第十七話 おさらば
朝六時に起きて、昼食の準備を済ませてから朝食をとり、巻きタバコを吸ってボーっとしてから、トムさんとの待ち合わせ場所に向かう――最後の一週間も、そんな毎日に変わりはなかった。
あの喧嘩の日以来、二人ともヨーロッパ四人組とは目も合わせていない。コリーナさんにも強く注意され、彼らは以前と比べるとだいぶおとなしくなっていた。それでも、相変わらず夜の飲み会だけは続いているが……。
とはいっても、もう少しでここともおさらばなのだ!
リックとディーンは、僕たちの契約が終わる二日前に仕事を終えていた。結局、生意気でやせっぽっちのディーンとは一言も会話を交わさなかった。もっとも、僕にとってはどうでもいいことだったが。リックの方は去り際に握手を求めてきてくれた。若者らしい無邪気で純粋な笑顔が印象的だった。
ピッキングマシーンのクレーンを最上部まで上げ、そこからの景色をこの眼に収める。田園地帯から山裾、山際へと緑が連なり、なんとも堂々とした青い空が、美しい景色のフタになっていた。
――母さん、俺、ここに来てよかったよ。
四時四十五分――仕事は終わった。
僕とサンはハイタッチを交わし、肩を組んで歩きだす。
いつもよりも、地面が柔らかく感じた。
「おつかれさん、クソガキども」
ポールさんが声をかけ、抱擁してきた。
「ポールさん、本当にありがとう!」
彼はニカッと笑った。「達者でいるんだぜよ」
今度は、ジェイソンがつかつかと歩み寄ってきた。
「おい、ゴスケ。おまえさん、貧乏なわりに、何だか上等そうなネックレスをつけてんな。よく見せてみろよ」
「すごくやだな」
「おまえさん、異国でうまくやってくコツはちょっとでも媚を売ることだって、知らねえみたいだな。かのキャプテン・クックだって、最初はアボリジニに、にこにこしてたらしいぜ」
「アホのくせに、やっと覚えた知識をふりかざすことも、異国で上手くやっていくコツなのか?」
ジェイソンは顔を真っ赤にすると、中指を立ててきた。
「おいおい、よせよジェイソン。最後まで揉めるこたあ、ねえだろ」
ポールさんが間に入ると、ジェイソンは舌打ちしてから、バギーに乗りこみ、ゴーという音とともに視界から消えていった。
「奴はああ見えて繊細な野郎ぜよ。基本的にアジア人が嫌いみたいだが……。それにしても、ゴスケは英語が上手くなったなあ。思わず、笑っちまった」
「悪口を言っているうちに、ちょっとは学んだんですよ。ただ、彼がホンダのバギーに跨ってるのはおかしいね」
ポールさんは笑った。「バギー自体は日本人じゃねえからな」
僕もサンも、今となってはジェイソンのことなんか、もうどうでもよかった。むしろ、ジェイソンのような人間に会えたことは、色んな意味で貴重な経験だったと思う。
トムさんが、「よし、行くぞ。帰りの時間だ」と声をかけてきた。
他のスタッフが、「じゃあな、しっかりやれよ」とか、「頑張れよ」などと、声をかけてきてくれた。
「ゴスケ、サン、サメのフンになったりすんなよ。じゃあな、よい旅を」
ポールさんは僕たちに十字をきってくれた。これが、彼の最後の言葉だった。
僕たちはトムさんの車に乗りこんだ。
何だか、寂しい。
遠く離れゆく、いつもの農場の景色をずっと見つめていた。車のBGMからは、マルーン5の〈She will be loved〉が流れている。
この日、トムさんはいつもより多弁だった。
「おまえらを雇って本当によかったよ。本当によく働いてくれたからな。もしよかったら、おまえらの友達をここに呼んでくれ、また忙しくなるからさ」
トムさんの労いに、二人とも顔を見合わせて喜んだ。最初はジェイソンのイジメもあって、いつクビになるかビクビクしていただけに、トムさんの言葉は何よりのボーナスだった。
「いつか、おまえらの本当の家に帰る日まで、しっかりと旅を楽しむんだぞ」
アコモデーションに着くと、三人は固い握手をした。
「幸運を!」
トムさんは元の道を引き返していった。
「終わったんだな」
「ああ」
部屋に入り、僕たちは着替え始めた。「このくせえシャツとズボンともグッバイだぜ」
僕はわざと、ハキハキしてそう言った。
全ての帰り支度が終わり、いざ夜が来ると、二人ともなかなか寝付けず、修学旅行の夜のようにお互いのことを話すのに夢中になっていた。
「ゴスケはさ、サッカーはなんかしらの形で続けるべきだよ」
「そうだな……結局、俺はサッカーボールがないと落ちつかないんだ。サンはエンジニアになりたいんだろ? どんなエンジニアになりたいんだ?」
「うん、そのうちフリーで働きたいよ。それで、世界中をまわりながら仕事をするんだ」
「俺も世界中の絵を描いてみたいな。サッカーでも教えながらさ」
「まだ、道具も持ってないくせに」
「俺ぁ、気が早いんだよ。日本人だからね」
「でもさ、ゴスケなら絶対なれるよ、いい画家にさ。そんな気がするんだ」
「ありがとう……なあ、いつかお互い、なりたいもんになって、また世界に出たらさ、どこかで会えるよな?」
「もちろんだよ。そんで、また肩を並べて立ち小便をしよう。約束だ」
「ああ、そん時は、ジッパーにはさまないようにな」
しばらくの沈黙が続き、サンが「おやすみ」とだけ言った。
僕は暗闇の中にある天井を見上げていた。
新しい朝がやってきた。
寝不足の目をこすり、アクビをしながら最後の朝食を作る。ジューっと、目玉焼きがこんがり焼けてゆく。それを口いっぱいに頬張ってから喉の奥に流し込むと、僕たちはキッチンを出て行った。
コリーナさんへの挨拶も済ませた。部屋にも自分たちの私物はもうない。
二度と戻ることはない、狭くて、人の声が筒抜けのうすっぺらい壁で覆われた、ろくでもない部屋を出る。
心臓の裏側が重くなったような気分を覚えた。
意外にも、例の四人組を抜かした幾人かのヨーロッパ人は僕たちに別れの祝福をくれた。
今、いつも通ってきた道を歩いている。ただし、今日はポールさんとの待ち合わせが目的じゃない。ほんのすぐ近くのバス停が目的地なのだ!
