第九話 正念場
あきらめないのだ
青い空が見守ってるから
歩みを止めないのだ
木陰で休みをとったとしても
つぎへの道は見えている
青い空が見守ってるから
わらっているのだ
パースは〈世界で一番住みやすい街〉と言われるだけあって、気候は一年を通じて安定しており、多くの旅人はついついこの街に長居してしまう。
しかし、この日は異常に暑く、僕とカンナにとっては、最後の授業の日だった。
二人ともお金の都合上、学校との契約をこれ以上延長することはできないけれど、短い期間の中でも友達を作ることができたし、英語でものを話すことにもある程度は慣れた。
忘れがたい時間を過ごせたことに、僕らの胸には感謝の気持ちが溢れていた。
クラスメイトが、学校のホールでお別れ会を開いてくれた。
「ゴスケ、カンナ、おめでとう」
アナは僕たちのためにシャンパンをコップに注ぎ、新しい門出を祝ってくれた。
アナ曰く、僕とカンナのようにクラスの中心となってふるまう、積極的な日本人生徒を受け持つのは珍しいことらしい。
パーティーもひと段落つくと、僕はアナの元に行って、「先生、ほんとにありがとう」と声をかけた。
アナはいつだって笑顔だ。
「これからどうするの?」
「そんな先のことは分からないね」
「ハンフリー・ボガードの真似してるのね」
「ばれたか」
「ジョークにしかならないわ」
苦笑してから、いちおう真面目に答えることにした。
「働こうと思ってます。以前からこっちで働きたいと思っていたし、それに……」
と、単語がなかなか出てこない僕に、彼女は教師として最後の助け船を出した。
「お金がない、でしょ?」
僕はニヤリとした。「そう、それ!」
「Money、なんて簡単な言葉を忘れちゃだめよ」
「すいません。けど、funnyは忘れてませんよ」
「Ok, good job! あなたには、そっちの方が大事だと思うわ」
彼女は、少しだけ寂しそうな顔をしてくれた。
「もう、教師は必要ないのかしら?」
「いやあ、学校にはもっといたいけど、moneyがなくて。funnyだけじゃ生きてけませんよ」
「珍しいわね。日本人はみんな、お金持っているのかと思ってたわ」
「とんでもない。ワーキングホリデーで来てる日本人なんて、ほとんどの奴は貧乏ですよ。みんな、自分の金で来てるから」
「でもそれはいいことだわ! やりたいことは自分で投資しないとね」
「なるほど」
「ねえ、あなた達日本人って、自慢することをしないわよね。すぐに、sorryって謝るし」
「先生、謝ってるわけじゃないですよ、みんな」
「どういうこと?」
「なんていうか」いつもポケットに入れてある辞書をめくって、ある言葉をアナに見せた。
その文字は〈modesty〉――謙虚、と書いてある。
「日本人が英語でsorryって言っちゃうのは、弱腰になってるからじゃなくて、えと、つまり、会話をする時に相手を思いやる、相手をたてる行為として、つい言っちまうんです。日本人はね、謙虚ってやつが身についている民族なんですよ」
まったく、下手くそな説明だ。でも、僕としては、たとえうまく英語がしゃべれないとしても、自分の国のことはしっかりと外国人に伝えたいと思っていた。
「うん、何となく分かったわ。礼儀正しい民族なのね」
「俺は違いますけどね」
「知ってるわ」
同時に、笑いあった。アナはいつもと同じように優しい眼差しを向けてくれた。
「ゴスケ、残りのオーストラリアでの生活、辛いことも含めて、楽しまなきゃダメよ」
「はい」
「前を見て歩くのは素晴らしいこと。けどね、たまには立ち止まって、周りを見てごらんなさい。思わぬ素晴らしい景色が広がっているものよ」
アナの言葉に、僕は大きくうなずいた。
ホールの隅では、カンナがチャンとテレサに肩を抱かれ、泣いている。国籍や肌の色は違えど、結局、人は人であり、みんな笑い、泣く。
そのことを、僕とカンナは、〈EUセンター〉で心に刻んだ。
しょせんみんな旅人だ。いずれは別れる日が必ずやってくる。
その循環する時の中で、どれほど自分という人間を掲げていけるのか――
ビールの銘柄にじっと目を向けると、僕は少しだけ笑った。
もう早起きする必要のない生活に寂しさを感じながらも、街に出た。
昨日のパーティーの余韻が頭痛となっていて、アルコールの残りが、僕の顔をしかめっ面にさせている。周りから見たら、かなり人相の悪い日本人に見えるだろう。
キングスロードを歩いていると、シェアメイトのリオナと秋子がカフェから出てくるところに出会った。狭いパース市内では、知人に会うのはそう珍しいことではない。
リオナから声をかけてきた。「ゴスケ! なにしてるの?」
「ああ、ちと、仕事を探しにきてさ。そろそろ働かないと」
今度は秋子が聞いてきた。「いいとこ、見つかった?」
「いや、まだだよ。学校の友達が〈ICN〉って場所に行けば仕事紹介してくれるっつうから、今から行こうと思ってんだけど、どこにあんのか分かんなくなったとこだ」
「ICN?」
リオナが大きな目をさらに開いた。「私知ってるわ。行ったことあるもの。私ももうすぐ働こうと思ってたところ。ねえ、これからそこに一緒に行きましょうよ! 秋子にも何かの参考になるかもしれないし」
