第八話 視えない世界

 縁くんの襲撃があってから数日後。僕と船江はマルイの食品エリアで和菓子を探していた。理由は簡単、これから僕たちは物部に会いに行く。川越くんは別のバイトがあるらしく、今日はお休みだ。


「んなもんこれでいい」

「え、でもたい焼きってありなの? それ和菓子?」

「餡が入ってるだろ」

「そういう問題?」


 スーツ姿の男が二人、昼間から可愛らしいショーウィンドウの前で買い物をしているのは周りの目にはさぞかし不審に映るだろう。でも正直そんなことはどうでもいいし、船江も大して気にしていなかった。

 とりあえずこし餡入りのたい焼きとクリーム入りのたい焼きをセットで買って、高津図書館へ向かう。その道すがら、船江は妙に周りを見ている。


「どうしたの」

「いや……何でもない」


 明らかに挙動不審だが、それを言及するつもりはなかった。目的地の図書館が近付いているのもあるし、こうやって黙っている船江に問いただしても返事が返ってこないことを僕は知っている。


 いつも手帳に挟んで携帯している物部の部屋の鍵を提示し、決められた手順で僕たちは図書館の事務室に入った。相変わらずおどろおどろしいフォントで「関係者以外立ち入り禁止」と書かれている。ここは何も変わってないんだな、と思っていると、扉が開かれた。

 中には、これまた変わっていない女性が呑気にパソコンのソリティアで遊んでいた。僕と船江が入ってくるのを振り返って見る。


「ピヨピヨと坊やじゃないか。坊やは随分と久しぶりだねえ」

「お久しぶりです物部さん」

「おいババア。これ」


 船江は持っていた紙袋を乱雑に放り投げた。それを物部は難なくキャッチして中身を検める。その間にも船江はさっさと部屋に入り、段ボールに座り込んで足を組んだ。慌てて僕もその後を追いかけ、船江の横に腰を下ろす。


「たい焼きじゃないか」

「それで俺の目を診ろ」


 船江の言葉を聞いた物部は、早速開けたたい焼きを咥えながら目を丸くした。何度か咀嚼して飲み込んだ後、眉を上げて言う。


「お前、この前も診ただろう? そんなすぐ前の事も忘れちまったのかい? 痴呆の始まりは早いもんだねえ」

「うるせえ」

「はーあ、やだやだ。これだからピヨピヨの若造は面倒なんだよ。なあ坊や。そう思うだろう?」

「え、いや、どうでしょう?」


 突然話を振られて、まともに聞いていなかった僕は面食らってしまった。狼狽えていると、船江がため息を吐く。足を組み替えて俯き、不機嫌そうに漏らした。


「一瞬だけ視えるくらいには回復したが、さっさと戻さないと仕事に支障が出る。だからまた来た、それでいいだろ」


 物部はそれを聞いて、ふむ、と一度納得したような素振りを見せて手にしていたたい焼きを袋に戻した。代わりにその手には煙草の箱が握られている。どんな手品だ。彼女は早速紙巻きたばこに火をつけて吹かし始めた。船江の眉間の皺が深くなる。


「まぁ、依頼料ももらってるんだから診てやるけどね」

「あの、船江の目って治るものなんですか?」

「知らんよ。治ればよし、治らなければそれまでさ」


 煙を吐き出す物部に、船江は露骨に顔をしかめた。しばらく嫌そうな顔で迷っていたが、心を決めたのか組んでいた足を降ろして物部の傍らに向かう。


「診ろ」

「なんでお前はそんなに偉そうなんだい」


 指でしゃがめ、と合図をし、船江が膝を折ってかがんだ。物部は持っていた煙草を灰皿に置いて、船江の顎を指で掬う。見つめあう二人を前に、僕は一体何を見せられているんだろうと思っていると、突然物部が笑いだした。


「っぷぷ、あははははは! あは、あははははは!」

「え?」

「は?」

「んふふふふふ、ふふ、あははは、ピヨピヨ、お前本当はもう視えてもいい頃合いだろうに、まだ視えないなんておかしいねえ!」


 物部の言葉に、僕と船江は思わず顔を見合わせた。だって、船江はまだ目が治らないからわざわざここに来たのだ。それなのに「もう視えてもいい頃合い」だなんてどういう事だろう。


「物部さん、つまりそれって船江の目はもう治ってるってことですか?」


 僕がそう尋ねると、物部は灰皿に置いていた煙草をまた吸い始めた。煙が天井を彷徨い始めたあたりでようやく笑いの発作が収まったのか、大きく一息吐いて話し出す。


「ピヨピヨが受けた呪詛の影響はもう抜けてるんだよ。残滓もなくきれいさっぱりだ。強力な一発だけど、その分効果は持続しないタイプだったんだろうね」

「視界に入るだけで怪異を視る目を潰す術だなんて聞いたことないがな」

「ないわけじゃないさ。論理的に筋を通して材料と代価を用意すれば呪術はなんだってできる。送り主も検討はついてるんだろう?」

「え、そうなの船江? 僕何も聞いてないけど」


 驚いて船江を見れば、彼はばつの悪そうな顔でそっぽを向いた。その様子が面白いのか、喉の奥でくつくつと物部がまた笑った。


「その話は自分ですることだね、ピヨピヨ」

「言われなくてもする。お前は俺のお袋か」

「似たようなもんだろう?」

「誰がお前なんか」


 ふん、と船江は面倒くさそうに鼻を鳴らした。そのまま立ち上がり僕の横まで戻ってきて、また段ボールに腰かける。呆気に取られている僕を見て、船江はもう一度鼻を鳴らした。


