第七話 中途半端に
半端だってこと
それに気づいたのは
何かが過ぎてからだった
いつも そうだった
アボリジニとの一件から数日経った土曜日。
この日は、チャンとお出かけをする約束をしていたので、駅で待ち合わせてから、彼女と日本のアニメの話をしながらキングスパークへと向かった。
キングスパークは、さまざまな種類の野花が咲くことでも有名で、色々な形をした木がそびえ立っていたり、ブーメランやツチノコのような変な形をした幹が並んでいて、遊歩道を歩いていても飽きることがなかった。
特に、ユーカリの並木道を歩いていると、歩調が自然とゆっくりになっていった。
ベンチに二人肩を並べて腰かけると、チャンはバッグから〈ティムタム〉を取り出した。〈ティムタム〉はオーストラリアで一番人気のあるチョコビスケットで、僕の好物だ。
「ティムタム持ってきたの。いるでしょ? あなた、これに夢中だもの」
「おお、グッジョブ!」
よしよし、久しぶりの糖分だ。遠慮する日本人の美徳は、このお菓子の前では、通用しない。
楽しいお菓子タイムが終わると、中天からさしかかる太陽の光を浴びながら、僕らは森林豊かな公園内を歩きはじめた。
たどたどしい英語でのやりとりが心地よい。
「――ゴスケ、あなたっておもしろいのね」
「そう? そんでさ、友久っつう、俺の友達が変わってる野郎でさ。酔うと全部脱いで走り出しちまうもんだから、俺たち、そいつを止めんのに必死でさ。そいつをつかまえる頃には俺ら、酔いが冷めちまってたなあ」
「その人に会ってみたいわ」
「変態がうつるぜ」
「じゃあ、やめとく」と言って笑うチャンをちゃかしながらキングスパークを下りると、そのままノースブリッジの入り口にある美術館へと向かった。
館内にはいくつも展示室があり、そのほとんどは作品の種類によってブースが区切られているので、鑑賞しやすいつくりになっていた。
閑静な空間の中で、僕らはゆっくりと、作品を観てまわっていた。
「ゴスケ、あたしも絵を描くのよ」
「そうなんだ。どんな絵を?」
「そうねえ、主に人物画よ。この人の絵なんて素敵」
チャンのお気に入りは、裸体の貴婦人がシルクの布を肩からたらして、揺りかごの中で居眠りをしている絵だった。
「なあ、ヌードとか描いたりすんのか?」
「……そうね、描いてみたいわね。ゴスケ、モデルになってみない?」
「下半身がキャンバスに収まるか不安だな」
「それは大変ね」
ちと下ネタを言いすぎか、と反省する。
次のフロアに入ると、そこには異風な絵が多く飾られていた。
男が羊に食べられていたり、男女裸で混合して沼地でもがいている絵など、不気味なものが多かった。題名を見ても、難しい単語が書かれていて僕らには分からないし、作者の意図をつかむのが難しい絵ばかりだ。
その中で、丸い地球の上を人々が手を弱々しく取り合って輪になり、みんなで上を向いている絵が、僕の目をひいた。
「ねえゴスケ、この絵ってどんな意味があると思う?」
チャンが、興味深そうに僕の顔を覗き込んできた。
うーん、と考える僕。
「そうだな……みんな、きっと何も見えてない。本当は手をつないでいるのにそれに気づいていないんだ、きっと」
「……なぜそう思うの?」
「手を握っているっていうのに、みんなの目があさっての方向に向いてるっつうかさ、上は向いてるけど、ふらついてるっていうか」
それ以上うまくは言えそうになかったが、頑張って口にしてみた。
「淋しい、なんか淋しい絵だと思う」
「あなたの感性って面白いものがあるわ。私は好きよ」
チャンはそう言うと、僕と同じような姿勢でこの絵を見つめはじめた。
この題名の分からない絵に、近くにある大切な存在に気づけないでいる人間の切なさを僕は感じていた。もっとも、これ以上うまく口にすることはできなかったが。
それからも、お互いが絵画や彫刻などに感じたことを発表しながら美術館をまわった。
お互いの感性をさらすのと英語でうまく説明できない状況とが混ざり合うこの時間――
未知の感覚をノックしたりされたりしているような時間だった。
腹が空くと、町中のレストランに行き、カンガルーの肉を食べた。カンガルーの肉なんて、と思ったが、こっちの人達が日本人の捕鯨を反対するのと同じようなもので、結局、その国にはその国の事情に合わせた食文化があるだけのことなのだ。
