第十五話 よい酒と悪い酒
「マジかよ? 俺もおまえらのとこに泊まろうかな?」
昨夜のスクープをタトゥーが自慢の作業員ポールさんに伝えると、彼は大声で笑った。最近は仕事が終わると、ポールさんが車で送ってくれるようになっていた。
最初はただのいかついイレズミ野郎で、無愛想な奴だと思っていたが、一緒に仕事をする内に気心が知れてきていた。彼の口調は独特で発音が曖昧なので、聞き取りにずいぶんと苦労はするが。
「ポールさん、あいつら何とかなんないのかなあ」
サンはこぼすように言った。
「ぶん殴っちまえよ。俺が許す。コリーナも困ってるみたいだぜよ」
「えっ、そうなの?」
そういえば、最近はコリーナさんにあまり会っていない。
「状況を良くするにゃあ、てめえでなんとかするしかねえべさ」
「でもさ、何か問題がでかくなっちまったら、オーストラリアを追い出されるかも」
ポールさんはハンドルを華麗にさばきながら言った。「なあ、おまえらはここで何がしたいんだぜよ? 何でここに来たんだ?」
僕とサンは顔を見合わせた。
「色んなとこ、まわってみたいから、かな。」
僕もサンにつづいた。母国語じゃないからか、不思議とすんなり自分の気持ちを言えた。
「俺は見つけたいんです、自分の好きな何かを。ここで色んなことしながらね」
ポールさんは笑った。
「どこの国でも若いってなあ、いいな! そうじゃなきゃいけねえぜよ。いいか、全ての人間はチャンスってやつを持ってるんだぜ、知ってたか? 特に、若いうちはチャンスの数が多いんだべさ。今、この状況をどうすんのか――おまえらはどうするんだろうな」
「さあ……俺たち、先のことはよくわからないんですよ。目の前のことで手一杯で。でも、あのバス停に腰を下ろすまで、途中で逃げることは絶対にないです」
真面目なサンが力強く言った。ここの生活だけではなく、あやふやな未来に向かって放った言葉なのだろう。
相変わらず、住み家の連中は最悪だが、農場での仕事は順調にいっていた。トムさんは僕たちのことを信頼してくれているし、ポールさんは僕たちをからかって楽しむのを日課にしている。僕と一緒にペアを組んで仕事をしていても一言も話さなかったノッポのリックとも、最近はよく話すようになっていた。
ジェイソンが僕に怒鳴ってきた後、リックは、「気にするなよゴスケ。ジェイソンはアジア人、特に日本人が嫌いらしい。金持ちのくせに俺たちの仕事を取りやがるとか言ってね。ゴスケは金がないからここで働いてんのにね」と言って、まだ若くて白い歯をにかっと見せてきた。
「一言多いな」思わず僕は苦笑した。
「もう、あいつなんてどうでもいいよ。色んな人間が地球上にはいるってことだ」
「ゴスケもその一人だね」
農場の空気は今日も澄み渡っている。
もうじき大人になる実を抱えたたくさんの木が、お日様の光をたっぷり浴びて、気持ちよさそうに佇んでいる。上空では黒い影が一羽、空の支配者となるべく堂々と飛びまわっていた。
『鷹だ!』
僕とリックは声を揃えた。
(あの鷹は、今晩なにを食うんだろ)
そんなことを、思っていた。
僕とサンは、この地域一帯で、近頃ちょっとした有名人になっていた。
「変な若いアジア人二人が週末になると道路を歩いてるんだ、知ってるかい?」
「ああ、俺見たことあるよ! クレイジーだぜ、あいつら! 普通あんなとこ歩くか?」
ポールさんによると、こうした会話が、バーなんかでされているようなのだ。
今日の買い物帰りには、陽気なインド人が僕たちを拾ってくれた。
「またおまえらか! この道路にはよく財布でも落ちてんのかい?」
「今日も魔法の絨毯が使えるね」と言って、サンはくすっと笑った。
二人でインドの魔法の絨毯でひとっ飛びすると、土曜の夜の夕食時間を心待ちに、部屋へと急ぎ足で向かった。ところが、部屋の前の鉄格子に干してあったはずのものが二人の目を丸くさせた。
なんと、僕のパンツが(五着しかない)見るも無惨、黒こげになっているのだ!
