第二話 カリステアス家の人びと

 あったかいパイ

 冷たいパイ

 どちらでもよかった

 でも 温かさがやってくること

 そのことは想像していなかったんだ




 日本を出て十時間後、ようやく、パース空港に着いた。


 ここは一年を通して気候が良く、他の都市に比べると田舎だ。それでも、パースは西オーストラリアの堂々たる首都で、インド洋に面したこの街に、僕は直感的な判断で住むことを決めていた。


 パース空港は小規模で、チェックアウトを済ますとあっという間に玄関口に出てしまう。


 ロータリーでは、タクシーやらバスやらが徘徊していた。僕はあまり英語が得意な方ではないのでチェックインには苦労したものの、こうして、これから住む異国の風景を目の当たりにすると、妙な期待が胸に押し寄せてきていた。


 軽くはないスーツケースとバックパックを手に取り、待合い場に出た。


 日本の旅行会社を通して予約した、ホームステイ先のカリステアスというおじいちゃんが、僕を空港で拾ってくれる手筈になっているのだ。


 けれども、約束の時間になってもそれらしき人は来ない。まだコインを持っていないため、自動販売機も使えず、ノドがカラカラのままイスでぐったりとしていた。

 十五分経っても三十分経っても彼は来なかった。四十五分経ち、いいかげん日本の旅行会社に電話しようか悩んでいたとき、


「Hello, are you ゴスケ?」


 と、背は低いがガタイのいいおじいさんが話しかけてきた。

 この人がカリステアスさんだった。白髪の髪はくしゃくしゃっとパーマがかかっていてヤギっぽく、少し赤みがかった顔は彫りが深くて、青い目が年不相応のエネルギッシュさをかもしだしている。


「Yes, I’m ゴスケ。Nice to meet you」


 不慣れな拙い英語で、僕はなんとか挨拶を済ませた。どうやって会話をしていこうか内心どぎまぎしていたけど、カリステアスさんは僕の肩をどん! と叩くと、スーツケースを持って「Come on !」と言い、車の停めてある駐車場まで連れて行ってくれた。


 外国人と二人で車に乗っていると、なんだか本当に遠くまで来たんだなと、感じた。

 よく行き届いた並木通りや、サッカーコートが二面くらいは軽く入りそうな公園、東京と比べると森林とリンゴ畑ほどに差のあるビル群の高さ等、車窓から見る景色はどれも新鮮だった。


 カリステアスさんは気さくな人だった。紺のジャージ姿は彼の元気さをよく表していたし、ハンドルを握る手つきは軽やかだ。彼はしきりに話しかけてきてくれたけれども、何を言っているのか僕にはよく分からず、笑ってごまかしていた。


 町の景色がどんどん住宅街に変わっていくと、僕の心はどんどんと弾みだした。基本的には同じような造りの家が建ち並んでいるのだが、きれいに手入れされた庭や、よく整備された道路と芝生、日本にはないモミジよりも大きな葉を持つ何とも精力的で青々とした木々、童話の世界で見るような暖炉と大きい犬がよく似合うレンガ造りの家――。


 ゆっくりとした風とともに、その景色が心に刻まれていく気がした。


「Hey、ゴスケ! Here is my house!」


 ようやく、カリステアスさんの家に着いたらしい。パースの中心部から二十分は走っただろうか。他の家と同じようなレンガ造りの家だ。車庫は地下にあり、車は滑るようにそこへ入っていった。


 いよいよ、新しい生活が始まるのだ。


 リビングに入ると、そこには洋の世界が広がっていた。光沢のあるフローリングに、山羊の真鍮がかっこいい洋風の食器棚、広々としたキッチンに、大の男を楽々と受け入れてくれそうなソファが佇んでいる。


 キッチンでは、カリステアスさんの奥さんが料理をしていた。大きな体を揺らしながらこっちに歩いてくると、彼女は柔らかくって太い腕で、ギュウッと僕を抱きしめてきた。少しだけ痛い。なるほど、日本の女性にはない力の強さだ。


「Hello、ゴスケ! Nice to meet you!」


僕が「ナイスミートー」と返すと、夫婦はゲラゲラと笑いだした。


 疲れているだろうから、とりあえず部屋でゆっくりしてなさい。夕食ができたら呼ぶから、というような事を奥さんは言ってくれた。

 この奥さんの名前はエヴァさん。エヴァさんは、僕を部屋まで案内すると「Take it easy」と言って、大きな体を揺らしながらまたキッチンに向かっていった。


 確かに、僕は疲れていた。長時間のフライトだったし、見知らぬ異国に来たことと、これからの生活についての不安が積み重なり、体は溶けたろうのようにだるくなっている。

 たいして部屋の内装を見ることもなく、気づくと、そのままベッドへと倒れ込んでしまった。


 どれくらい寝ていたのだろう。頭は意外とすっきりしていた。


(ここが外人の部屋か)