レストランを出ると、僕たちは町を歩いた。もう、夜になっている。
街灯は日本のものほど明るくはないが、それがかえって夜のパースの町並みを優しく照らし出していた。スワン川に面した芝生の道を歩きながら、僕らはパースの夜にゆっくりと時間を刻んでゆく――
自分たちの国を離れ、期限付きのビザで入国している以上、僕たちの生活には出会いと別れの循環がぎゅっと凝縮されている。
たとえ仲の良くなった友達であっても、そう長くは一緒にいられないのだ。
――この出会いには、どんな意味があるのだろう。
「ねえ、ゴスケ。あそこで海を見ようよ」
定期船が停まる桟橋までゆくと、僕らはそこで腰をおろした。
僕は足をぶらぶらさせながら、「夜の海もいいもんだな」と言った。
「そうね……」
チャンがそっと、肩に寄り添ってきた。
肩越しに、彼女の緊張が伝わる。
――あのままで、よかったのに。
おそらく、これからチャンを傷つけることになるかもしれない――そう思うと、自分の鈍さを呪いたくなった。
彼女に対する自分の今までの接し方にも、疑問が湧いてくる。
しばらくの無言の後、チャンは僕の肩に顔をあずけたまま、口を開いた。
「あたし、今幸せよ」
慌てる僕。
「な、なんで? 俺の肩は時々くさいんだぜ。きっと汗のにおいだな」
彼女はくすっと笑った。
「あなたと、こうしてるから」
ますます硬直する僕。
「海がきれいね」
彼女は僕を見つめている。息がかかるほど近い距離だ。
「ゴスケ、あたし――あなたのことが好き。はじめの頃から好きだった」
「まじか」
「まじよ。一緒にいたいの、あなたと。私の恋人になってほしいの」
目の前には海がある。
暗黒の海は全てを不気味に吸い込んでしまいそうで、自分の思考までも吸い込んでしまいそうだった。
「チャン、俺は――」
「なに? ゴスケ、なにか言って」
僕はじっと前を見ている。夜景よりも、チャンの視線が頬に注がれていることに気をとられていた。
僕は、自分の答えを知っている。問題は、チャンにどう伝えるかだった。
少しの間を置いて、チャンの方を向いた。彼女は祈るような目で僕を見つめている。
「チャン、君はきれいだ。でも、ごめん」
チャンの瞳の動きが止まった。
「俺は……日本に好きな人がいるんだ」
チャンの顔が紅潮してゆく。
「好きな人って? あなたの恋人だったの?」
「……いや、違うんだけどね。一回、ふられちまったしな」
「じゃあ、いいじゃない! もうそれは過去よ? あたしがあなたの側にいるわ」
「心に好きな人がいるのに、そう分かっているのに、半端な気持ちで君と付き合うことはできない」
「ゴスケ、あたしはあなたが好きなのよ。本当に、そう思ってる」
僕は、彼女を慰める言葉を必死で探していた。
だが、そんなものは存在しなかった。
だから、「ごめん」とだけ言った。
チャンは泣くまいとして、必死で涙をこらえている。
僕は屈辱と失望を与えてしまったのだ。
それでも、「そろそろ、行くか」と言わなければならなかった。
僕たちは、終電近いパース駅に向かって歩いていった。
心地よい風と、おだやかな夜の静寂が二人を包んでいる。
「ねえ、ゴスケ」
「ん?」
「手をつないで――今だけでいいから」
笑ってうなずくと、チャンは、「ほんとう?」と、少しはにかんだ笑顔を見せ、僕の大きな手に自分の手を重ねてきた。
彼女の愛らしい姿に胸をうたれる思いがした。
今夜最後の電車が来るまで、僕らは手をつないでいた。
やがて、雨がそっとしのついてきた。
――チャン、ありがとう。
心の底から、そう思っていた。
学校での生活も終盤にさしかかった頃、事件が起こった。
他クラスと合同で、バーベキューをすることになった時のことだ。場所は〈モンガー湖〉。パースの象徴であるブラックスワンをはじめ、ペリカンやカモメ、はたまた鶴まで、さまざまな野生の鳥が憩いの場所として、この湖で群れている。広大な湖の周りには鮮やかな緑地が広がっていた。
「しっかし、オーストラリアってのは、町が公園の中にあるって感じだよな」
「うんうん、最高だよここは」
僕とカンナはソーセージを焼きながら、幸せを感じていた。
「テレサ、焼きすぎじゃねえか、それ?」
