第六話 川越亘、初めてのおつかい(老嶺編)

 明日香さんと別れたオレは、船江さんの頼みごとを遂行するべく溝口神社に来ていた。いつも神社になんて近付かないから、ここに来るのは多分初めてか、幼い頃に一度くらいのものだろう。


 鳥居をくぐり、辺りを見渡す。何と言うか、厳かな雰囲気だ。境内に足を踏み入れると空気が変わる気がした。オレは額に浮いた汗を手の甲で拭いながら右側にある手水舎に近付いた。


「えっと……」


 手順はよく覚えていない。とりあえず柄杓で掬った水を両手にかけて良く洗った。柄杓の柄に水をかけて元あったところに引っかけ、鞄に入れてあるタオルを取ろうとした。その手を誰かの手が掴む。びっくりして手の主を見れば、その青年はマフラーに顔を埋めながら目元を緩ませた。


「ダメですよ。せっかく手水で清めたのに拭いては台無しです」

「あ、すいません」

「いえいえ。こういうところにあまり来ないんですね」


 優しい笑みを浮かべた青年の顔には、三本の傷が目立っている。傷とマフラー、と言う事はきっとこの人が。


「あなたがもしかしてオイネさんですか?」

「はい、ボクが老嶺ですが何か?」


 首を傾げてオレを見るオイネさんは、気温が高いのに涼しい顔をしている。マフラーなんて巻いているのに、だ。手水舎の日陰にいるオレはそこから一歩、直射日光にさらされるように足を出す。


「初めまして、船江さんの荷物を渡しに来ました」

「おや、それはありがとうございます。よかったら少し休んでいきませんか?」

「いいんですか?」

「もちろんですよ。こちらへどうぞ」


 そう言ってオイネさんが神社の奥を指さす。大人しくそれについていくと、そこは広く陰っている場所だった。


「涼しいですね、ここ」

「夏場は居心地がいいんですよ。今日は垂乳根の銀杏も機嫌が良さそうですし」


 タラチネ? と眉を顰めるとオイネさんが笑ってある方向を指さした。そこには立て看板が置かれていて、「垂乳根の銀杏と歯固め塚」と書かれている。オレが説明文を読んでいると、オイネさんはそのすぐ脇にある椅子に座って紙袋の中身を覗き込んだ。


「おやおや……」


 楽しそうに袋から取り出したのは一冊の本だ。軽く表紙を叩いてから開き、オイネさんはそこに挟まっていた紙を見た。


「船江さんが届けたかった荷物って、本だったんですか?」

「正確には、本とこの手紙ですね。ボクは電話を持っていないので、連絡を取る時はこうやって手紙と本をもらうんです。本は好きなんですけど、ボクは境内から出られないので船江さんはこうやってわざわざくれるんですよ。彼は古本だからいいといつも仰るんですけどね」


 そうなのか。普段西萩所長を何度もひっぱたいている姿からは想像できない優しさだ。オイネさんが自分の横を軽くぽんぽんと叩くのを見て、オレは慌ててそこに座った。すぐ横に座ったオイネさんは顔色こそあまりよくないけれど、どこからどう見ても人間に見える。これが本当に人間じゃないなんて、と不思議に思った。


「確か、あなたはあの事務所の新しい所員でしたね」

「はい、川越といいます」

「ふーむ……」


 オイネさんはオレの頭のてっぺんからつま先までじっくりと視線を送ってきた。一体何を見られているんだ、と不安になる。もしかして、いつも西萩所長が船江さんに殴られてるみたいにオレも殴られてしまうのだろうか?


「……あなたは」

「ひゃい」

「ふふ、そんな警戒しなくても大丈夫ですよ。危害を加えたりしませんから」


 けほけほと咳き込みながら笑うオイネさんを見ていると、なんだかビビっていた自分が馬鹿みたいだ。オレは肩の力を抜いて改めてオイネさんと向き合った。


「すいません。オレ、怪異? とかそういうの全く視えないからこういうの初めてで」

「やっぱり視えない方なんですね。事務所に来た経緯も、視えないところも所長さんと同じですか」

「経緯?」

「ご存じないんですか? 私が知っている限りでは、アルバイトとして入ったのは今の所長さんとあなたくらいのものです」

「えっ、所長ってアルバイトだったんですか?」

「おや、船江さんは教えてくれなかったんですか?」

「全然知りませんでした!」


 オレが驚いているのと同じようにオイネさんも驚いている。少し咳き込んでから、彼はマフラーの位置を直した。


「ボクも直接所長さんに会ったことは何度かしかないんですが、あの人は何と言うか、いつも隔たりの向こうから物を見ているような気がします。ただの人間なのにあの事務所の責任者だなんて、不思議な方ですね」