「いよいよ、幻の八十五番バスだな」
「うん。なんかさ、結構あっという間だったな」
バス停まであと一キロ弱くらいという所で、後ろからボロボロのヒュンダイの車がやってきて、横で停まった。窓から顔をだしてきたのは何と、あのドイツ人二人組の男達だった。「乗れよ。バス停までだろ?」
眉を寄せて、サンと顔を合わせた。普段なら、信用できる奴らではない。しかし、彼らの表情はいつになくまともで、そこには誠意が滲み出ているように感じた。
結局、トランクに荷物をつっこむと、僕とサンは後部座席に滑り込んだ。
「ありがとう」
「気にするなよ」
「これからパースに戻るんだろ?」
「うん。俺はまずエクスマスに六日くらい行って、それからパースに戻ってくるつもりなんだ」
「エクスマスかあ。ジンベエザメのいるとこだろ? いいじゃんか、海がきれいなんだろうなあ」
つかの間のドライブの後、バス停に着くと、彼らドイツコンビは、トランクから僕たちの荷物をおろしてくれた。
「いろいろ迷惑かけたな。すまなかった……けどさ、お互い、いい思い出作れたろ?」
僕とサンは、顔を見合わせ、声を上げて笑った。
「もう、どうでもいいことだしね。ところでさ、誰が俺のパンツを燃やしたんだい? もう時効だよ。教えてくれてもいいだろ?」
僕の質問に二人は顔を見合わせた。フーっ、と息をついてから、短髪の方の男がおどけて言った。
「ジェイソンだよ」
「ああ、やっぱり」と納得して、二人で苦笑いした。
「あのだるま髭に伝えといてくれないか? パンツは濡らすためにあるんだって」
朝もやが薄く立ち込める森に笑い声が響いた。それは、四人にとって全く意外な瞬間だった。
「いいジョークだったよ。街に着いたら、まずはパンツを買うんだぞ」
「今なら百枚でも買えるよ」
そして、四人は互いに握手をした。
「元気でな」
彼らが去っていった後、タイミングよくあのバスがやってきた。
「来たぜ」
夢にまでみた幻の八十五番バスが、ブルブルと煙をたててやってくる。予定より十分遅れのご到着だった。
「いつも通りだな」
「少し早いんじゃ?」
バスは僕らの前に停まり、プシューっと音をたててドアを開いた。その一段目に足を踏み入れた。
ようやく、バスが動きだす。
二人が週末に歩き続けてきた道を、二人だけを乗せたバスが悠々となぞっていく。
僕は窓の外を眺めながら、呟くように言った。
「ゆっくり走ってんのにな。やっぱ、車って早いよな」
「文明の利器だな。時々、俺たちはそれに反抗してたけど」
サンはくすっと笑った。
バスはカラマンダの小さなロータリーで十分ほど停まり、フロントの表示をパース行きに変えた。手をつないでいる白髪の老夫婦を乗せると、再び走り出した。峠をゆっくりと下っていくと、窓の外にはのどかな田園風景が、色鉛筆で描かれたような優しいタッチで広がっている。
そうした風景を見ていると、たまらない気持ちになった。
「なあ、本当に終わったんだよな?」
「ああ、マジだよ」
サンも僕と同じ気持ちなのだ。「俺さ、なんだかすごく淋しいんだ。泣きそうかも」
「俺もだよ、サン。不思議だよな? あんなに出たがってたはずなのに」
睡眠を妨げ、横暴にわめきちらし、共同の場を凄惨なゴミ捨て場に変えた連中との確執。その劣悪な環境の中で、広い大地を駆け回って仕事に打ち込んだ日々。そして、二人で何百キロと歩いてきた道――。
その全てが過ぎ去り、新しい明日がやってくる。でも……
僕らは、何かを達成した充実感よりも、何かを通り過ぎてしまった喪失感に支配されてしまっていた。
車窓の景色にはレンガ造りの家が目立ちはじめ、段々とその棟数を増やしていく。久しぶりに目にする都会の景色に目が慣れてくると、いつの間にか、バスはパースの中心地を走っていた。
「戻ってきたな、やっと」
「久しぶりに、いいメシが食えるぜ」
適当なところでバスから降り、ウェリントンストリート沿いの公園のベンチに腰かけると、僕らはタバコに火を点けた。そして、農場での日々を、ジョークも織り交ぜながら、語り合った。
喉が痛くなるまでタバコを吸うと、時計の針がいくらか進んでいた。
「そろそろ、行くか」
サンは荷物に手をのばした。「よし、行こう」
ようやく、僕らは別々になって歩きはじめた。また会えることは分かっている。けれども、再び道を同じにすることはもうないだろう。
僕は、喉に込み上げてくる痛みのようなものを押し込みながら、前へ前へと歩を進めていった。
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