第十三話 鈍く光るは夜空

 翌朝、僕とサンは眠い目をこすりながら〈ピックリング・ブロック〉の看板の前に立った。農場の仕事は朝早い。ここでトムさんが車で迎えに来てから、農場に向かうのだ。僕は何度もあくびをした。山中であるせいか気温は低く、二人ともパーカーをはおっている。


 トムさんは、例の大きなバンでやってきた。


「Good morning asians!」


 彼からすれば、さしもの〈アジア人コンビ〉というところか。

 

 車で十分ほど走り、Y字路を脇道にそれていくと、トムさんの農場〈カジャーナ〉と、その事務所が構えてある。事務所には果物を詰める倉庫が隣接していて、ホンダ製のフォークリフトが並んでいた。一旦、この事務所に立ち寄り、契約書の手続きを済ませた。その後、もっと奥の農場まで進むと、トムさんは大きな詰め所の前で車を停めた。


 休憩所の詰め所はフットサルができそうなくらいの大きさで、錆び付いたブリキと鉄を組み合わせてできている倉庫だった。埃のかぶったイスやらパイプやらがあちこちに散らばっていて、衛生状況はなかなか不快なものがある。


 そこには、四人の仲間がいた。


 一人はスキンヘッドで、眼光が鋭く、髭を生やしていて、肩から両腕にかけて蛇や稲妻模様のはいったタトゥーをいれている。彼はポールといった。

 その隣にいるやせた男がジェイソンで、長髪をもじゃもじゃに伸ばし、だるま髭と、毛深い腕が個性的だ。

 残りの二人はまだ若い。背が高く、赤毛で柔和な顔立ちのリック。そばかすが目立ち、いかにも負けん気の強い顔立ちの、ちびっこい方がディーン。

 ポールさんとジェイソンはここの正従業員で、リックとディーンは学校の休みを利用してアルバイトとして働いているようだ。


 彼らに挨拶しようと近づいていったが、彼らは僕をじろりと見ると、すぐに目を逸らして仕事の準備をしだした。あっけにとられている僕に、トムさんが声をかけてきた。


「おまえはジェイソンについていけ。しっかりやれよ」


 肩をすくめると、僕は小走りしてジェイソンの後についていった。


「あの、護助です。よろしく」


 ジェイソンはふりかえると、「ああ」と、かん高い声で興味なさそうに言った。愛想がないし、つぶれたピーナッツみたいな匂いのする男だ。


 オーストラリアに来てから、今まで味わったことのない空気が、僕の周りに流れはじめている気がした。


 一方、サンは別の持ち場で、ポールさんと一緒に〈ピッキングマシーン〉という農場用のクレーン車を使って仕事をしていた。離れて仕事をしているサンを見ていると、なんだか心細くなってくる。


 ともあれ、ジェイソン、リック、ディーンと一緒に僕はリンゴ畑へと向かった。リンゴ畑といっても、まだ小さい実にしか成っておらず、それがぶどうのように一房になって、ずらっと枝にぶらさがっている。その一房の中でかたまっている実を一つ一つ距離を空け、指三本程に並べるというのが、今の時期の主な仕事だった。この作業を〈フィニング〉という。もしこのフィニングをしなければ、密集した果実がお互いに潰しあってしまい、作物が成長しない。だから、農家の人にとっては、収穫率を左右する大事な作業なのだ。


 この作業について、ジェイソンが説明してくれたが、僕はほとんど理解できずにいた。ヒアリング能力不足はもちろん、この地域の住人は方言がひどいのだ。おまけに、サンが言うには、ジェイソンは元々アジア人が嫌いらしい。実際、初日から辛くあたってきた。


「おいてめえ、さっき言っただろうが! 指三本分の感覚を空けるんだよ! このグズが!」とか、「この野郎! もしオーナーがここにいたら、てめえなんざクビだ! 他の町でホンダの仕事でも見つけやがれ!」と、散々なものだった。

 おかげで、ジェイソンのことはさっそく嫌いになった。リックとディーンはそんなのは知らんぷりで、楽しそうにしゃべりながら仕事をしている。


 こういう孤独ってのは辛いものだ。カンナたちとはしゃいだことや学校で過ごした楽しい日々が懐かしくなってくる。


 仕事が終わってから帰るのは五時くらいで、その後は読書や散歩なんかをして過ごした。就寝するのは九時くらいで、まるで少年院にいるような規則正しい生活だ。


「明日は半ドンだ。いよいよ、買い物タイムだよゴスケ」


「やっと、アルコールにありつけるぜ、ちくしょう」


 土曜の仕事は午前中だけだ。仕事が終わると、シャワーを浴び、私服に着替えてから、僕たちはカラマンダの町までの長い距離を歩き始めた。


 西オーストラリアの地帯にはハエが多く、しかも日本のハエと違って人にたかってくるやっかいな連中だ。すでに二人の背中には四十匹ほどのハエがとまっていた。連中は、服に地図のような模様を作って一大勢力を築き、顔のまわりでブンブンと羽音を鳴らしながら飛びまわって、空中の暴走族と化している。このハエどもは、僕たちにとってこの世で一番憎い存在になっていた。けれど、捕まえようにも忌々しいハエどもは中国雑伎団でもできないような体技を繰り出して、いとも簡単に手の中をすり抜けていってしまう。


