第32話 テル婆さん、大絶叫!
須又温泉再開を明日に控え、地元住民を無料で招待する “お試し入湯体験会” が催された。無料とあって銭湯は大盛況となった。
幼い子どもたちには “カツラの笊” が大人気だった。長老の伝三郎たちは湯に浸かりながら、子供たちがそれぞれに好きなカツラを被って、男湯と女湯を自由に駆け回ってはしゃぐのを微笑ましくが眺めていた。
「見ろよ、源さん。
「羨ましいもんだな。女湯も自由に行ったり来たり」
「まあ、ひとつ難を言えば、女湯は枯れ木林だがな」
「男湯だって変りねえだろ。こうして湯船に浸かっているオレたちは、まるで合同棺桶に入っているようなもんだ。番台で
「オレたちの年齢だと、おでこの三角はリアル過ぎるだろ。でも、あれだな」
「なんだよ」
「芯から温まって来ると、なんか腹が張って来るな」
「…そうだな」
「家の風呂でなら思いっきりぶっ放せるんだがな」
「あれがないと始まらないよな。だけど、ここではまずいだろ」
「だよな」
「それに間違って実のほうが出たら、一大事だ」
「年を取ると実かどうかの判断に困るからな」
「判断に困るなー」
「かと言って、洗い場でやるのもなんだしな」
「洗い場のほうが隣にバレやすいな。ここは響くから」
「入る前にトイレに行ってくりゃ良かった」
「今からでもいいんじゃないか?」
「湯冷めするだろ」
「それもそうだな」
「やばいなー」
「どうした?」
「 “湯冷め” の言葉で小さいほうも模様して来ちまったよ」
「敏感だな、おめえ。前後からの攻撃か…そりゃ愈々緊急事態だな」
「行くしかないか」
源治はトイレに走った。運悪く町会議員の鈴木泰蔵が先客で並んで待っていた。
「源さん、あんたもかい?」
「・・・・・」
「大丈夫か?」
「今はなんも話し掛けんでくれ、泰蔵さん」
「あんたも相当来てるな、ウッ!」
泰蔵は強張った。源治に話し掛けなければ良かったと思った。二人は肩でゆっくりと呼吸を整えて耐えた。番台のキヨが睨んで声を掛けて来た。
「おい、お二人さん…我慢できなかったら女湯の便所を使いな」
「いいのかい?」
「しかたないだろ、今は使用中になってないから」
「泰蔵さん、あんたに最初の権利がある。お先にどうぞ」
源治は痩せ我慢で強気に出た。
「いや、私は立場上、そうもいかんのだ。町会議員としては女子トイレを使用するのは憚られる。ここはあんたに譲るよ」
源治は一瞬迷ったが、そのまま女湯のトイレに走った。次の瞬間、トイレから“ギャーッ”という悲鳴が聞こえて来た。キヨが女湯のトイレを睨むと、中に居た先客のテル婆さんが防衛体制で固まったところだった。その前で棒立ちの源治の放尿が止まらなくなっていた。
「テルさん、便所に入ったら鍵を掛けろって毎回言ってるでしょ、源さんが手遅れになっちまったじゃないの!」
「あたしが悪かったよ、ごめんよ、源さん…」
そう言いながら、テル婆さんは源治の一物をチラ見して頬を赤らめた。それを見ていた町会議員の泰蔵も “アッ” と唸るなり、タオルを尻に当ててしゃがみ込んでしまった。
そんなこんなで、楽しいお化け屋敷温泉の “お試し入湯体験会” は賑やかに閉店となった。
湯客が去った後、五代目の太が浴場の清掃に入ると、湯船の表面は結構な垢が泡となって浮いていた。近頃の客は掛け湯すらせずに風呂に入りやがるとぼやきながらも、年寄りたちは銭湯がないから風呂に入る機会も減って垢が溜まってたんだろうと気の毒にもなった。
ふと湯船の隅に目をやると、客が一人、まだ湯に浸かっていた。
「お客さん、まだ居たんすか? もう閉まりますよ。水抜きだけさせてもらうんで、急いでくださいね」
太は男湯の湯抜き栓だけを抜いて、女湯の清掃から始めることにした。男湯の湯面がどんどん下がると、ひとり残った客はその湯面と一緒に沈んで、ついには湯と一緒に浴槽から消えていった。
女湯の清掃を終えた太が男湯に戻ると、残り客が居ないことを確認して清掃を始めた。
「…ったく、女湯も垢がひどかったな。トイレも汚しやがるし…とは言っても、一人で湯に入って倒れでもしたら、ことだしな」
ぶつぶつと独り言を言いながら女湯の清掃を終えて、男湯の脱衣室に向かうと、まだ着替えている男が居た。さっきの湯船に浸かっていた男だ。今日は地元民だけのはずなのに、見覚えのない男だった。
「お客さんは誰かのお知り合いですか?」
もしかしたら、実家に帰郷してる人かなと思いながら、そう聞いてみた。男は太の言葉に微笑で応え、無言のまま着替えを終えて須又温泉を出て行った。
「気持ち悪いやつだな…ポニーテールなんかしやがって微笑かよ」
太は急に悪寒が走った。
「おお寒ッ! 久しぶりの風呂掃除で風邪引いたかな」
「終わったか!」
商店会監事の梅畑が “お試し入湯体験会” の打ち上げが始まっても来ない太を迎えに来た。
「今、終わったところだ」
「仕事が遅えよ、おまえ! もう始まってるぞ!」
「今、やっと最後の客が出てったところなんだよ。入口で会ったろ」
「入口で?」
「会ったろ? ポニーテールのやつと。今日は地元の住民だけなのに、誰だよ、知らないやつ連れて来たのは!」
「あのさ、入口では誰にも会ってねえよ」
「今、入口で擦れ違ったろ」
「誰と?」
「ポニーテールの微笑の男だよ、ああー気持ち悪ッ!」
「何言ってんだよ、おまえ? 誰とも擦れ違ってねえよ」
「なんで !?」
「なんでって、なんで?」
「ああもう、面倒臭えな! この微妙なタイミングで悪い冗談はやめようぜ」
「おまえさ・・・オレをからかってんの?」
「それはオレのセリフだよ! やめようよ、こういう話はな」
梅畑は悪寒が走った。
「ああ…やめたほうがいいよな…やめよう」
「凍死があったの…その辺りだろ?」
「やめろよ!」
居酒屋 “おこぜ” での打ち上げは盛り上がっていた。梅畑と太は、やめようと言ったはずの話を蒸し返していた。
「思い出した…前にどっかで見た顔なんだよ」
「地元のもんか?」
「いや、地元じゃない…そうだ、亡くなった峰岸さんだ!」
「峰岸さんって、峰岸譲司さん?」
「そう、峰岸さんがイベントで亡くなった時の主催者だ!」
「知ってる人か?」
「いや、新聞で写真を見ただけなんだが…」
「じゃ、ちょっとは有名人か?」
「比立内で熊に殺された埼玉県の人だ」
「死んだ人か !? 死んだ人を見たのか !?」
「・・・・・」
「おい、太?」
「…見てしまった…死んだ人を見てしまった」
二人だけが入口近くの片隅の澱んだ空気の中に居た。
〈第33話「万蔵の罠」につづく〉
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