第十話 高潔の木、不穏の影

 紅梅は僕を見て一度頷き、先導するように歩き出した。僕たちはそれに着いていく。僕ら以外の人間は見当たらない。


 舗装されている道の両脇には木々が生い茂って、時折風に揺れざわめいている。至る所に掛けられた「動植物を持ち帰らないでください」という看板が、この公園がいかに人間に守られているかを物語っていた。もう日が沈み始め、辺りは薄暗さに包まれている。蝉の声が、少しずつ鈴虫の鳴く音に代わっていた。

 歩きながら川越くんが辺りを見渡してぽつりと呟いた。


「なんだかすごいですね……オレ、川崎にこんな場所があったなんて知らなかったです」

「本当だね。綺麗なところだ」

「ここには県の指定史跡もあります。国に、人に守られた自然の集合体なんです」


 歩きながら紅梅が嬉しそうに話す。やはり自分が住んでいる場所が褒められて悪い気はしないのだろう。その表情は昼間に見せていた疲れたものではなく、年相応のように感じられる。


「うわあ!」

「川越?」


 突然、後ろを歩いていた川越くんが悲鳴を上げた。振り返って見れば、何故か川越くんは地面に突っ伏して伸びている。しばしの沈黙ののち、恐る恐る僕は川越くんに近付いた。


「……あの、川越くん? 大丈夫?」

「なんか……足引っ張られました……」


 唖然としながら顔をあげれば、彼の鼻の頭には泥が付いていた、ジーンズに付いた汚れを払いながらきょろきょろと周りを気にするが、やはり誰もいない。


「まったく……久しぶりの私の客人相手にはしゃぐのはやめなさい!」


 目を三角にして近くに生えていたケヤキを紅梅はしかりつける。それを見ながら、船江は言った。


「何かいるな。木霊か」

「この公園にいるモノたちは皆悪戯が好きです。最近はこんな風にはしゃげる相手がいなかったもので……申し訳ございません」

「船江、視える?」

「いや。でも聞こえるな、子供か」


 船江は視えない目を閉じて何かを聞いていた。僕には聞き取れない人ならざるモノの声に思いを馳せている。この前の船江の言葉が、彼の本心だったことを僕はこの時今更ながらに実感した。次の瞬間、突然目を見開いて足元に怒鳴りつける。


「コラてめぇ!」


 唐突な怒声に驚けば、隣の川越くんも肩を竦ませた。ちなみに、まだ川越くんの鼻の頭には泥がついたままだ。


「ど、どうしたんですか船江さん……?」

「あぁ、木霊の声が聞こえたんだよ。「こいつを池に落としてやろう!」って言うもんだからな」


 そう言いながらも、船江はそこまで怒っているようには見えない。


「あとでしっかりと言っておきます……本当にすみません」

「いいんですよ。きっと木霊も楽しいんでしょうし」


 そう言いながら僕もスラックスの裾を引っ張る木霊に引っ掛からないよう慎重に足を上げた。さすがにスーツに泥をつけるとクリーニングが面倒くさい。


「へえ、木道なんてあるんだ」

「こちらは湿地を再現しています。古くからの日本の暮らしを身近に感じてもらえるように、とのことです。私たちも心安らぎます」


 橋のように湿地の上に掛けられた木道を歩きながら、僕たちはまっすぐに進んでいく。何度か川越くんが池に落ちかけるのを阻止しながら、なんだか童心に戻ったような心持ちがした。


「……こちらです。この梅が、私の本体」

「これが……」


 案内された先にあった梅の木の大きさに、僕は思わず口を開けた。大きい。老嶺さんの親楠くらいある。船江も川越くんも同じように見上げて驚いていた。


「でかいな……」

「おっきいですねえ」

「……でも、特におかしい点は見当たらないですね」


 僕は梅の周辺を観察しながら呟いた。生命力の漏洩、と言っていたがそれらしいものの気配はない。視えない僕の見立てだが、船江もそれに首肯した。木に近付き、そっと幹に手を当てる。何かを探るように目を閉じ、身じろぎ一つせず意識を集中させていた。


「……? なんだこれ。どっかでせき止められてるな」

「どういう事?」

「本来なら循環するはずの生命力の流れが、途中にある何かが詰まってるせいで脇道に逸れてる。視えないからあくまでイメージだが、原因さえ除去できれば何とかなるかもしれん」

「じゃあそれを探しに行こう。どこら辺にあるかは?」

「見当もつかないな」

「足で探すしかないかぁ」


 僕はジャケットを脱ぎ、手近な木道の手すりに引っかけた。


「川越くんは木道を渡った向こうをお願い。船江はそこの梅の木を巡回して。僕は……あの木道沿いの広場を見てくる」

「分かりました!」


 意気揚々と川越くんが駆けだし、船江は隣の背が低い梅の木に触れた。川越くんは多分転ぶんだろうな、と思った矢先に情けない悲鳴が聞こえた。






 しばらく探し回ってみたが、原因らしきものは見当たらなかった。日没後の公園は少し冷えるし、何より明かりが無いと足元すら見えない。僕や川越くんはスマートフォンのライトで地面を照らしながら捜索を続けていた。