「リオナが仲間に加わった。秋子が仲間に加わった。護助はレベルアップした」
そう言って、僕はおどけてみせた。
街の中心にあるICNには、日本語やドイツ語、韓国語等で『ようこそ』と書かれたボードが壁に貼られている。色とりどりのさまざまな国旗が天井から吊されていた。
受付の女性に招かれ、僕とリオナはさっそくスタッフと面会することになった。別室に入ると、しばらくしてからスタッフが入ってきた。
「オーケー。ゴスケ、リオナ、あなた達は農場で働きたいのね?」
二人ともうなずいた。
「そうねえ……今はまだそんなに仕事のある時期じゃないの。でも、大丈夫。探してみるから」
「どれくらいで分かりますか?」
「三日くらいは欲しいわね。その間に帰国しちゃダメよ」
もちろんさ、と言って僕らは席をたった。
「本当に三日くらいで平気かしら?」
ドイツ人のリオナは少し不安になっている。真面目な気質の彼女には、オーストラリア人の仕事ぶりが不安に感じるらしい。それは、僕も一緒だった。買い物をした時に釣り銭を間違われることが度々あったし、昼間からビールを飲んでいる連中をしょっちゅう見かける。
「ねえ、ゴスケ。どうせなら一緒の農場で働きましょうよ。その方があたしも心強いし」
リオナの呼びかけに、僕は「ああ、そうだな」と漠然としたまま相槌をうった。一緒の場所で働けるかどうかはICNの情報によって左右されるし、一人で未知の世界にリュックをほうりこんでみたい気持ちも強い。しかし、そばかすのあるぽっちゃり頬で無邪気に笑っているリオナを見ていると、自分の心の中にある不安をマッサージしてくれているようで、妙に頼もしくもあった。
(まあ、旅は道連れっていうし、それもいいかもな)
しかし、人生そううまくはいかないもので、三日以上経っても、ICNの答えは「もうちょっと待ってて」というものだった。リオナはともかく、あまり金銭的余裕のない僕は、一ヶ月以内に仕事に就くことが出来なければ、最悪、日本に帰らなければならない。街中を歩いて、情報のありそうな他の旅行代理店をあたってもみたが、どこもICNと同じような反応だった。
仕事探しから家に戻り、食事をした後、部屋に戻り日記に手をつけた。学校でアナと約束した通り、毎日英語で日記をつけているのだ。いつも通りにペンを動かしていると、ふと机に転がっているビー玉が目についた。ひとさし指でなんとなくそれを転がしはじめると、段々、筆を走らせることより、そのことに夢中になっていき、それと同時に灰色の展望が頭の中をゆっくりと支配しはじめた。
仕事がもし見つかんなかったら――そう考え出すと、不安でしかたなかった。まだ半年も経っていないうちに日本に帰るのはきまりが悪いし、かといって、この状況をどうにかうまい方向に持っていけるアイデアも経験もなかった。
ふと、携帯電話に目がとまった。日本ではお目にかかれない機種だ。
プルルルルル……
タイミングよく、それは鳴った。ディスプレイには名前がのっていない。(母さんからかな?)と思い、僕は「ハロー」と言って、相手を確かめてみた。
「あっもしもし、護助君?」
若い女の声だ。いつもの十倍の早さで、僕の頭は高速回転しだし、その声の主を検索しはじめた。すぐに思い当たった。
(まさか……!)しかしまさに、そのまさかだったのだ。
「あたしです、ミナです。へへへっ」
「おっおう、こんちは」
「久しぶり! 元気?」
「おっ、おう。ミナは?」
「元気よ。この間はお手紙ありがとう」
「ああ、ノリで出しちまった……写真も入ってたろ?」
「うん、きれいな所だね。あたしも行ってみたいよ」
僕は、必死に次の言葉を探している。
「ああ、そうだ、ミナも手紙くれたよな。読んだよ。ありがとう」
「届いたんだ! やっぱ届くもんなんだね。お互い遠いのに、なんだか不思議ね」
彼女らしい質問に、緊張がほどけていく。
「なあ、その、調子はどうなんだ?」
「うん、そうだね……順調だよ」
そう言う言葉とは裏腹な声色だった。おいおい、今度はこんな調子か。何でもいいから、言葉を発さなきゃ。
「元気なら、よかった。ミナなら、仕事だってうまくやれるよ」
違うだろ。一体、何を言ってるんだ。
「ありがとう」
「こちらこそ、わざわざ電話してくれてありがとう」
これも、違う。
「じゃあ、そろそろ切るね。また連絡してね」
「お、おう」
「おやすみなさい」
電話を切った後、うずくまる僕。
ミナ――
なぜ、電話をくれたんだ?
「会いたい」、「遊びにこいよ」、「好きだ」……伝えたいことはたくさんあったはずだ。
このマヌケめ。せっかく、あいつが電話くれたのに、どうしてびびってしまったんだろう……。
分かってる。これ以上、傷つくのが怖いんだ。どうしようもない男だ。
部屋の空気がいつもと違っていた。なに一つ僕に触れる要素はなく、真空だけがこの小さな世界に存在しているかのようだった。
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