「オオ! そうかしら?」そう言うと、テレサは陽気に「アハハ」と笑った。
テレサは、トーゴからやってきたクラスメイトの女性で、年は僕と同じく二十四歳だ。いつも明るく陽気で、クラスのムードメーカー的な存在だった。目がぱっちりと大きく開いていて、口元はいつも笑みを絶やさない。黒人特有のしなやかなバネが、彼女のスレンダーな体型に優雅さを与えていた。
「あたしの国じゃこんな感じよ」
「テレサだけじゃないのか。そうじゃないとしたら、すごく火の好きな国だね。消防士が流行りそうだ」
テレサはいつも通りに笑いだす。「ついでに犯罪者もね」
パンにあつあつのソーセージをはさんでから、それを頬張りビールで流し込む。その魔法の液体が喉を通っているとき、目が空中にいくと、空がとても青いことに気づく。みんなでその開放感に沸き立ち、芝生の上でサッカーやバスケ、フリスビーを楽しむ。それがEUセンターの学生のバーベキューだった。
この日は全員がサッカーをやった。女子も一緒になって、お腹にたまったものと格闘しながら、夢中でボールを追いかけた。セバスと遭遇したアボリジニーとの一件以来、膝の状態がおもわしくなかったが、小学生だった頃のように、僕もひたすら無心にボールを追いかけていた。
いよいよゲームも盛り上がってきた頃、テレサにボールが渡ると、彼女はボールの代わりに空中を蹴り上げて、そのまま芝生の上に転倒してしまった。この珍プレーには、みんなが大爆笑した。テレサも大きく口を開けて笑い、体についた草を払っていた。
そんな中、僕たちより二つ上のクラスのドイツ人二人は、テレサの姿を見て誰よりも大きく笑っていた。明らかに大げさな笑い方だった。
「おいおい、木に登ることはできても、丸いボールは蹴れねえのか?」
「紙のボールしか蹴ったことないんじゃねえのか?」
彼らは酔っていた。そのためか、どもったしゃべり方をしたので、彼らの罵声を聞き取ることができた生徒はほんの一部だった。僕も彼らの言っていることをうまく聞き取ることができなかったが、テレサが少ししかめっ面をしてから、またすぐに笑いだすのを見た。
彼女は、明らかに無理して笑っていた。
上級クラスの日本人に彼らの言った意味を教えてもらうと、途端に腹が立ってきた。
「やつらの小せえボールを蹴り飛ばしてやろうか」と、セバスまでが怒っている。
けど、他の連中になだめられ、僕たちはしぶしぶとプレーを続けた。
しかし、そのドイツ人二人はますますエスカレートしはじめ、テレサが不器用にボールを蹴るのを見るとまた大きく笑いだし、彼女に向かって、「ニガー!」と叫んだ。
『ニガー』は黒人を侮辱する時に使う忌々しい単語で、人種差別の象徴的な言葉といっていい。その場の空気が一気に凍りついた。
と、その瞬間、凄まじい勢いをもったボールが、テレサを罵倒した男の腹に突きささった。
男は呻き声を上げ、その場にうずくまった。
そのボールを蹴った男――つまり僕は、残りの一人に向かって中指を突き立てた。
「くそ野郎」
「おまえか!」
もう片方の男は、顔面を真っ赤にして猛牛のように突っ込んできた。と、同時に、セバスが僕の前に立った。
「このクソッタレジャップ! セバス、そこをどけ!」
セバスは大きい体で、僕を覆うように前に立っている。しかし、この男はセバスと僕の所にたどり着くことはできなかった。その前にみんなに取り押さえられたのだ。
みんなナイス、と感謝した。ほんとうは、怖かったのだ。ドイツ人はでかいし。
少しだけ騒ぎが収まると、テレサが僕の近くにやってきた。
「慣れねえこと、しちゃったよ」
本当に、慣れないことだ。
テレサは笑みを浮かべ、言葉には出さず、ゆっくりと口元を動かした。(サンキュー)と言っている。悪い気はしない。
それにしても、僕はなんで、あんなに熱くなってしまったんだろう。
けれど、テレサが傷ついている姿は、自分までもが痛かった。それだけは、はっきりとわかっている。
僕はこの学校が好きだ。だけど、ここでさえ人種差別が存在するのなら、世界は僕が思っていたよりも、汚れているのかもしれない。
そう考えると、少し心が曇った。
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