「それで? 治ってるはずならどうして視えない」

「簡単さ。あんたの用意が出来てないんだよ」


 吸い込んだ煙と一緒に物部が言葉を吐き出す。それを単純な事実として受け止めきれず、僕は思わずぽかんと口を開けた。船江も同じだったようで、目を見開いている。


「どういう、意味だ」

「まずはこの術の説明からしてやらんとだねえ」


 よっこいしょ、と椅子に座り直し、物部が煙草を片手に術の解説を始める。


「今回そこのピヨピヨが受けた呪詛ってのは、まあ簡単に言えば「受けた相手の怪異に対する認識を阻害する」って代物だ。多分坊やも視たんだろうけど、影響がないってことはワタシのあげたナイフが正しく発動したんだね。呪詛の媒体を持ってたのは西萩の坊やだろう?」

「あ、はい。多分そうです」


 僕は以前事務所に届いた白紙の手紙を思い出しながら言った。船江の想像通りあれが呪詛なら、確かに僕が開封して持っていたはずだ。


「でも、呪詛そのものを斬るほんの一瞬前にピヨピヨの目には入っちまった。だからピヨピヨの目は視えなくなって、坊やにはなんら影響がなかった」

「そうか……一瞬視えた呪詛が消えたのは俺の目が視えなくなったのと、呪詛そのものが斬れて消えたのが同時だったからか。通りで残滓も感じ取れないと思った」

「ご名答。そういう頭の回転は相変わらずだねえ」


 船江は物部を睨みつけるが、彼女はそんなこと気にもせず言葉を続ける。


「呪いのメカニズムは分かってるだろう? 「呪われた!」と相手に思い込ませることで効果を発揮するような不安定なものだよ。勘違い、錯覚、思い込み、そういったものが人間の行動や意識を縛っていく」


 それはもう、山火さやと対峙した時に嫌という程味わった。写真を使った呪術による意識の混濁も、言霊を利用した行動の抑制も既に体験済みだ。


「……まさか」

「そう、ピヨピヨは無意識下で「もう視えない」って思いこんでるのさ! おかしいだろう? 視えるようになりたいって口では言ってるのに本当は」


「黙れっ!」


 叫んで我に返ったのか、船江は一度ハッとしてから口をつぐんだ。その表情からは、悔しさが滲んでいる。

 しばらく部屋に降りた沈黙を破ったのは、船江だった。


「……邪魔した。帰る。行くぞ西萩」

「好きにしな。ワタシが出来るのは診るくらいだよ」


 物部は疲れたように新しい煙草の煙を吐き出した。それを振り返ることもなく、船江は彼女に背を向けて部屋から出て行く。僕は物部を見たが、女はただ煙草を持った右手をひらひらと動かしただけだった。





 気が付けば、これまたいつもの通り図書館の前に立っていた。時間も進んでいない。いつもと違うのは、船江の表情が曇っていることくらいだ。


「……あのさ、船江」

「今話しかけんな」


 そう言って、僕を置いて船江はさっさと事務所への道を戻っていく。話しかけるなと釘を刺されて、僕はただその後を着いていくしかなかった。


 僕と船江には七、八センチの身長差がある。船江の歩幅の方が長くて、前を歩いていく彼に追いつくために少し小走りになった。

 信号が赤になって、ようやく船江の横に並ぶ。顔色を窺うように見れば、既にその表情はいつもの仏頂面に戻っていた。さて、なんて言葉をかけようかと考えを巡らせていると、驚くことに船江が切り出した。


「……正直、視えない世界なんて一生拝めないと思ってた」

「え?」

「ガキの頃から幽霊やら呪いが視えて、それが当たり前の風景だった」


 信号が青になる。歩き出した船江は、僕を待たずにしゃべり続けた。


「山火さやを止めに行ったあの日、俺はあいつの暗示で昔の記憶を見た。反吐が出るほどムカつく記憶だった。忘れたものだと思ってたが、案外そういう思い出は残ってるものなんだな」

「……うん」

「多分引っ掛かってるのはそれだ。というか、それ以外に考えられん」

「……船江はさ」


 僕が聞くと、船江は立ち止まって僕を見た。振り返った彼の表情は、やっぱりいつもと変わらない。三白眼で、眉間に皺が寄っていて、仏頂面で、いつもの船江だ。


「船江は、そんな嫌な過去を思い出しても、やっぱりまた視えるようになりたいの?」


 純粋な疑問だった。無意識のうちに視ることを拒絶しているのなら、またそれを元に戻そうとするのは酷な事だ。


 船江は、僕の問いを受けて少し考えた後ふと街を見た。

 人が行き交う溝の口だ。僕にとっての日常の風景がそこには広がっていて、それしかない。船江はそれを見て、たった一言呟いた。


「……怪異が視えない世界は、俺には寂しすぎるんだよ」


 それが彼の、船江鶸の答えだった。

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