第五話 川越亘、初めてのおつかい(明日香編)
オレが西萩相談事務所にバイトとして出入りし始めてから三か月が過ぎた。いつもならヘマをすればすぐにクビになるところを、この事務所の西萩所長と船江さんはなんと受け入れてくれているのだ。それが単なる優しさなのか、それとも別の意図があるのかは知らないけれど、今とてもお金を稼がなくてはいけないオレにとっては実に好都合なのだった。(この事務所、何故かとても時給がいい。一度理由を聞いたら「守秘義務があるから」と西萩所長は笑っていた。)
で。これは昼頃の話である。
「あ、川越くんちょっといいかな」
「はい、何ですか所長」
いつも通り事務所の掃除を終えて部屋の隅で大人しくお茶を飲んでいると、所長がオレに手招きした。船江さんは自分のデスクで何やらパソコンの画面を睨みつけている。西萩所長はデスクに置かれた紐付き封筒を指で軽くとんとんと叩いた。
「悪いんだけどこの書類、明日香に届けて来てくれない?」
「あす……?」
オレが頭に疑問符を浮かべていると、船江さんが助け舟を出してくれた。
「そいつがよく使ってる情報屋だ。そういえば会ったことはないんだったな」
「名前だけは何回か聞いた気がするんですけど」
「一時になったらスタバに来てくれるらしいから頼んだよ」
そう言うや否や、所長は立ち上がって事務所のドアから出て行った。その背中を呆然と見送りながらドアが閉まる音を聞くと、船江さんは深く息を吐く。
「最近あいつ、妙にイライラしてるんだよな」
「ですね……やっぱオレがコップ割るの怒ってるのかな……」
「それはないな。多分この前来たあいつの従兄弟のせいだろ」
「あぁ、あの所長そっくりな」
オレがそう言うと、船江さんは「それ言うともっと機嫌悪くなるからやめとけよ」とだけ返した。オレは西萩所長が置いていった書類を手に取り、時計を確認した。時刻は午後十二時十五分、事務所から歩けば問題なく間に合う。
「そうだ。川越、お前時間あるか」
「はい? 明日は休みなんで全然ありますけど」
「じゃあこれもついでに頼まれてくれ」
ほれ、と船江さんが差し出してきたのは紙袋だ。反射的に受け取ってから、オレは紙袋と船江さんの顔を見比べた。困惑したオレを見て船江さんは眉を上げた。
「あの、これは?」
「知り合いに渡してほしい。溝口神社は分かるか?」
「はい、一応」
「西萩の用が済んだらでいいから、この荷物を老嶺さんに渡してくれ」
そんなこと言われたって、オイネさんって誰ですか。喉まで出かかった言葉を飲み込み、オレは頷いた。船江さんは満足したようで、さっさと給湯室にコーヒーのお代わりを取りに行ってしまう。オレは彼の後を追いかけて、給湯室に顔だけ出しながら聞いた。
「あの、オイネさんってどんな人ですか?」
「あ? お前老嶺さんにも会ったことなかったのか?」
「この時期にマフラー巻いてるってどんなだよ……」
オレの独り言は、フラペチーノと一緒に口の中に吸い込まれていく。船江さんから聞いたそのオイネさんの特徴を思い返しながら、ずるずると行儀悪く中身を啜った。スマートフォンの電源を入れて画面を見れば、そろそろ明日香さんが来る時刻だ。どんな人だろう、と窓の外を見ていると声を掛けられた。
「あ、もしかしてあなたが川越亘さんですか?」
「え、あ、は、はい!」
立ち上がろうとして、机に脚をひっかけた。騒々しい音と共に椅子が倒れ、またやってしまったと頭を抱える。慌てて元に戻そうとしゃがんだら、今度は机に頭をぶつけた。
「いっ……!」
「大丈夫です?」
アイスコーヒーが乗ったお盆を持ちながら、呆気にとられた表情でオレを見る女の人。この人が情報屋の島永明日香さんなんだろう。ぶつけて痛む頭を押さえながら、オレは目の前の女の人をまじまじと見た。
まず、髪の毛の色が凄い。百均に売っている画用紙みたいなオレンジだ。てっぺんから毛先まで全部オレンジで、もしかしてウィッグなのだろうかと疑った。服装も暑いのに真っ黒いコートを着ていて、しかも汗一つかいていない。丸っぽいフレームの眼鏡の向こうでアイシャドウがきらきらしていた。
「あの、ほんとに大丈夫ですか? どこか怪我でも?」
