第六話 転機を進む

 すてきな場所なんて

 探したって ありゃしない

 どうするか どうなるのかなんて

 そこらへんに転がってるもんだろ




 転機の日ってやつは、いつか必ずやってくるものだ。


 ホームステイ先を出て、約束していたシェアハウスに住む日が、ついにやってきた。


「もっといてほしいが……でも、自分で決めたことだからな。また、遊びに来いよ」


「はい!」


「若いうちはよく遊んでおいたほうがいいぞ」


 カリステアスさんはそう言うと、僕を抱きしめてくれた。次はエヴァさんの番だ。


「料理できるの?」


「まあ、何とか。カップ麺よりかはましな味ですよ、たぶん」


「そう。でもあたしはカップ麺嫌いじゃないわよ。日本の人達はほんとにすごいものを発明したわ。旅行に便利だし、旦那と喧嘩した時はそれで彼に過ごしてもらうの、ふふ。ゴスケ、また私の料理を食べに来てね」


「もちろん! 僕とエヴァさんが喧嘩しないかぎりね」


 エヴァさんは満面の笑みを浮かべると、僕を抱きしめてくれた。イリニーはというと、さっきから僕の足にしがみついている。


「じゃあなイリニー。また遊びに来るから。しっかりと、おじいちゃんとおばあちゃんの言うことを聞くんだぞ」


 イリニーはうん、とうなずいた。


「絶対、また来てね!」


 少年の無邪気な目は、万人の力を動かすものだ。


「ああ、約束だ」


 僕はイリニーの小さい手をとって、指切りげんまんをはじめた。


「なにこれ?」


「日本のおまじないさ。約束を守るためのね。なかなかクールだろ?」


「ユビキリゲンマン!」


「そう。覚えておいてくれよな」


 みんなとのハグが終わり、僕は荷物を車のトランクに詰めはじめる。カリステアスさんが車で新居まで送ってくれることになっていた。


 車中、カリステアスさんとの会話は、いつにもまして弾んだ。まだまだ聞き取れないことばかりだけど、ここに来た時と比べると、我ながらよく進歩したもんだ。


 やがて、アッシュフィールドにあるシェアハウス先に到着した。


 車を降りると、カリステアスさんは、力強く握手をしてくれた。


「じゃあ、またなゴスケ。パンツだけはよく洗っとくんだぞ」


「はい。カリステアスさんもお元気で!」


 カリステアスさんの車が去っていくのを見送り、新しい住み家と向き合う。

 息を吐き、一気にチャイムを押した。


 ばたばたとした足音が聞こえると、中から優子さんが出てきて、気さくに迎えてくれた。


 中に入ると、ホテルのような内装に改めて感心してしまった。さっそく、優子さんは一階の部屋へと案内してくれた。


「ここが護助君の部屋よ」


 カーペットが部屋いっぱいに敷いてあり、ベッドと机に、クローゼットも備えてあって、一人で住むには十分な広さの部屋だ。


「いい部屋ですね」


「ありがとう。そうそう、夫を紹介するわね」


 スーツケースとバックパックを置いた後、リビングへと通された。ソファーには、小さな赤ん坊を抱えた男が座っていた。


「初めまして。夫の利夫です。よろしく」


 がっちりとしていて、目元の涼しい、いい男だった。三十四歳の男盛りで、年不相応の可愛らしさが魅力の優子さんとは、美男美女の夫婦といった具合である。

赤ちゃんの名前は美和ちゃんというらしい。赤ん坊らしい無邪気な表情で、僕を見つめてくる。


「護助君、今日は一緒にゴハン食べようよ。他の子達も呼んでさ」


「ああ、はい。よろしくお願いします」


 夕食の手伝いをしていると、二人の女の子がリビングに入ってきた。僕に気づくと、彼女達はにこやかに挨拶してきた。


「こんにちはゴスケ。今日のことは聞いていたわ。あたしはリオナ。よろしくね」


 リオナは赤毛を頭の上で玉ねぎのようにしばっていて、そばかすとぽっちゃりとした頬が印象的なドイツ娘だ。


「秋子です。よろしくお願いします」


 秋子は京都出身で、物腰の柔らかい上品な女性だった。