「ちくしょう!」


「こいつらさえいなきゃ、もっと楽に行けるんだけどね」


 いらだちと闘いつつ、サンは道路の脇にある森の小道に僕を連れて行った。


「ここは涼しいし、おもての道よりか、ハエの数も少ないんだよ」


 サンの言う通り森の中は涼しく、ハエの寄せも激しくなかった。


「ところでさ、あとどれくらいで着くの?」


「うーん、あと一時間くらいかな」


「あと半分もあんのか……買い物って偉大な行為だったんだな」


「歩いていく俺らは賢いと思えないけどね」


「でもさ、サンって軍隊入ってたんだろ? 行進は得意なんじゃ?」


「三年間ね。まあ、買い物にいく行進の方がいいってことは確かだな。でも、しんどいものはしんどいよ」


 途中、森の小道で立ち止まり、二人で用をたした。僕がチャックを上げようとしたその時、左側の茂みでガサガサ! と音がした。

 その物体は、ものすごい勢いであちら側へと跳ねていく。


「カンガルーだ!」


 二人で追いかけようとしたが、そいつはものすごい跳躍力で、あっという間にすっとんでいってしまった。僕は、野生のカンガルーを見たのは初めてだった。

 サンも驚いていた。「前も一回見たけど、こんな間近で会ったのは初めてだよ」


「ひょっとして昼寝でもしてたのかな? 俺たち、あいつにションベンひっかけちまったのかも。生態系が狂ったりしないよな?」


 サンは大声で笑うと、「だったら、このうっとうしいハエを水攻めにしたいよ。こいつらこそションベン野郎だからね」と言った。


「違いねえや」


 それから三十分ほど歩き、森の小道を抜けると、ようやく民家が見えはじめた。


「やっと家が見えたか……回覧板まわすの大変そうだな、この人達」


「同感。とにかくあと少しだよ」


 かくして、僕たちはようやく町らしい町に入り、スーパーという名の竜宮城にたどり着いたのだった。


 ひんやりと、火照った体を冷やしてくれる店内のエアコンが長旅の疲れを癒してくれた。僕たちは大きなビニール袋を三つ抱えるほどに、食料や日常用品を買った。


「帰りは、誰か車で拾ってくれるといいね」と言うサンに、僕は勢いよくうなずいた。


 しかし、そんな二人の願いも空しく、たまに通る車は素通りするか、イタズラのクラクションを鳴らすだけだった。僕たちは重い荷物を抱えたまま、ひぃひぃ言いながら我が家へと帰っていった。


 行軍ともいえる道のりから戻り、夕食のパスタを食べ終わった後、二人でオーストラリアのポテトチップス〈スミス〉をほおばりながら、8インチのテレビを観ることにした。すると、サッカー日本代表の試合が中継されていた。二人とも、特に僕は久しぶりのサッカー観戦に夢中になった。それと同時に、自分の胸に望郷の念が押し寄せてきていた。


 ――日本はどうなってるんだろう、みんな元気だろうか、俺がこんなとこにいるなんて想像もつかないだろうな。


「なあ、サンはベトナムが懐かしい?」


「うーん、そうだね。最近、そういう気持ちも湧いてきたかな」


 試合の中継が終わり、寝る準備にとりかかろうと席を立つと、携帯電話が鳴った。こんな山奥でも電波が通じるのか。ITに感謝だ。


「ハロー?」


「あっハ、はろお? あたしよ」


「母さん?」


「通じてよかったわ。今、農場にいるんでしょ? 仕事はどうなの?」


「……ああ、順調だよ」


 と言ったもの、本当はここに来てから絶えず不安な日々がつづいている。相変わらずジェイソンは辛くあたってくるし、僕の悪口をしょっちゅうトムさんに言っているのだ。


 ――もう、クビになるかもしれない。


 そのきわどい不安を振り払うように、とにかく黙々と集中して働いてきた。それでもジェイソンは何かとイチャモンをつけてくる。僕とサンは、

「あの野郎、もしクビになったらブン殴ってスワン川に捨ててやる」

「俺も手伝うよ。ただ、スワン川の生きものが可愛そうだね」

 と、よくこんな話しをしていた。

 けれど、そんなことを母親に言うわけにはいかない。


「何だか、こんな遠い別々の場所で会話してるなんて不思議だわ。あんたが日本にいた時はロクに電話なんかしてないもんね」


 僕は笑った。「そりゃあ、俺は実家暮らしだったしね。帰って話せばいいことだったもん。電話代、かかんないしね」


「友達、できたんだろ?」


「まあね」


「そこで頼りになるのは友達だけなんだから、大事にね。国籍なんかはどうでもいいから、友達を大事にするのよ」


「ああ」


「じゃあね。また電話するわ」


「うん」


 電話を切ると、外に出て顔を上げた。夜空には、呆れるほどの数の星達が光り輝いていた。

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