第十六話 夕闇の光
「あとちょっとだな」
「ああ、もうひと踏ん張りだ」
澄みやかな空の下の農場で、僕らは未来の話をする。
ピッキングマシーンの操作もすっかり板につき、リンゴの実をもぎる早さも格段に速く正確になっていた。
今では、ブラジル人二人、シンガポール人、アルゼンチン人二人、インド人と、カジャーナのメンバーも除々に増えてきているが、その中でも僕とサンとの東アジアコンビは常に息が合っていて、今では抜群の働き手となっている……はずだ。
「うい! 昼食ぜよ」バギーにまたがったポールさんが大声を出した。
僕とサンは、ポールさんのバギーの後部の荷台に乗り、バギーは畑の間道を颯爽と駆け抜けてゆく。
大地の恵みがあるこの地で、おいしい空気と風を体で直に感じるこの瞬間が、ポールさんは好きだと言った。僕も、今ではその気持ちがよく分かる。
昼食の時間になると、埃と油の染みついたガレージに男達が集まってくる。大抵、トムさんとポールさんとジェイソンが他愛のない話をして笑っていて、他の連中はボーっとしているのが常だった。けれど、この日は珍しくトムさんが僕に話題をふってきた。
「ヘイ、ゴスケ。ここの仕事が終わったらおまえ、次はどうするつもりなんだ?」
トムさんの突然の質問にちょっとびっくりしたが、少し考えてから答えた。
「パースに戻って、ひとまずサーフィンでもはじめるつもりです。それから旅に出ようと思ってます」
「どこへ?」
「まだ、よく考えてはないんですけど、どこか自然の綺麗な場所に行くつもりですよ」
「いい計画だ。しかしな、綺麗な姉ちゃんに金を使って、また戻ってきたりすんなよ」
トムさんが丸い頬を緩め、笑顔をつくってみせた。「サンは?」
「同じく、サーフィンをやってみるつもりです。少しのんびりしながらね」
「サメには食われるなよ」すかさずポールさんがちゃちをいれてきた。「ここでの稼ぎが墓石代になったらつまらんからな、ジョークにもなりゃしねえぜよ」
「いや、ジョークになってほしいな」
ジェイソンがにやにやとしながら言う。こいつは、ほんとに進歩のない野郎だ。
やがて、僕たちはそれぞれの仕事場へと向かっていった。
今日の日差しはいつにも増して強い。
照りつける陽光の下、カラマンダの一帯は、あいも変わらずゆっくりと空気が流れてゆく。小さな酒場では、白くて大きな食いしん坊の犬がオヤツを探し回り、おじいさんが古ぼけた椅子に座って居眠りしている。
「絶好のトレーニング日和だな」
ヘドが出るほど往復した道を、僕らはいつもよりゆっくり歩いていた。歩行者がいるなんて想定していなかったであろう道路は坂の上り下りが激しく、容赦なく僕らの足に重りをかけてゆく。
「このクソッタレの道とも、もうじきおさらばだぜ、ちっくしょう!」
高揚した気持ちを抱えたまま森の脇道を通っていると、僕は妙なものを見つけた。
ネックレスだ。
「おい、サン。変なもの見つけちった」
そのネックレスは銀で出来ていて、チェーンの太さのわりには重く、ヘッドにはライオンの顔が刻まれてあった。だいぶ、土をかぶっているけれど、ちゃんと洗えば綺麗になりそうだ。
「かっこいいじゃんか。場所といい、何だか、宝島に足を踏み入れたような気分だね、ゴスケ」
「いる?」
「いいよ、俺は。ゴスケが見つけたんだから、とっときなよ。どうせ、こんなとこにあったんじゃ、誰が持ち主か分かんないだろうし」
確かに、サンの言うとおり、持ち主が誰かなんて分からないだろうし、宝を見つけた嬉しさが大きかったので、僕はそのネックレスをポッケに突っ込んだ。
やがて、小さな駄菓子屋が見えてきた。ここは僕たちにとって山小屋のような存在で、この店でミートパイをほおばるのが、道中のカンフル剤になっていた。ここで最後の小休憩をとった後、僕たちはゆっくり立ち上がり、町を目指して歩いていった。
町に辿り着くと、一週間の疲れが吹っ飛んでしまうのが、いまだに不思議だ。
そして、ジャムやパン、野菜、ツナ缶やらが詰まったビニール袋を抱えて家路を辿ってゆく。
この日ばかりは二人とも、自分たちの生命線だったスーパーを幾度かふりかえった。
空は金色に染まってきている。二台、車が停まって僕たちを乗せてくれようとしたが、丁重に断った。今日は最後まで歩くのだ。
「ほんとうに、もう最後なんだな」
「ここを歩いてるといつも思うんだ。確かに体は疲れるけど、精神的に疲れることって、なかった気がするんだ。景色がきれいだからかな」
「ゴスケはロマンチストだよな」
「オーストラリアに来ちまった奴なんて、みんなロマンチストだよ、きっと。それにしてもさ、こういう景色って、いつまでも自分の心にとどめておきたいもんだよな。特にこう、夕焼け時はさ」
「うん。たしかにそうだね」
僕らは顔を上げた。見事な夕陽が空に浮かんでいる。
「こういう景色、友達や家族にも見せてあげたいよ」
もちろん、ミナにも――
本当に、このままでいいんだろうか。想っているだけで……僕は、また逃げているだけなんじゃないだろうか。少し顔を曇らせていると、サンが陽気に言った。
「ゴスケ、カメラは?」
「部屋に忘れてきちまった」
「はは、ゴスケらしいな。じゃあさ、絵でも描いてみたら?」
「時間かかるよ。うーん……面白そうだけどさ」
人智の及びつかないその黄金色の球体はもう、地平線のはるか向こうにその大きな体を沈めようとしていた。
夕陽――。
なぜか、その姿がサッカーボールと重なった。
その瞬間、何か決定的で、ひどく鋭利な稲妻がピシャーン! と、自分の頭のてっぺんから腰の辺りまで突き抜けるような感覚に陥った。
僕はこんなことを言っていた。
「そうだ――俺、絵を描いてみよう……!」
サンは黙って僕を見ている。。
「描くんだ。この眼に焼き付けたものを」
「ゴスケは普段、絵を描いたりするのか?」
「いや、しない」
サンが噴き出す。「ゴスケらしいな!」
「俺、パースに戻ったら絵の道具を買うよ」
「サーフィンは?」
「もちろん、それもやるよ」
「ゴスケ」
「ん?」
「ここでの一枚目を描き終わったらさ、まず俺に見せてくれよな」
「ああ。約束するよ」
辺りでは、夕闇が山を包みはじめ、虫の音が鳴りはじめていた。
「もう、ほんとにすぐだな……幻の八十五番バスに乗れる日が来るのも」
小さくうなずくサン。
夕闇に交じる二つの影はゆっくりと、ゆっくりと、前へ前へと移ってゆき、地面にその足跡を残していった。
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