 リオナがいるので、みんな英語で会話をし、和気あいあいと夕食を楽しんだ。


 オーストラリアに来てからというもの、僕はまだ嫌な人間に会っていない。このことは、本当に幸運だと思う。


 さすがにオーストラリアに移住してきただけあって、利夫さんと優子さんの野口夫妻は英語が流暢だ。リオナもほぼ完璧な英語を操り、秋子の英語は、日本語くさい発音を除けば、上級者といえた。もちろん、僕はまだまだだ。


 日本人が多くても、その会話の場に外国人がいれば英語で話すことになるのは、暗黙の約束になっているといえた。なぜなら、ここはオーストラリアだからだ。学校ももちろんそういう環境なので、僕も少しは慣れたつもりでいたけれど、つい、相手のしゃべっていることが映画の字幕みたいに、目の前に出てくれればいいのになあ、と思ってしまう時がある。


 夕食が終わると、部屋に戻った。


 一服してからひと息つくと、ずいぶんと穏やかな気持ちになっていた。

 世界の南の隅っこで、完全な静寂が訪れる夜にぽつねんと佇んでいると、今までの人生で積み重なってきたしがらみの埃が、少しずつ心の中で掃かれていく気がしてくるのだ。


(そうだ。あいつに手紙を書いてみよう)


 この家で初めて過ごす夜に感傷を誘われたのか、急にそう思いつくと、国際便用の封筒を取り出して、僕はペンを走らせはじめた――



 拝啓 ミナ様


 お元気ですか? 僕は元気です。

 突然こんな手紙が届いてびっくりしたでしょう。そう、オーストラリアからこの手紙を書いています。今、僕は体いっぱいに異国での生活を感じています。

 大学を卒業してから現在まであっという間に感じます。今、日本はどう? 仕事はもう慣れましたか? 君には色々と世話になりました。今思い出すと、すごくいい大学生活だったと思います。

 ここの土地は空が近くて、夕日が信じられないほど美しいです。君にも見てほしいです。

 日本はそろそろ紅葉の季節では? 日本のきれいな秋が懐かしいです。 君はよく空を見上げていたことを思い出しました。

 ではまた。お互い頑張ろう!

                            敬具   護助より



 ひと息ついて、ペンを置くと、窓からぼんやりと空を見上げた。月がある。日本にいても、ここにいても、どこにいたとしても、変わることのない月が二つの目に映っている。




 僕は、英語で日記をつけることにした。最近は、いつもその日記をアナにチェックしてもらっている。アナはそのことに感心していたし、僕には良くしてくれている。

 けれども、セバスと一緒になってふざける時には、彼女はよく眉をつり上げていた。それでも、セバスに合わせてつきあってやってるんだろう、とアナはみていたし、実際それはある程度事実だった。といっても、僕は確かにいたずら好きだから、セバスがいなくても、アナには怒られているだろうけど。




 今日は、セバスの買い物に付き合う形で、パースの町を歩いている。

 セバスはまだ高校生で、夏休みを利用してオーストラリアに来ていた。彼は親から振り込まれるお小遣いでショッピングを楽しむことができるが、僕の場合はそうはいかない。今のところ、日本でのバイトで稼いだお金で生活してきているので、ショッピングをする余裕などあまりないのだ。

 だから、この学校が終わったら、僕は仕事を探さなければならない。


 バラックストリートをスワン川方面に歩くと、昼夜を通してさまざまな色を演出しながらベルを鳴らし続ける観光名所、〈ベルタワー〉がある。そこをもう少し進んだところにセバス行きつけのレストランがあった。ここのレストランはセバスの知り合いが働いている店で、ボランティア団体が経営している。ここではバイキング方式で好きなカレーを食べられるのだ。しかも、食後に自分で値段を決められるという特異な勘定方式なので、好きなだけ安い料金で食べ放題を味わえた。もちろん、客にはそれなりのモラルが必要だが。