 どうやら彼らの息子が使っていた部屋らしい。あちこちに家族が揃った写真が置いてある。背の高い机の上には、ボールやら辞書やらが置いてあるし、クリケット用のバットがクローゼットの前にたてかけてある。


 ひとまず、スーツケースを開け、バックパックを前に置き、わくわくしてくる気持ちをおさえながら、これからの生活のために整理をはじめた。


 コンコンと、ドアの音がなった。


「ゴスケ、ごはんよ」


「あっ、はい!」


 今みたいな単純な英語だったら受け答えもスムーズなんだけどなあ、と僕は思った。


「やあ、ゴスーケ!」


 日本よりも数段に高いテーブルのイスにちっちゃい男の子が座っていた。五、六歳の子だろうか。

 パーマがかったブロンドの髪と鳶色の目をきらきら輝かせ、人形のように可愛らしい顔を持つ男の子だった。


「やあ、君の名前は?」


「イリニー! よろしく!」


「かわいい子ですね」


「ええ、私達の自慢の孫なの。さ、席について」


 夕食は豪快だった。大盛り、というより特盛りのスパゲッティの上に骨付きのチキンが三つ、ぼん、と乗っている。

 更に、バイキングでやるような大きいガラス製の器にどっさりとトマトサラダが入っていた。


「すごい! 食べていいですか?」


「ああ、どんどん食べてくれ」


 カリステアスさんはそう言うと、フォークで麺をぐるぐると巻き上げてスプーンに乗せ、一気に口に放り込んでから僕にウィンクした。こうやって食べろ、と言っているのだ。

 僕はそれに従い、一気に口に放り込んでから味わった。うまい! ミートソースがふんだんに使われていて、にんにくもよく利いているし、好みの味だった。


「おいしいです!」


「もっと食べていいのよ」とエヴァさんは言って、別の皿にサラダを盛ってくれた。


「サンキュー」


「ノーノー、ゴスケ、センキュー」


「あ、ああ、センキュー」


 そんなふうに発音を教わりながら、僕は楽しい食事の時間を過ごした。


 夕食が終わり、後片付けの手伝いをしようしたけれど、エヴァさんはそれを断った。なので、僕はイリニーとパイダーマンごっこをして遊ぶことにした。


 イリニーはスパイダーマンの仮面をこよなく愛していて、まるで彼のもう一つの顔の皮膚のようだった。小さな蜘蛛男が発射するビームに僕は何回もやられた。

 エヴァさんは大きな体を横に大きく揺らしながら、せっせと後片付けをしている。時折、僕とイリニーが遊んでいる姿を見てはくすりと笑っていた。


「イリニー、もう寝る時間だぞ」


 カリステアスさんはもうパジャマ姿になっている。

 イリニーはもっと遊んでいたかったみたいだけど、素直に部屋へと走っていった。


「いい子ですね」と僕が言うと、カリステアスさんは得意げに、微笑んだ。そして彼はイリニーについて語りはじめた。


 僕は英語力がまだそれほどあるわけでもないので、聞き取るのにだいぶ苦労したが、おおまかな話の内容は何とか理解できた。

 イリニーの父親、つまりカリステアスさんの息子は今、仕事で南の方へ出張中で、そしてイリニーの母親は離婚してメルボルンにいる、とのことだった。


(ここも色々あるんだな。イリニー、母親に会いてえだろうな)


「ゴスケ、明日は町に案内してやる。学校には行くのか?」


「ええ」と返事をしたものの、まだどこの学校に行くかは決めていない。


「いいとこ、行けるといいな」


 カリステアスさんはそう言って、シャワールームまで案内してくれた。


 パースは水不足が深刻な問題になっていて、シャワーを浴びるのは十分間というのが相場らしい。

 水不足である以上、滅多にお湯には浸からない、というのがパースの風習で、カリステアス家も例外ではなく、シャワールームに一応バスタブはあるのだが、すでに洗濯カゴと化していた。


 しきりの中のシャワー器は固定式で、ホース式の日本のものとは異なっている。

 だから、体を回したり、かがんだりしながら、ここでの初めてのシャワーを必死でこなした。かえって、疲れたのは言うまでもない。


 部屋に戻ってから僕は改めて、日本から遠くまで来たことを実感していた。

 いつもの自分の部屋と光景が違う、というのはなんだか落ちつかないものだ。なぜだか、荷物の整理に再び取り組むことにした。

 一度取り組んだことはその日の内にやってしまわないと気が済まない性格だし、未知の衝動が自分の体を作業に没頭させた。


 やがて、重たくなってきた瞼を開いているのもだるくなってきたので、眠りについた。

 夢は見なかった。


 朝食を済ませた後、カリステアスさんはさっそく、パースの町へと連れて行ってくれた。車を持ってはいるものの、僕にバスや電車の使い方を教えるために、今回は一緒にバスに乗ってくれたのだ。


