第十話 同じ炎

 亮さん、カンナ、由美とバーベキューをした後、四人でICNへと向かった。


 仕事を探してから、もう十日近くになる。シェアハウスとの契約はあと一週間ちょっとで切れる予定なので、僕はさらにしびれを切らしていた。


 スタッフに名前を呼ばれ、立ち上がると、生意気な性格の由美が一声かけてきた。


「護助君、頑張ってね。セクハラしちゃダメよ」


「おまえバカだろ? あとで、おまえにセクハラしてやるからな」


「楽しみにしてるね」


「あっ、うん」


 拍子抜けしたまま別室の席につくと、スタッフがにこやかに笑っていた。


「ゴスケ」


「はい」


「見つかったわよ。場所はパースヒルよ」


「えっ! 見つかったんですか? やったあ!」


 ようやく、空気を吸えた感じがした。


「喜んでもらえると嬉しいわ。パースヒルなら、比較的ここから近いとこにあるわ。でもね、農場の仕事はとてもハードなものよ。耐えられる?」


 何を言っている。もう、それしかないのだ。


「そこにワニかミミズでもいないかぎり、大丈夫ですよ。やります!」


 スタッフは太い顎を揺らしている。「じゃあこれで決まりね、負けちゃだめよ。あと、ミミズは絶対にいると思うわ」


「あっ、そうですね」


「そうそう、もう一人大丈夫だから、リオナちゃんにも伝えといてね」


 帰ってから、リオナにこの知らせを伝えると、彼女はおおいに喜んだ。


「きっとエキサイティングな経験になるわ。頑張りましょうねゴスケ!」


 いよいよ十月から始まる新生活に、僕の胸はさまざまな思いで一杯になっていた。




 セバスは生意気にもポリスのサングラスをかけて、大股歩きで待ち合わせ場所のフリーマントル駅にやってきた。


 セバスはあと少しで母国に帰る予定だ。だから、僕らは最後の行動を共にする場所として、〈ロットネスト島〉に行く約束をしていた。


 ロットネスト島は、フリーマントルの沖合から十九キロ離れた所にある、太古の原生林と紺碧の湖を持つ美しい小さな島で、パース近郊でも有名な観光地だ。


 しかし、あいにくこの日は天気が悪く、波も荒れていた。運行休止になりそうな流れだったが、僕らはなんとか、船に乗ることができた。もっとも、吐き気がするくらい激しい時化だったが。


「おいセバス、俺は生まれて初めて、海が嫌いになりそうだよ」


「俺はすでに嫌いだ……うぇ!」


 激しい荒波が、容赦なく船の底を持ち上げ、また落とす。二メートルから三メートルは体が持ち上がる感覚で、頑健な乗客でさえ、ほとんどはビニール袋にしがみつき、この状況を呪っていた。海という凶暴な生命は、容赦なくこの船をこの世で一番不愉快な乗り物にしていた。


 二人とも青白い顔になりながら、泣きそうになっている。それでも何とか、軽口だけはたたきあっていた。


「ゴスケ、俺を見ろ」


「……?」僕の顔色はもう、真っ青だ。


「まるで赤ちゃんさ。このでかい揺りかごに揺られてるだけの存在だもんな」


「でも、かろうじて泣いてないぜ俺たち」


「生後十七年以上だからな。成長したもんだ」


 短い間でも苦しさばかりがある船路だったが、ようやく愛しのロットネスト島の岸が見えはじめた。

 視界の真ん中にすっぽりと島の両端が入るほど小さい島だ。人々は悪夢から目覚めるような思いで歓喜した。


 島の地を踏んだと同時に、僕とセバスはおもいっきり、空気を吸った。磯の香りと、遠くから押し寄せてくる潮騒の音が、除々に気力を癒していく。

 相変わらず天気が悪く、空はどんよりと落ちこんでいたが、ヘドを吐きながら苦労して着いた分、巻きタバコをいつもの三倍はおいしく吸いつくすことができた。


 ロットネスト島をまわるのにはサイクリングが一般的だが、あいにくの天気なので、僕たちはバスの乗り放題チケットを買って、この島を冒険することにした。ゆったりとしたこの離れ小島をセバスとまわりながら、僕はふと、渋谷の風景を思い浮かべた。


(なんか、信じられないな)


 東京の大学に通っていた頃の風景は、もっとせわしかった。それが、卒業してから一年も経たない内にこんな所にいるのだ。不思議だった。


 ここは、ジュラシック・パークのような原生林がどこまでも続き単調ですらある。が、それが都会生活に慣れていた僕らにはかえって神秘的だった。


 自分の足で歩いてみたい、ということですぐに僕らは同意し、途中でバスを降りた。バスと自転車用に舗装された道の真ん中に立つと、開放感は絶頂に達した。周りには自分たちよりも年上すぎる自然しかないのだ。


『うおー! 俺は自由だあ!』


 僕とセバスは叫んだ。何に向かってというわけでもなく、己の心が唇を自然と動かした。


「映画のプロモーションみたいだな」


「ああ、ミュージシャンもよく使うよな、こういう風景」


「ゴスケ、あそこに灯台があるぜ。行ってみよう!」


 邪魔するものが何一つない静かな大気の中を、二人でジグザクに歩いてゆく。曲がりくねった坂道を登っていくと、その白い灯台があった。今となっては、その歴史的建造物は全く機能していなくて、入り口の扉は鎖で封鎖されていた。