「なあ、セバス。スイスにいる彼女はどうなんだ? こまめに連絡とってんの?」


「もちろんさ。大事な彼女だからね。今日は彼女のためにピアスを買ったんだ。ほら、見てみろよ」


セバスは嬉しそうに、ピアスの入った箱を僕に見せびらかしてきた。自分の金じゃないくせに、憎たらしい奴だ。

でも、この少年の表情は屈託のない喜びとカレーへの尊敬の念とで満ち満ちとしていた。


「へえ、そのためにおまえさん、さっきの店に行ったのか」


「ゴスケは彼女いないんだっけ?」


「ああ」


「なあ、学校ではどうなんだ? カンナは?」


「あいつはただの友達だよ」


「そうかい。それじゃあ、棒をぶらさげてる奴と変わらないね。じゃあ、あいつは? ほら、香港人のチャン」


「えっ?」僕は首をかしげた。


「あいつ、絶対ゴスケのことが好きだぜ。昨日だって弁当もらってたろ」


 そう言われると、最近のチャンは実際、僕に対して積極的にアプローチしてきている気がしないでもない。わざわざ弁当を僕のために作ってきたり、休み時間になると頻繁に話しかけてくる。それでも、大して気にはとめていなかった。


「チャンのことは友達だと思ってるよ。まあ、棒がついてると思ってるわけじゃないぜ」


「好きな女でもいんの?」


「そうだなあ」と、僕は思い出すように言った。


「日本にいるよ。好きなコが。まあ、ずいぶん昔にふられちまったけどね」


「オー……」セバスは残念そうに首をふった。


「新しい女を作れよ。おまえはいい奴だと思うぜ。少し下品だけどな」


「クソガキに言われたかねえよ」


 マトンカレーを口に入れる。うまい。


「でもなあ、そのコのことが忘れられないんだ」


「日本人ってのは頑固なのか?」


 そんな他愛もない会話がひと段落すると、僕らはレストランを出て、近くの公園で日向ぼっこをしてから、ぶらっとノースブリッジに向かった。


 図書館の後ろをまわると、日陰で、アボリジニの連中が四人たむろっていた。ノースブリッジにたむろしているアボリジニは性格の荒い連中が多いらしく、彼らも決して友好的には見えなかった。


 まだ若く無謀なセバスは、彼らの前で重大な過ちを犯してしまった。ぼろぼろの格好で昼間から酒をかっくらっている彼らを見て、ふっと、憐れむような笑みを浮かべてしまったのだ。


 それに気づいたとき、僕の背筋に冷たいものが走った。


「おい、餓鬼ども!」


 アボリジニの一人が立ち上がった。その男はぼさぼさの黒髪をしていて、独特の威圧感に満ちていた。


「なんかおかしいのかよ、えっ? 白いケツを蹴っ飛ばされてえのか!」


 彼らは独特の英語を使う。何を言っているのか聴きとりづらかったものの、危険な状況だというのはたしかだ。しかし、負けん気が強く、浅はかなセバスは彼らに食ってかかってしまった。


「別に見ちゃいねえよ。あんたらに構うほどヒマじゃねえ」


 おいおい、勘弁してくれ。


 そのアボリジニはくすっと笑って、ちらっと仲間の方を見やった。案の定、彼らは一斉に立ち上がり、よろよろと僕らに近づいてきた。


 僕の顔は恐怖で引きつっていただろう。しかし、セバスは依然として、彼らに立ち向かっている。


「おいくそ餓鬼、おまえの白いケツの皮を剥いでやろうか。それが嫌なら、出すもんだしなよ。おまえさんがた白人の大好きなもんだ」と言って、男は親指と人差し指の先をつけるジェスチャーをした。


