語で言っていた。
けげんな表情をしたティミーさんを見て、慌てて言い直した。
「サンキューって意味です」
ティミーさんはニッコリと微笑んで復唱した。
「アリガトウ」
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