「い、いえ! 全然大丈夫です! すいません!」
じっと見過ぎてしまったようで、女の人は怪訝な顔をしている。オレは今度こそ粗相のないよう慎重に椅子を直してから座った。女の人はそれを確認してから、オレの向かい側の席に腰かける。
「それで、川越亘さんであってますよね」
「あってます。えっと、島永明日香さん?」
「そうです! わあ、初めまして! 噂はかねがね!」
よろしくお願いします! と元気よく差し出された手を握り返す。柔らかくて暖かくて、女の人の手だなあと思った。
「あの、噂って?」
「西萩相談事務所の新しいバイトさんだそうじゃないですか! あそこの事務所、ここ数年ずっとあの二人が切り盛りしてたから新人なんて珍しいなって思ってたんです。なんか可愛いタイプですねー、実は攻めとか? 見たところドジっ子だから健気なわんこ攻めかなぁ。ゴールデンレトリバーみたいで髪色も可愛いですね!」
「え?」
「あ、分からないです? じゃあスルーしていただいて大丈夫ですよ。持病みたいなものなんで」
「は、はあ……」
言っていることが二割も理解できなかった。辛うじて髪の毛を褒められたことだけは分かる。昔からあまり好きじゃない天然パーマを掻きながら、オレは西萩所長に頼まれていた用事を思い出して、急いで鞄から封筒を取り出した。
「あの、これ所長からの預かりものです」
「ありがとうございます、確かに受け取りました!」
そう言いながら、明日香さんは封筒の紐をするすると解いていく。中身を検め、何度か頷いて書類を仕舞った。
「この件はまた後日西萩さんにお電話するとお伝えください」
「分かりました」
「でも……変だなぁ」
ふと、ストローから口を離して明日香さんが呟いた。
「普段だったら西萩さん、この程度の依頼は手紙なんて使わないのに」
「そうなんですか?」
「はい。いつもならこんなの電話一本ですよ? 何か理由があるのかな」
「うーん……オレにはちょっと心当たりが……」
ないわけではないが、この人に所長の従兄弟の話をするべきではないと第六感が告げている。なんとなく、明日香さんに教えるととんでもないことになりそうな気がした。とりあえず愛想笑いを浮かべれば、大して気にしていなかったのか明日香さんはそのまま唸りながらアイスコーヒーを吸い込む。ポーションミルクと砂糖が混ざりあった液体はストローを伝って、グロスの乗った艶やかな唇に……。いや、オレは何を見てるんだ?
「あ」
「はい⁉」
「あ、すいません。新刊のネタ降ってきて……驚かせちゃいました?」
「い、いや、大丈夫です!」
ひっくり返った声を誤魔化すように顔の前で何度も手を振る。気が付かれたかと思った。安堵に胸をなでおろしながら息を吐くと、うふふ、と明日香さんは笑った。
「その感じだと川越さん童貞ですか?」
「どっ……⁉」
「あ~~~いいですねいいですね! ネタ固まってきました! それじゃあ私、今すぐやらなきゃいけない
一息に残りのアイスコーヒーを飲んで、明日香さんは颯爽と立ち上がりあっという間に店から出て行ってしまった。
嵐みたいな人だ、というのが正直な感想だ。本当にあんな不思議な人が、西萩所長が信頼している情報屋なのだろうか。年もオレと近そうだったし。
「……わっ、あ」
動かした手が引っ掛かって、フラペチーノのカップが倒れた。幸いにも飲み終えていたために、机にも服にも被害はなしだ。珍しくラッキーだった、とほっとする。普段はこんなこと滅多になく、物をこぼしたり倒して割ったりばかりで大騒ぎにしてしまうので本当に良かった。さすがにオレも天下のスタバを出禁になりたくない。
よし、と気合を入れなおして席を立つ。次は確か、船江さんから頼まれた荷物だ。そのオイネさんって人にしっかり渡して、クーラーの効いた事務所に戻ろう。
店を出て数歩歩いてから、オレは慌てて店から出てきた店員に呼び止められた。
「お客様! 忘れ物ですよ!」
「あっ」
……渡す前に、しっかり荷物を持たなくては。
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