第一話 旅立ち
僕は、ワーキングホリデービザを使って、オーストラリアに一年間滞在することに決めた。
今までの人生は、うまくいかないことばかりだった。
小学生の頃からサッカーばっかりやっていて、将来はプロになって日本代表になるのが夢だった。
ある日突然、そんな僕の夢は砕け散った。
高校三年の夏――最後の大会。
その試合で、僕はドリブルキープをする相手選手に猛スピードでタックルした。 二人とも転倒し、運悪くその相手選手と重なって、彼の膝がおもいきり僕の膝に突き刺さったのだった。
気がつけば、僕の膝はもう、夢を追えなくなってしまっていた。
狂い死にしそうな激痛に絶叫し、道が閉ざされた悲しみに沈黙した。
大事な試合だった。
勝てば決勝に進出して、全国大会への切符に手が届いたし、何人かのスカウト陣もその試合に注目していた。
けれど、今はもう、僕に注目する人なんていない。
膝は、日常生活にはあまり影響しないほどに回復したけれど、今でも満足に走ることはできない。おかげで、少し右足をひきずって歩くのが癖になっていた。
自分にとっての『生』となる希望を失うことに、時間はかからなかった。
もがいた――照明のないプールの中で。夜の砂漠の中で。
友達や家族と一緒にいる時間はいつも通りに過ごせたけれど、夜になって独りになると、あるいは駅のトイレで一人で用をたしていたり、何気なくテレビを観ていると――泣いた。静かに泣いた。
それでも――新しい道を見つけられないまま高校の卒業式を迎え、何日か経った後に転機は訪れた。
大学受験をすることにしたのだ。中学からの親友、三井大吾の誘いがきっかけだった。
「俺、大学受験失敗したろ? でも浪人して、もっかい、受けるつもり。護助もやってみたら?」
それから、僕は大吾と毎日予備校に通って、必死に勉強する日々を送った。
サッカーへの情熱という、簡単に割り切ることのできない希望への残像と闘いながら、二年後に、僕は大学生になった。
大学生活は、僕にとって新しい青春と、とまどいとの連続だった。それまでサッカーのことばかり考えてきた僕にとっては、なじめない部分が多かったのだ。性に合わないと思ってサークルには入らなかったし、友達もそんなに多くはなかった。
それでも、大学生活は悪いものじゃなかった。
数は少ないけれど、いつの間にか気の合う友達もできた。特に、同じ学科の山田友久とは毎日のようにバカをやって十分楽しんだし、単位もしっかりと取った。
けれど、大学生活を送っていても、過去は突然、ある瞬間に僕の心をノックした。
サッカー――やりたい。プロとして。どこまでも挑戦したかった。
この膝さえ満足に動けば……。結局、サッカーに変わるような好きなこと、見つけてないなあ。どうしよう、これからどうしよう――。
日々の暮らしの中、出口のない焦りが自分の胸の中で、くすぶり続けていた。
そんなんだから、恋をすることなんて、その頃の僕は想像もしていなかった。
でも……
同じ学科の女の子で、少し茶気味のさらさらした髪を肩までなびかせた小さな顔に、くりくりっとした愛らしい目を輝かせている可愛い女の子がいた。吉田ミナといった。
同じ授業を受けたり、学科の飲み会で一緒になったりする内に、僕とミナはよく話すようになった。
彼女は人見知りが強くて負けず嫌いなタイプだけれども、冗談ばっかり言っている僕には、よく笑ってくれた。僕は、彼女を笑わせたくて、スパゲッティを鼻から出したことがあるくらいだ。でも、それは失敗だった気がする。
大学二年の夏には一度だけ、二人きりで東京の街でデートをした。それは僕が味わった、久しぶりのすてきな体験だった。
その年の夏から、僕はバイクでよく一人旅をするようになっていた。バイクが好きだったし、都会の人混みや日常の義務を置いてけぼりにして、日本のきめ細かい自然や、歴史の連なる建物の中に立って、ただ自分の感じるままに呼吸をする時間が必要だったのだ。
サッカーをしている時の情熱とは違うけれど、心に生きる力を与えてくれる静かで力強い何かが湧いてくる気がした。
思えば、この頃から、僕の旅への憧れは強くなっていったのかもしれない。
夏が過ぎても、僕とミナは学校の帰りや休みの日に、二人でしばしば会うようになっていた。
自分の瞳に焼き付いてくる彼女の色んな表情を見るたび、僕はミナに惹かれていった。
冬になる頃には、僕ははっきりと、ミナのことが好きになっているのを自覚していた。
――ところが、その頃から、ミナはどこか元気がなくなっていた。メールの返信も遅いし、授業にもあまり顔をださなくなり、笑顔が少なくなっていた。
ミナを元気づけたかったし、僕は、そろそろ自分の想いを告げたくなっていた。
冬ももうじき終わる気配のする頃、ミナを誘って、横浜の街で遊んだ。
「なあ」
「ん?」
レストランで港の見える夜景を見ながら、僕は切り出した。
「最近、元気ねえよな。何かあったの?」
すると、彼女は考え込むように黙った後、つぶらな瞳をテーブルに落とし、昔の恋人がもう一度付き合いたいと言ってきたことで長い間悩んでいた、という話を打ち明けてきた。
愕然となった。
サッカーの想い出が一瞬、脳をよぎった。
怖くなった。
ミナを取られたくなかった。
「俺だって、おまえが好きだ。本当に好きなんだよ」と言いたかった。
けれど思わず、「もし、ミナがまだ好きなら、よヨリを戻せばいいんじゃねえか」と、言ってしまった。その時ミキサーがあったら、僕は自分の舌を突っ込んでしまっただろう。