 街に着くと、二人でショッピングモールを歩いた。

 ショッピングモールには、マレーストリート、ヘイストリートと二つの大通りがあって、どちらも日本と比べるとショッピングモールとしてはずいぶん道が短い。


 しかし、海賊の格好をした大道芸人が口に剣を呑み込む芸が観衆をとりこんでいたり、イスに座ってのんびりとお茶を楽しむ老夫婦がいたり、若い女の子がアイスクリーム片手におしゃべりに興じていたりして、町は活気に満ちていた。

 明らかに社会人らしい男たちが、昼間からパブでビールを飲んでいたりもする。

 一人一人が、それぞれの人生のペースをそのまま外に持ちこんでいるのだ。


 文化の違いに目を凝らしながら、僕はカリステアスさんとの町の散策を楽しむ。

 もっとも、年齢と相反したカリステアスさんの歩く速さにはずいぶんと苦労したが。


 オーストラリアの三分の一を占める西の州都であるというのに、パースという街のつくりはいたって簡素だ。

 目立った高層ビルは五、六棟ほどで、天然芝の公園があちこちにあり、ゴミは少なく、スワン川という大きな川が街の中心になっている。都市部の中心にある川だというのに、そこにはたまにイルカが泳ぎにやってくるらしい。

 日本の都市にあるような喧噪とは無縁といえる環境だ。


 ヘイストリートにある喫茶店で、僕たちは休憩することにした。通りにでている席に腰を下ろすと、僕は急に緊張しはじめてしまった。

 初めて、彼とのひとつの間を持つことになったからだ。

 カリステアスさんはうぶな日本人の心を見抜いたのか、ポロシャツの胸ポケットからメモ用紙とペンを取り出すと、警察と自分の家の電話番号を書いて、僕に渡してくれた。


「何か困ったことがあったら、ここに電話するんだぞ」


 そう言った彼に僕は頭を下げ、「ありがとう」と言った。


「ただし、夜中に俺の家には電話するなよ。パジャマ姿じゃかっこわるいからな」


 僕はくすっと笑ってから、手に持っている和英辞書を時々頼りにしながら、「最近この町はどうですか」とか、「パースでおいしい店を教えてくださいよ」と言って、話しを切り出していった。


 パースは近年水不足でどこの家も水を大切にしている、オーストラリアの若者は怠け者が多い、うまい店はうちさ、エヴァの料理が一番うまいよ――など、赤みがかった顔を優しく緩ませて、彼は色々なことを丁寧に教えてくれた。


 次第に僕にも余裕がではじめ、町往く人々の表情にもよく目がいくようになった。急いで歩いているような人はいなくて、どの通行人も気ままに歩いている印象だ。日本人や中国人も歩いている。

 オーストラリアには、色々な人種が住んでいるのだ。


「エヴァにお使いを頼まれていてな。あそこのスーパーで買い物をしていこう」


 僕らは、マレーストリートにあるオーストラリア最大手のスーパー、ウールワースに入っていった。当然、店内には英語で書かれている商品がずらっとならんでおり、よく分からない食材も目につくので、興味深く店内を徘徊した。

 

ホームステイは三週間のプログラムで、それが終われば、僕は新しい住み家を見つけなければならない。ホームステイを延長したい気持ちはもちろんあるけれど、お金がかかるし、何よりも、海外生活で自己管理ってやつをしてみたい気持ちがあった。

 だから、僕は後々お世話になるであろう、ウールワースをじっくりと研究してまわった。


 この日はポテトチップとチョコクッキーを買っただけだったけれど、カリステアスさんの方は若者の力をあてにして、わんさかと食料と日常用品を買っていた。おかげで帰りはバスの席二つ分が買い物袋で埋め尽くされた。


 へとへとになって帰ってくると、エヴァさんが熱いお茶を出してくれた。

ハーブティーのにおいが口の中に広がっていく、ホッとする時間だ。

 夕食ができあがるまでの間、カリステアスさんとガレージで卓球をすることになった。とても六十三歳とは思えないショットと動きだ。


「おいおい、元気なじいさんだな」


 思わず日本語がでてしまった。すると、カリステアスさんはけげんそうな顔をして、「ゴスケ、日本語はここでは禁止だぞ。英語を使いなさい。考える時も英語を使うんだ。いいな?」と言った。


「はい」


 僕はその言葉をしっかり守ろうと思った。

 なんせ、英語をもっと話せるようになりたかったのだから。


 エヴァさんが夕食の合図をする前の最後のセット、カリステアスさんの渾身の一打がきれいに卓上をはねた。

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