「くそっ! 中に入れねえじゃんか!」


「今日は天気が悪いからかもな。まあ、戻るとしようや」


 そのせいで、かえって僕らの冒険心は増してしまった。


 公道を通らずにわざと原生林の中に入っていく僕ら。そうやって、しばらく冒険を楽しむことにした。原生林の中は、思ったよりも歩きにくく、大小さまざまな枝が縦横無尽に入り乱れ、やたらと固い葉っぱが容赦なく僕たちの足を払ってくる。


 あらゆる悪態の言葉を吐き、セバスはでかい体を縮めていた。


「おいセバス! こいつを見てみろよ。クォッカだぜ!」


 大きいリスのような姿をしているクォッカは有袋類で、ロットネスト島にしか住んでない貴重な動物だ。そのクォッカは鼻をひくひくさせながら、二人の侵入者を興味深そうに眺めていた。きっと、つぶらな瞳でこの状況を必死で分析しているのだろう。


「こっちに来なよ、カワイコちゃん」セバスが口笛を吹きながらクォッカの所へそっと歩いていったが、そのコは一目散に逃げ出してしまった。


「ふられたな。もっと優しくアプローチしなきゃ」


「人間の女よりも用心深いんだな、きっと」


 やがて、海が見えてきた。

 それは、天気が良ければ、もっと青かったはずの堂々とした海だった!

 僕らはさっそく全裸になって、浜辺へと走った。が、すぐに泳げるような天気でないことに気づいた。


「さすがに泳ぐのは不可能だな」


「そうだな……もし入ったら、もう一人の俺が2インチに縮んじまう」


 彼はため息をついている。


「ゴスケ、こっち来いよ。すげえサンゴがあるぜ」


「まじか」


セバスの元に行き、海をじっと眺めた。と、同時に彼は僕の背中をドン!と押してきた。僕はたちまち冷たい海の中に倒れ込み、悲鳴をあげた。心臓が止まってしまいそうなほどの刺激に「ふひゃあ! ひいえ!」と、意味不明の叫び声を上げてのたうちまわった。それを見て、セバスは馬鹿みたいに笑っている。


「このデカチン野郎!」


 日本語で叫ぶと、僕はセバスに飛びつき、彼を同じ目にあわせた。実際、セバスのもう一人の自分はバイエルンソーセージみたいにでかく、僕だけやられっぱなしじゃあ、心体共にわりに合わない。

 帰りのことも忘れて、僕らは冷たい海の中で格闘した。

 そのバカみたいなエクササイズにケリをつけると、タオルの中で身を震わせながら、僕らは浜辺に腰を下ろした。


 巻きタバコがうまい。


 次第に、空は赤みがかってきていた。その赤は空一面にびっしりとつまった千切れ雲を浸食し、芸術を描きはじめている。その画家であるお陽さまは、水平線の右端にちょこん、とハゲ頭をだしていた。


「シャイな奴だぜ」


 セバスは夕日を指して言った。僕は、まだタバコを吸っている。


「昼は大胆なのにな」


 浜辺には影がぽつん、と二つ。その影は圧倒的な自然の芸術の中の、ほんの小さな一点でしかないのだろう。


 赤い空を創り出す偉大な芸術家が姿を消した後も、僕たちはまだその浜辺に座っていた。

 ここで、僕は肝心なことを思い出した。


「もう、バスまわってこねえよな」


「しょうがねえな。もう、今夜はその辺で寝るか、焚き火をおこそうぜ」


 幸い、二人とも寝袋は持ってきていた。


 天気が悪いので夜空は見栄えのいいものではなかったが、開放感は十分だった。夜の静寂に沿って伴奏するさざ波、ざわざわと木の葉を揺らす風、余計なものから僕たちを守ってくれるかのように堂々と立っている森の姿……そして、夜をほんの少し明るくしてくれるパチパチと弾ける焚き火!


 チーズとパンにチョコレートをほおばりながら、僕らは漂流者の生活を満喫していた。


 他愛もない会話も次第に息をついてくると、また巻きタバコを吸った。吸いながらボーっとしていると、ふいにセバスが言った。


「ゴスケ、ありがとう」


「え、どうしたんだよ?」


 十代のイタズラ小僧が急に畏まっているのを見て、なんだかこそばゆくなった。


「膝、大丈夫?」


「ああ。いつでもサッカーできるぜ」


「そうか、よかった」


 セバスはタバコの煙を吐きだしてから言った。


「なあ、これからもサッカーやんだろ?」


 僕は他人事のように、あっさりと返した。


「ああ。草サッカーでもなんでも、きっと旅先で誰かと蹴るさ、ボールを」


 彼は、ほっとしたような顔になっていた。


「なあゴスケ、夜でも海は動いてんだな」


 彼にしては、珍しく感傷的になっている。


「ゴスケはこれから、オーストラリアの色んな海を見るつもりなんだろ?」


「ああ、もちろん」


 僕はうなずいた。


「まだ俺は二十四年しか生きていない。けどさ、海の前にいると、とても大事なものを感じるんだ。波ってなあ、長い時間をかけてやっと岸や浜辺に辿り着く。けれど、最後の締めは一瞬なんだ。時には穏やかに、時には激しく散っていく。それの繰り返しさ。どういう飛沫をあげられるか――自分が美しいと思える飛沫をあげてみてえもんさね。例え、それまでの波がいびつでもさ」


 この言葉を文章にしたら、もうメチャクチャな片言言葉になるだろう。


 でも、セバスは真剣に聞いてくれていた。

 彼は、僕と友達になれてよかったと言ってくれた。

 それは、僕だって同じだ。おまえがいたから、今、笑っていられるのだ。


 眠くなっても、焚き火の炎が消えてしまうまで、二人で同じ火をずっと見つめていた。

 また同じ炎を見られる日が来ることを信じながら。

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