「ほんとに何もない……船江、何か分かった?」

「他の梅の木には異常が見当たらない。あの木だけが何かの影響を受けてる」

「西萩所長……オレもうダメです……」


 川越くんの言葉に振り返ると、随分と汚れた格好で川越くんが困ったように笑った。


「なんか、すごい足引っ張られるんですよね……おかげで何回も滑っちゃって。オレってそんなからかいやすいように見えるんですかね?」

「うーん……まあ、何とも言えないかな……」

「足を引かれる? 木霊にか?」


 船江は眉間に皺を寄せて尋ねた。少し考え込んだ後、船江はジャケットを脱いで僕が掛けた手すりに乗せる。


「俺も探す。その木霊が足を引く場所まで案内しろ」

「え? あ、はい!」


 慌てて川越くんはライトを足元に向けて先導し始めた。その後を船江、僕、紅梅の順で進んでいく。

 道を外れた急斜面で、川越くんは立ち止まった。


「ここです。さっきからずっとジーンズを引っ張られてるんで間違いないです」


 僕はスマートフォンのライトを、足元に向けた。別段気にするようなものはない。


「何だろう……」


 僕はしゃがみこんで土に触れた。ひんやりとしていて、湿っている。

 ふと、違和感を感じた。


「ん?」


 違和感の正体を逃がす前に、その土を軽く手で掘る。土ではない感触だ。指先に引っかけて取り出し、白いライトの下に晒す。


 それは、ネックレスだった。すっかり土にまみれて汚れてはいるが、それが高価なブランド品だったことは明らかだ。付着した土の隙間からトップの石が光を反射して輝いている。チェーンも細く、長さからそれが女性のものだと推測した。でも、何故こんなものがここに埋まっているのだろう。


「ネックレスですね。誰かが捨てたんでしょうか」

「そうみたいだな。穴を掘ったわけじゃなさそうだから単に投げ捨てたんだろうよ」

「……船江、これ、一瞬でいいから視れないかな」


 僕は、そのネックレスを船江に差し出した。僕の想像が合っていれば、例え一瞬だとしても船江なら何か視える。僕の顔を見た船江は、驚きを見せたが何か察したのか言った。


「貸せ」


 船江は、手が汚れるのも厭わずに僕から薄汚れた金属を受け取った。掌に載せ、それをじっと見つめる。次の瞬間、船江は盛大に顔をしかめて僕にそれをつき返してきた。


「お前、これが何か分かってたのか」

「知らない。でも、こんなところに不釣り合いなものが落ちてるなら、絶対に意味がある。そうなったら、心当たりなんて一つしかないよ」

「あの、お二人とも……全然オレ話についていけないんですけど……」


 川越くんの不安そうな視線が僕と船江の間を何度も往復する。僕たちは急斜面を降りて、近くに設置してあった木造のベンチに腰かけた。いつの間にか、紅梅はいなくなっている。


「船江が視たもの、当ててみようか」

「……言ってみろ」

「殺人現場」

「えっ……⁉」


 船江の眉間にしわが刻まれた。どうやら正解だったようだ。川越くんはすっかり顔を青くしている。


「さ、殺人? どういうことですか?」

「多分あれ、証拠隠滅のために誰かが捨てた遺品だよ」

「あの場所は梅の下に繋がってる脈の通り道だった。そこに強烈な負の気が落ちたもんだから、梅の生命力がせき止められて弱ってたんだろう」


 船江が川越くんに説明しているのを聞きながら、僕は違う事を考えていた。


 基本的に溝の口や、その近辺は平和だ。酔っ払いの乱闘騒ぎや粋がった学生のやんちゃこそあれど、殺人事件なんてめったに起きることはない。それは、僕たちが働いている事務所に被害者の依頼が来ないことが物語っている。


 しかし、今こうして物騒な事件が起きている証拠を見つけてしまった。そして僕には、そんな事件を引き起こすような奴に心当たりがある。


 拳を強く握りしめて、僕は頭からあのニヤケ面を振り払うように目を固く瞑った。あれが原因だと決まったわけではないが、タイミングがあまりにドンピシャすぎる。


「縁くんがやったのか……?」

「あ? なんか言ったか、西萩」

「何でもないよ。それ、事務所に持って帰って明日供養してあげよう」


 嫌なことは、努めて考えないようにする。僕は重たい不安を隠すように笑って、二人を見た。

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