「な、なんだこれ? なんで俺のパンツが燃えてんだ?」
「ひどいな……」
「俺はパンツ五着しかないんだぞ! あと四着になっちまった!」
「多分、やったのは……」
が、サンはそれ以上言わなかった。僕と目が合ったからだ。二人が思い浮かべる犯人は共通でいて、しかしあやふやなものだった。
僕たちは一度部屋に戻り、ベッドに腰かけると静かに向き合った。
「このままじゃ、ノーパンになるかも。もっこりしないかなあ。まあ、そんなに大きくないけど」
「ジッパーの上げ下げに気をつけないとね」と言って、サンはうなずいた。
そんな会話をしてみても、やはり怒りと空しさは消えたりしない。
今――自分らがここにいる間に、必死で張ってきた防衛線がパンツとともに切られたことを、僕らは知った。
ジェイソン、ヨーロッパ四人組と僕たちアジア人コンビとの関係はますます険悪になっていた。最近ではロクに挨拶もしないし、相も変わらず連中は好き放題にキッチンを散らかしている(コリーナさんもさすがに何度も注意しているようだが)。
パンツが燃やされた次の日、いつものように連中は夜中に騒いでいた。
部屋でいらいらしていると、「ファッキンジャパニーズとファッキンベトナミーゼ!」と叫んでいるのが薄い壁越しから聞こえてきた。特に、ジェイソンの声が大きい。
「まったくもって、忌々しい連中だな」
覚悟を決めたようにお互いうなずいた。そして、外に出て、キッチンの扉を開けた。
「おい……!」
「ん?」
ジェイソンは僕の声にふりかえると、さすがにギョッとしたようだった。
彼にとって敵である僕は、焦げて本来の機能を失った黒い布を見せつけていた。
「なんだそれは?」
「俺のパンツだ。誰が燃やしたか分かるか?」
ジェイソンは、にやっと笑った。なんて憎たらしい野郎だ。
「さあな。なんでそんな無様なもんになっちまったんだ、おまえの恋人は」
「あんたがやったんだろ」
サンが鋭く詰め寄った。ジェイソンは、まだ笑っている。地獄に堕ちろ。
「おいおい、勘弁してくれよ! なんで、オイラがそんな下らねえことしなきゃ、ならねえんだ? オイラが男物のパンツに萌えるとでも思ってんのか?」
「他にどいつがやるんだ? あんた、外で騒いでる時にファッキンジャパニーズって言ってたろ?」
「日本人ってのは、被害妄想癖があんのか? パンツがねえんなら、絆創膏でも貸してやるから、おまえの愛しいシンボルに貼っとけよ」
ジェイソンはそう言い捨てて、外に出ようとした。すると、その時ちょうど四人組の内のドイツ男二人がキッチンに入ってきた。彼らも酒をしこたま飲んでいる様子だ。
「どうしたんだ?」
「こいつらが、オイラに言いがかりつけてきてよ。火の不始末は自分でしろってんだ」
ジェイソンは漁夫の利を得たが如く、いきりだした。これで三対二だ。
ドイツ人コンビは燃えたパンツを見て笑いだしている。まあ、そりゃそうだろう。
「ほっほお、海苔作りに失敗したみたいじゃんか!」
僕は拳を握りしめた。震えているのが、自分でもわかった。
「くそどもが!」
叫んだ。
当然、ジェイソンとドイツ人の二人はその言葉にすぐに反応した。
「なんて言ったんだ、今」
場の空気は一気に緊張しだした。しかもフランス女とスペイン男まで騒ぎを聞きつけてやってきた。人のことは言えないかもしれないが、このスペイン男は言葉も態度も下品だ。
「調子こいてんじゃあねえよ!」
「もう、ケンカはやめてよ」
ここで彼ら全員が揃うと、たちまち罵声のトーンが上がりだした。彼らにしても、僕たちのことはよく思ってないのだ。
もう、僕とサンの心には火がついてしまっていた。
「クソッタレのちんぽ野郎!」
ついに、開戦の合図を口にしてしまった。
フランス女だけは後ろへ下がり、騒ぎを聞きつけた他の連中が野次馬になって、「やっちまえ!」とか「頑張れよウィック!」とか言ってきた。
(ウィックって誰だ?)