それから店を出て、夜の港町をゆっくりと歩いた。二人ともしばらく無言だった。
(なんで、さっきはあんなこと言っちまったんだろう)
もう、耐えられなかった。想いを告げたい衝動と、彼女といることの緊張が膨張して、僕はついに沈黙を破ってしまった。
「ミナ、俺は……ミナのことが好きだ。だから、つきあってほしい」
三時間後――
僕は、自分の部屋で佇んでいた。
景色も、自分の動作も、よくは覚えていなかったけど、ミナの表情と言葉だけはしっかりと覚えていた。彼女は突然の告白に、とまどっていた。当然だ。そんなそぶりを、僕は今まで一度も見せてこなかったのだ。
しばらく考え込んだ後に、ミナは口を開いた。
「ごめん……あたし、護助君とはつきあえないよ。護助君のことは好きだけど、あたし、彼のことでこんなにも迷ってるから」
それから、彼女は顔を上げた。
「ありがとう、ごめんなさい――」
そして、ひとつの時間は終わった。
その後、僕たちはそんな事実はなかったかのように、学校では、普通の友達らしくふるまっていた。けれど、僕はまだ彼女をあきらめられないでいた。
それから数日後のある雨の日――
大学の帰り道を歩いていると、一組の恋人が向かいの方から歩いてくるのが見えた。男が傘を持ち、女はその腕にちょこんと自分の腕をのせている。女はミナだった。二人はとても仲が良さそうだった。僕はさっと、傘を前に傾かせ自分の顔を隠した。
雨音はいつまでも鳴り止まなかった。
大学生活も四年生に突入した頃、進路を決めるために、僕は色々な会社をまわった。自分のやりたいことは何なのか――。
自問自答する日々のなか、バイクにまたがっていると、突拍子もない希望が頭の中をノックした。
――俺はまだ若い。そうだ。俺の今好きなことは、色んなものを見ることだ。旅に出よう! そこから就職しても遅くはない。
次の日から、僕は海外で旅をして暮らす方法を調べはじめた。バイトも増やして着々と準備を進めていき、ワーキングホリデーでオーストラリアに滞在することを決めた。ワーキングホリデービザは、一年の間に学校に行くこともできるし、現地で働くこともできる自由度の高いビザだった。
オーストラリアを滞在先に選んだのには、これといった理由はない。ただ、あの雄大な自然に囲まれたらいいな、と思っただけだ。
ずいぶん、感覚的な決断だったと思う。まあ、若い頃なんてそんなもんだろう。
けれど、それは……叶わなかった想いを振り切るため、あるいはそこから逃げるために選んだ選択だったのかもしれない。僕は、自分自身をリセットしたかったのだ。
大学の卒業式――仲のいい友久と窓際の席に座っていると、ミナが教室に入ってくるのが見えた。
本当に久しぶりだった。
振り袖姿の彼女は、綺麗だった。
どぎまぎしながらも目で挨拶すると、彼女は微笑んでくれた。
卒業証書授与が終わると、廊下で久しぶりに話し合った。
「護助君、オーストラリアに行くんだ……すごいね。でも、面白そう!」
「ミナは証券会社で働くのか。いよいよ社会人だな。頑張れよ」
「うん。ありがとう……ねえ、気をつけて行ってきてね」
「ああ」
「帰ってきたらどうするの?」
「あ、それはまだわかんねえんだ」
彼氏との仲はどうなってんだろう、と、僕はそれが聞きたくなっていた。
ミナは微笑んでいた。この笑顔も、もうずいぶんと遠くなってしまっていた。
分かっている。
でも、悲しかった。
「護助君らしいね。じゃあ……あたし、もう行くね!」
僕は「ああ」と言い、ミナの艶やかな後ろ姿を、見えなくなるまで見届けていた。
「よう、気は済んだか?」
友久が、心配そうに話しかけてきた。僕は笑った。
「よう、今日は飲もうぜ。とことん飲もう」
それから二ヶ月経ち、僕は今、成田空港に立っている。友久と、中学生の時からの悪友、大吾が車でここまで送ってくれたのだ。
大吾が肩をたたいてきた。
「向こうで草サッカーやってくるんだろ? ヒーローになってこいよ」
友久はいつもの調子で笑った。
「一年間おまえがいないってのは、きっと平和なことだな。せいせいするぜ。まあ、しっかりやってこいよ。あと、変な病気もらうなよ」
「まあ、どうなるか分かんないけどさ、今は、ヌードビーチに行きたいんだ。それが、俺の夢だ」
僕がそう言うと、大吾が八重歯を見せて笑った。
「おっぱいのひとつでも揉んでこいよ。そこに夢が詰まってるさ」
僕は苦笑いしてみせてから、時計を見た。
「そろそろ時間だ。チェックインしなきゃ。じゃあな馬鹿ども。元気でな」
「はやく、行っちまえ」
「死ぬなよ」
大きく手をふり、二人と別れてからゲート内に入ると、胸が急に鼓動を打ちはじめた。これから、初めての海外生活が待っているのだ。
一人でなんとかなるだろうか――胸の高鳴りを押さえながらも、飛行機の席についた。
若い女が隣の席だった。色が白く、さらっとした黒髪を肩まで垂らしている。
このコも一人だろうか。大吾なら、迷うことなく、声をかけているだろう。
やがて、離陸することを告げるアナウンスが流れた。
今では、不安とともに期待の気持ちも心に同居している。
ゴゴゴゴゴゴ――鉄の塊が、大勢の人の目的地に向けて加速してゆく。
もう、引き返せない。
(いよいよか)
離れゆく日本の地が見えなくなるまで、僕はじっと窓の外を見つめていた。
――でも……何がいよいよなのだろう。
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