「あんだよ。やるってのか、おっさん達」


 セバスはひるまず力んでいたが、突然、連中の一人が彼の腕をおさえた。と同時に、地面にタバコの吸い殻がぽとっと落ちた。セバスの腕にタバコを投げつけたのだ。セバスはかっとなって、その男の胸ぐらを掴んだ。


 先住民のアボリジニは国から保護されており、援助金も受けていて、彼らともめると厄介な判決をされる、という話を僕は以前、カリステアスさんから聞いていた(といっても、彼らの歴史は悲劇的なもので、おいそれと僕なんかが口を出せる問題でもない)。


 どうやってこの場を切り抜けるか、僕はその機会をうかがっていたが、事態はずいぶんと面倒なことになってしまっている。セバスはその男と取っ組み合い、もう二人もセバスに向かっていき、残りの一人は僕に中指を立ててから、こっちに向かってきた。なにか叫んでいる。


(やばい! どうする?)


 周りのことが気になった、首を右にふると、金髪の中年女性がこっちを指さして誰かを呼んでいるのが見えた。警察を呼んでいるのだ!


 こうなると、もうやみくもになるしかない。僕は向かってきた男の横をするっと抜け、セバスと男たちが取っ組み合っている真ん中に飛び込んだ。男たちの輪が崩れると、セバスの手を掴んで、叫んだ。


「警察だ! 逃げるぞ!」


 そこからは二人とも速かった。

 雲をまき散らす勢いで一目散に遠くまで逃げると、茶色い屋根のガレージの裏で腰かけ、息をついた。


「ふー、もう大丈夫だろ」


「ゴスケ、なかなか速いな」と、笑顔を浮かべるセバスに、腹が立った。この馬鹿なガキのせいでとんでもない目にあったのだ。


「あれはおまえが悪い。わかってるのか?」


 セバスは、申し訳なさそうに少しうなずいた。


「ああ……すまなかった」


「俺に謝る必要はないさ。けど、やっちゃいけないこともあるってことだ」


「ああ、わかったよ」


 セバスはしょんぼりとしているものの、急に汗をかいたせいか、鼻水がにゅっと出てきた。それを見るとぷっと、思わず僕は噴き出してしまい、大きな声で笑いだした。それにつられて、セバスも大きく口を開けて笑いだす。疲れとおかしさで、割れてしまいそうなくらい二人のお腹は痛くなってしまった。


「行こうぜ」


 なんとか笑うのをおさめると、セバスは立って、僕に手を伸ばしてきた。


「つっ!」


 その手をとろうとした時、僕の膝に痛みが走った。腿の内側から膝の皿にかけて、雷のような衝撃が足を駆け抜けたのだ。たまらず、地面に突っ伏した。


 ――やれやれ、こんなとこでも、おまえさんがついてくんのかよ。


 ずっと昔に日本で痛めた箇所がオーストラリアに来ても残っていることに、人間の体は一つなのだということを、強く思い知らされた気がした。


セバスは驚き、僕の側にしゃがみこんだ。「おい、どうしたんだよ? 平気か?」


「……大丈夫だ」


 壁に寄りかかりながら、何とか立った。セバスがすかさず肩をかしてきた。


「そんなに疲れたのか? ごめん、俺がもし……」


「壁にぶつけたんだよ。マヌケだろ? 逃げてる途中で、かわいいコに目がいった途端の出来事でさ。ちゃんとした形で、そのコと出会いたかったよ」


 僕は笑った。自分の冗談が気に入ったからじゃない。


「どこか大きな通りでタクシーかバスに乗ろう。まだその辺に忌々しい警官がいるかもしれないからな」


「うん」セバスはうなずいた。


「ゴスケ、おまえはいい友達だよ。バカだけどね」


 僕らは、歩き出した。

 彼の方が背が高いので、少し不格好な歩き方だけれど、立ち止まることなく、路地裏をまっすぐと歩いていった。

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