 ただの人間。その言葉がオレの胸に少しだけ刺さった。オレだってただの人間だ。西萩相談事務所で働くのなら、やっぱりオレも何か変わらなくちゃいけないのだろうか。そう思って口を開こうとした時、オイネさんがオレの口元に人差し指を置いた。


「川越さんはそのままでいいと思いますよ、ボクは。あなたは、例えるならカスミソウです」

「かすみそう」

 ピンと来ない花の名前を口の中で繰り返すと、彼は懐から一枚の栞を取り出した。そこには白い押し花が綴じられている。綺麗だな、と素直に思った。白い花を指でなぞりながらオイネさんが教えてくれる。


「これがカスミソウです。明るく、優しく、春の訪れを感じさせる可愛らしい花。あなたはこれによく似ています」

「そうなんですか?」

「そうです。カスミソウは長日植物で、長く陽の光を浴びていないと開花できません」


 オイネさんは栞を戻しながら言葉を続ける。


「確かに、あの事務所は変わった二人が仕事をしています。でも、その二人にはない何かがあるから、きっとあなたはあの事務所に受け入れられたのではないですか?」

「無理に変わる必要はない、ってことですか」

「そうともいいます」


 悪戯っぽく笑って、オイネさんはまた咳き込んだ。少しかすれた声で彼は言う。


「少し長くしゃべり過ぎました。ボクは今日は休みます」

「あ、なんかすいません」

「いえ。新しい出会いなんてそうそうないですからね。よかったらまた遊びに来てください」


 椅子から立ち上がって数歩前に進んでから、オイネさんは思い出したようにこちらを振り返る。生温い風がマフラーの裾を揺らした。


「船江さんにこうお伝えください。「困った時はいつでも来なさい」と」

「は、はい」


 オレが返事をすると、満足したように頷いて、今度こそオイネさんは歩き出した。瞬きをする間に、本当にあっという間に消えてしまう。オレは何度か目をこすったが、オイネさんの姿もオレが持ってきたはずの紙袋も見当たらなかった。





 日が傾いてきた。今日と明日は休みだから、久しぶりにゆっくりできる。掛け持ちしたバイトの激務を忘れられるしばしの休息だ。積んでいたゲームも少しくらいなら消化できるかもしれない。とりあえず、明日香さんとオイネさんから預かった伝言を事務所の二人に伝えなくては。オレはそう思いながら二人がいる事務所までの道を歩いていた。


 少し近道をしよう。そう思って、いつもとは違う道に入る。薄暗くて治安がそんなに良くないから普段は使わない道なのだが、ショートカットするならここが一番効率のいい道だ。先日迷子になって見つけたルートを歩いていると、曲がり角から人の声が聞こえた。


「……あぁ、うん。それじゃあその件はよろしく。警察はボンクラだからあんまり気にしなくていいよ。そっちは僕も手をまわしておくし。死体の処理はいつものところに連絡しておけばいいからね……うん。それじゃあ、また」


 とんでもない話を聞いてしまった。警察? 死体? もしかしてオレは犯罪の計画でもうっかり知ってしまったのか。幸い、電話をしている相手はオレに気が付いていない。このまま来た道を引き返せば。


 咄嗟にオレは踵を返してゆっくりとその場を離れた。音を立てないように、慎重に。足音を殺しながら戻ろうとすると、突然背後から服を引っ張られた。反応できず、そのまま後ろに倒れこむ。尻もちをついて、引っ張った相手を見れば、それは見たことのある顔だ。というか、毎日見ている顔にそっくりだ。その人はパーカーのポケットに両手を突っ込んでニヤニヤと笑った。



「誰かと思ったら、昇汰くんとこの事務所の人じゃん。こんなところで何してるの? 盗み聞きなんて趣味悪いんだけど」




 それは所長と顔がそっくりな、従兄弟の西萩縁だった。

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