そういえば、ここの連中の名前を誰一人知らないことに、今さら僕は気づく。
と、短髪のドイツ男がいきなりイスを投げつけてきた! 僕は(あっ!)と両手を交差させて体を丸めた。が、そんな防御をする必要はなかった。サンの長い足がそのイスを空中で捉えて、ズバッと蹴りこんだのだ。そして、サンは身をひるがえすやいなや、そのドイツ男に強烈な蹴りを入れた。途端に男は床にひざまづいてしまった。軍隊あがりの蹴りは、酒でたるんだ腹にはきつすぎる代物だった。
「このしょんべんたれどもが!」
今度は、もう一人の長髪のドイツ男がサンに飛びかかってきた。さらに、スペイン男まで。僕はサンに加勢しようと勢いづく。が、何かが首から肩にかけてガン! と衝突し、稲妻のような痛みの衝撃がほとばしった。肩を押さえ、クッと顔を上げると、ジェイソンがフライパンを持って立ちふさがっていた。
(ほんと、忌々しい顔をしてやがる)
もう、理性を失っていた。「うおおおお!」と叫ぶと、何百回も固いボールを弾いてきた頭をジェイソンの腹に打ちつけてそのまま突進した。
壁に背中を打ちつけられたジェイソンから、呻き声が聞こえた。けど、すぐにジェイソンはその体勢のまま上から拳をうちつけてきた。なかなかやりやがる。
「このくそったれジャパニーズめ」
それから一気に、もみくちゃ状態になった。
ジェイソンの口を引っ張っている時、大量の水が僕たちの上からのしかかってきた。
「もう止めろ!」
そこにはなんと、大きなバケツを手にしたポールさんが立っていた。
「ポールさん、なんでここに?」
ドイツ男の髪を掴みながら、サンも目を白黒させている。
「コリーナのとこにメシ食いにきたんだぜよ、今月ピンチでな。そしたら、帰りがけにこのざまだ」
「てめえバカか? 邪魔すんじゃねえよ!」
長髪のドイツ男は顔を真っ赤にして、びしょびしょになった自分の服をつかんでみせた。
「頭はすっきりしたろ?」ポールさんは余裕だ。
「ざけんな! ケツを蹴っ飛ばしてやる!」
ポールさんはドン! と大きな音をたて、その長髪のドイツ男の元に寄ると、正面から彼の眼を見据えた。途端にその場の空気が固まった。それくらい、ポールさんには迫力があった。
「小僧、これ以上はおまえの血でびしょ濡れになることになるぜよ。いいのか?」
長髪のドイツ男は何も言えず、その場に固まった。彼とポールさんとでは役者が違いすぎた。
もう片方の短髪のドイツ男は、ポールさんに呑まれた相棒の気分を察し、彼の手をとって、「おい、もう行こうぜ。しらけちまった」と言って、彼を連れて退場していった。残りのスペイン男も、それにつられるように出て行った。ただし、スペイン男は去り際に唾を吐いていくのを忘れなかったが。
ジェイソンだけは、まだ残っている。こういう図太さもやっかいだ。
「ポール、おまえはオイラの味方だろ?」
ポールさんは笑った。「もしそうなら、おまえまで水びたしになっちゃねえずら」
「ふん。おまえさん、気まぐれな男だからな。こいつら二人がただの被害妄想野郎だって知ったら、そんな気まぐれは起こさねえだろうよ。オイラ、悲しいんだぜ? まじめに働いて、面白おかしく生きようとしてるだけなのによう」
「まじめに働いてんのは、こいつらも一緒ぜよ。それに、こいつらがどうだか知らねえが、おまえこそ、クソみてえな被害妄想持ってるじゃねえか」
ジェイソンは、唾を吐くと、かっと目を見開いて、ポールさんを哀れっぽく笑った。
「オイラ、悲しくなっちまうよ。だって、そうだろ? 一緒に土まみれになって、畑にいる虫とも一緒に仲良くしてきたオイラ達が、下らねえジャップのパンツが原因で、仲違いしちまうとしたらさ。おまえさんの良心が戻ることを、聖ニコライに祈るよ」
そして、ジェイソンは僕たちを一瞥してから、やっと、この場を去っていった。
ざまあみろ。
サンは僕に向かって、自分の鼻をとんとんと人差し指でたたいてみせた。僕はハッとなって、自分の鼻を手でつまんだ。血がついている。
「暴れたからなあ。サンほどじゃないけど」
ポールさんがほほえみながら言った。「おまえら、すっきりしたか?」
僕とサンは顔を見合わせた。
「新品のパンツがあればね」
ポールさんは笑った。「フンドシじゃだめなのか?」
日本の伝統文化はこんなところにまで、浸透しているのか。
「じゃあな。俺はもう行くぜよ。あと二週間くらいでおまえら、仕事終わるんだろ? いい思い出作れてよかったな。それから、キッチンはちゃんと片付けとけよ」
ポールさんはそう言って、いつも通りに優しく笑うと、踵をかえした。
キッチンを見渡すと、さすがに凄まじいことになっている。ポールさんの言うとおり、片付けなきゃだめだろう。
「ありがとう、ポールさん」
刺青の男は、歩いたまま小さく手を振って応えた。闇にまぎれたその後ろ姿が妙に大きかった。
首をおさえながら僕はサンに言った。「なあサン、今日は飲めるだろ?」
「ああ…そうだな」
その後部屋に戻ると、サンは生まれて初めてビール一缶を飲み干した。
ひと暴れした後の酒は、舌にしみてくる。まあ、最初は怖かったけど。
「まったくよお、笑っちまうよな。元はといやあ、パンツが原因だぜ? くだらねえ!」
「ほんとだよな! まるでガキのイジメだよ。あいつらって意外と陰険だよな」
「もう二十四だぜ、俺。イジメにあうとは思わなかったよ」
山奥に住む僕ら運命共同体の気分はすっかり晴れやかになっていた。今夜は、ヨーロッパ四人組とアジアコンビとの立場が逆転していた。
僕たちは寝る間も惜しんで酒を楽しんだ。
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